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1月, 2024の投稿を表示しています

日々の考察 vol.17 この国のおっさんたちへ

えらいもので今年に入って特にテレビの中のおっさんがめちゃくちゃ怒られている。 そしてそのおっさんたちはすべからく変態なのである。 ジャニーズ問題で亡くなったとはいえ、逆輸入なドキュメンタリーをきっかけに、一つのおっさん帝国が終了した。 次はお笑いおっさんファミリーである。今わたしたちはここにいる。 どちらも性暴力事件であって、そういうことについては法制度に至るまでここ日本では早急にアップデートすべき案件なため、逆説的ではあるけれどこれらの議論の結果、今は 日本社会が進化できるかどうかの大きな転機 になりうる状態ではないかと、わたしは期待を込めて見ている。 変態が先なのかおっさんが先なのかわからないが、とにかくおっさんはそんな変態行為の数々を恥じないことが大きなターニングポイントである。つまり、そういう発言を恥じるべきモラルがないおっさんは、もれなくさらに加速し悪化する。 誰でもが気分を害していても、自慢話にするし、 なんなら「人前でできる自分」という権力が自分にあると思い込んで酔ってしまい、威張ってみたりする。そう、おっさんは自分に一定の権力があることと、社会的なモラルを守らなくていいこととをセットの特典のように考えているみたいだ。馬鹿馬鹿しいのだけれど、実際にはそんな勘違いこそが、おっさん病の症状なのではないか。元々そんな人ではない、などという言い訳は関係ない。そういう勘違いこそが大問題なのだ。 今回の吉本興業の芸人さんを中心とするダウンタウン松本の報道というのは、あまりにもカッコの悪い、悪質極まりない事件の数々にまつわるものである。いろんな意味で男の持つ暴力性の限りを尽くした悪質さに、女性たちは生理的な嫌悪感を覚えるのだ。 相当に具体的な記事の言葉を耳にする女性のほとんどが吐き気を覚えるような時間についての供述が、毎週週刊誌に暴露されている。 一方、この激化する報道に際して「それほどじゃない」というような擁護論も出ているらしいのだが、それは今回おいておく。ちょっとそれとは別に「ほらほらまたまた…」とでもいうような意見も見られるようになった。 それについて書いてみる。 基本的にわたしは芸人に対して批判的なメディアの方を多くみているのだけれど、YouTubeなどでは、自覚なく悪ノリするおっさんが出てきた。 それが非常に不快なのだ。 例えば、そんなおっさんは松本人志を...

日々の考察vol.16 コロナ以前と以後の福祉について

  コロナのパンデミック中から、この現象 はこの国の福祉にとって今後きっと非常なほど悪影響をもたらすものになるだろうとおおかた予測していた。とても嫌な予感がしていた。 元々どういう考え方の事業所だったかを問わず、「支援する側」に「支援するかしないかはこっち次第」という勘違いをさせてしまえるほどには、強烈な社会の変容だったと思っている。 人手不足だとかいう根拠も根強いけれど、実はパンデミック以降の価値観の変化が、とてもわたしたち当事者には辛い。 信頼関係を構築するはずのヘルパーさんにそんな態度を示されることは、実際に病原菌よりメンタルにくる話である。 わたしとしては、そんな感覚の事業所なら、そもそも対人の業務を必須とされるような事業を止めることをお勧めしたいけれど。 日本の福祉の問題を構造的に考えようとするけれど、現場はわたしの家である。異常とも言える言い分を毒のように撒き散らしていく人たちを相手に、わたしはずっと何かに試されている気がしている。 「こんなことを続けていたら理性を失くすのではないか」そういった不安に駆られるからである。 先日、あるヘルパーが、わたしの友人からきたメールに勝手に返事を書いたことがあった。もちろんヘルパーの意見を勝手に返事にしてしまったのだ。 あり得ないことが起こったと思ったので、その場で注意したが、彼は「僕の方が恋愛相談は得意なんで」と言ったまま訂正も謝罪もしなかった。 このような出来事が、異様に非常識で、「大ごと」と知らないみたいだった。簡単にいうと、犯罪なのである。しかし、そのヘルパーがいる事業所は、開き直って「そのヘルパーがストレスで行きたくないと言ってるんですよ」と責め立てた。何がストレスなんだと呆れはするが、逆にそんなこともわからない人をわたしは今まで家に招き入れていたのかと愕然とした。その事業所丸ごと更生が必要な段階でしかない、そんな稚拙さに付き合う理由がどこにあるのかわからない。しかも彼らは、あらかじめこちらの話は聞く必要がないという話の仕方しか知らない高圧的な態度しかとらない。つまり電話で「まともな会話」すらできないのである。だから会う約束すらできずにいる。 その前に来て去っていたところも、またその前に来たところもそれぞれに異常な言動をして去っていった。共通するのは、自分の未熟さを差別を利用することで済まそうとする...

差別はうざい。侮蔑という差別の日本に、マイケルは何をもたらすのか。

サンデル教授に聞く「能力主義」の問題点。自己責任論の国・日本への処方箋は? 【マイケル・サンデル×平野啓一郎特別対談】 なるほど、自己責任。あの頭にくる言い分ね。平野さんはそこから引っ掛かっているのもよくわかる。 確かにその表現には、発言者にとって自覚のない侮蔑の言葉としての匂いがプンプンしている。 差別も腹立たしいが、侮蔑は相手の生きる気力を奪う。話の最中に出てきたら、その腰を折る言葉なのだが、それが相手にとって自ら命をおえる決断へのトリガーになりうるほど強い言葉でもあるとわからず使う人も多い。流行り言葉としては最悪だ。 実際、社会という構造の中で生きていれば、自己責任なんて皆無なことは誰でもわかるはずなのだ。 先にそれを列記とした真実として強く信じていれば済むのだが、「社会的弱者」というのは何が弱いと言って勇気を振り絞る場面や決断することにとても弱い。自信がないのだ。それで恐る恐るコミュニケーションを取った相手に自己責任と言われたら、絶望する。 能力主義とは一体どういったことを指すのか、とわたしは最初に思った。 この場合、 なるほど、人をその実力で評価することそのものね。 そもそも、誰かに何かの肩書きみたいなものがあるということ、誰かが何かを持っているということと、その人の良し悪しは根本的に違う話ではないか?とわたしは思っている。 わかりやすく言えば、金持ちで性格の悪い人というのも山ほどいる。 なんとなく思いつく人はいませんか? 昔話にもよく出てくる例である。 しかし、いつの間にそういう能力主義という価値観が主流になっていたのだ? 日本の会社などでは給料査定などの場面では「理想として」そうなのだろうけどねえ。 もちろん人間性とは別の話である。そう思うけどねえ。 平野さんも言っているが能力主義というほど能力が成熟していない集合体の社会なのだ。つまり、能力主義というほどでもない社会なのです、と平野さんが言っているわけだ。日本と欧米の違いというものでもあると、この辺りはやはりお二人の指摘が入った点ではある。ただ、日本も確実に能力主義にシフトしつつあるのも事実なのだ。 ま、実力という抽象的なことでいうならお金だけではないので、この本のタイトルとして忠実にいうなら、チャンスはお金や学歴のある人の方が多いから、それは威張ることではないという感じではないではないか。 100%...