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ヴィーガンに貧乏人はいない

  環境問題について、昔からずっと思っていることがある。 その理論の基本はわたしたちが住む地球のすぐ先のこれからについてのものであるから、あくまでも全人類が自覚的にしかも早急に取り組むべきなのだという、重大な問題であるという。 しかし、ここ日本だけでなく、どんなに自然災害を体験しても、目撃してもそれが普遍化することがなかなか起こらない。懲りたと言う人たちでこの世の中は溢れていくのに、なぜそういった感覚にならないのか。そういった運動につながらないのか。 特に日本において、自分の身に起こる不幸は、自分や身の回りの誰かのせい、と言う程度の認識に収める人がほとんどである。そのうちの特に多数の人たちは、たとえ自然災害ですら自分のせいのように考えてしまう。被害の跡をなんとかできない自分たちの資本力のなさのせいだと考えたり、時には先祖への弔いをきちんとももっとすべきだったなどと考える。場合によっては、自らがいかに悲惨な状況下にあっても、遠方の家族に世話になることを申し訳なく思って拒否する例もあるだろう。 そういった社会において、環境問題を普遍化することは、非常に困難である。 一つは今述べたような、さまざまな問題に出会った時に、それが環境に起因する問題であるという認識を一人ひとりが持つように社会的にできていない。これは構造的な問題だけでなく、文化的な背景も大きいとわたしは考えている。 ことに日本において、環境問題の被害者になることは、ただの運に過ぎないことの方が多い。 そしてその被害者は悉く社会的に貧困層として存在する。 たとえばドイツの財政難は、環境保護対策に様々な形で影響を与えている。 以下、簡単にその考察を述べる。  ドイツの財政難は、環境保護対策に深刻な影響を与えつつある。  再生可能エネルギーへの投資減少、原子力発電再稼働議論、環境規制緩和圧力など、様々な課題が浮き彫りになっている。  これらの課題に対処するためには、持続可能な経済モデルへの転換、国民への丁寧な説明と合意形成、国際協調の強化などが不可欠です。  短期的な経済的利益と長期的な環境保全のバランスをどのように取るかが、今後のドイツの環境政策の成否を左右する重要なポイントとなる。 もうこのように、環境問題というのは厳しすぎる現実にぶち当たっている。 現実といえば、貧困層の人は...

兵庫県知事問題:民主主義の限界と、それでも希望を捨てたくない私たち

斎藤元彦兵庫県知事 NHK出演も質疑かみ合わず 実績誇示にキャスターから制止 告発者捜しは「法の課題にも」ベストの対応主張 9/22(日) 17:35 配信 2009 コメント2009件  斎藤元彦兵庫県知事  パワハラ疑惑による県政の停滞を招いたとして、議会から不信任案が可決した斎藤元彦兵庫県知事が20日、NHK「かんさい熱視線」に出演。キャスターや県政担当記者からの質疑が終始、かみ合わなかった。 【写真】目を真っ赤にして涙ぐみながら答える斎藤兵庫県知事 https://news.yahoo.co.jp/articles/979fb7110840521a205a7b7f0bcadb9cc55527ef 今日も兵庫県知事の問題である。この間とにかくわたしはずっとあまりにも興味深すぎて毎日ニュースに釘付けだった。 県職員に対するハラスメント、それを隠蔽しようとした事実、そして不信任案可決… まるでドラマのような展開だった。でもよくこれはわたしたちが生きている社会そのものの縮図なのかもしれない。だからこそわたしは毎日その問題から目が離せなかったのかもしれない。 あの知事は、自分の非を認めようとしない頑固さで、もはや新手のヒールとしてエンターテイメント性まであった。毎日増えていく、これだけで十分映画化できそうな程のエピソードの多さにも驚いた。 でも、彼の行動は、単に「面白い」だけじゃ済まされない。 彼の言動は、権力者の傲慢さ、そしてそれを取り巻く人間関係の歪みを露呈した。 議会側の対応も、正直、モヤモヤが残る。 確かに知事の行動は問題だけど、あの「集団による排除」のような様相は、見ていて気持ちのいいものではなかった。 まるで、学校で「変わり者」を仲間はずれにするような、どこか残酷な感じが漂っていた。 民主主義社会において、議論を尽くすことは重要だ。 でも、あの知事の場合、どんなに丁寧に説明しても理解できないんじゃないかと、正直思ってしまう。 彼は、自分の行動がなぜ問題なのか、理解できていないし、今後も理解する可能性はないのかもしれない。 でも、だからと言って、議会側が一方的に議論を放棄していいのだろうか? あの知事の「鋼のメンタル」は、ある意味、彼の「頑固さ」の裏返しなのかもしれない。 彼は、自分の考えを変えることを拒否し、周囲の意見を聞き入れようとしなかっ...

日々の考察vol. 24 ハラスメント加害者に望むこと

最近、あちこちに流出した官僚の始末が非常に悪く、とてもとても日本の政治によくない出来事をもたらしている。 今話題の兵庫県知事も官僚の天下りでもあるし、他にも地方自治があちこちで悲鳴を上げ始めているところには、本当によく元官僚が絡んでいる。 彼らは、他の立候補者との差別化を図るときに、「インテリっぽさ」を武器にしがちで「さすが頭がいいのですね」と言われることも多い。実際は中身があろうがなかろうが、しつこく屁理屈を繰り広げてでも食い下がったりするので余計に目立つだけなのだ。 旧態依然とした慣例に基づきがちなおっさんの政治やその世界に怯まず切り込んでいくその姿に、かっこよさと憧れを感じて淡い期待をしてしまう若い人たちを支持層とするのだ。 しかし、考えてみてほしい。 彼らは「官僚」であった人たちである。官僚の仕事とは 今どんな環境でおこなわれているのか。一体彼らはどこからきてそこはどんなところだったのか。 霞ヶ関というところは、今の日本の公務員の中でもずば抜けてブラックな職場である。長い受験戦争をトップでくぐり抜けてきた彼らは、そこで「働くとはこういうものか」と仕込まれる。この国では珍しいほどに高いプライドを持ちながら、「政治家」というだけのいい加減なおっさんの我儘に付き合わされるのである。一般的にそんな理不尽な職場ならとうに改善されていてもおかしくないのだけれど、なかなかそうはいかない。 愚民のように制度そのものをひっくり返したりすることを、エリート官僚は望まないからだ。彼らは元々ある型を崩すような考え方はしないのである。なぜなら、政治(型)を動かしているのは実際には自分達なんだという自負があるからである。 かくして出来上がった「官僚崩れ」というか官僚の天下りとなる人材の歪みは生じているのではないか。 国政に携わる政治家のように横柄で、とんでもないエリート意識に支えられたプライド。もうすでにやりにくいタイプである。 わたしは常々人がその人にとって適切なプライドを保ち、他者のプライドを尊重する ことはどういったことか、とよく考える。 そういった場面では、多様性に基づくその人それぞれの事情を踏まえたものが想定されるが、それと違って先ほどから述べている官僚のプライドというのは、どうも非常に画一的な気がしてならない。自らを自動的にその集団においてずば抜けたエリートと振り分ける設定...

日々の考察 vol.22 虐待って終わるのか。どうやったら終わるのか。

最近とてもえげつないニュースが多い。 どうやらあっちこっちの公務員の方々が無茶をしているようで、記者会見ばかりが目につく。 あっちでペコペコ、こっちでペコペコ、合間に開き直るやつやら、おっさんというのは本当に人の事情より自分の事情なんだなと思う。 ここのところ、虐待によって起きるニュースも多く、その度に児相だの施設管理者だののおっさんが似たようなことを言い訳しながら謝罪しているのだ。つくづく奇妙な時代である。虐待はかなり熟練の第三者によって判断されてしまうくせに、その判断の基準は被虐待者の気持ちによるという責任逃れな構図があるから、結果的になかなかいい加減なことになり、結局悲劇は起こるべくして起こる。こういった相談機関は、すぐに「業務としての関わりの限界」を言い訳にするが、そのような方は、そもそもそのような職業に向かない。自分の立場のために判断することを嫌うような大人が子供を助けることは無理なのだ。後から悔やむことは誰でもできるが、命を救うことの責任が取れないなら、そもそもいない方がいい。 業務の前に一人の人間であることを忘れてしまうような人は福祉業界にいてはいけないのだ。 これが公務員というものかと実に情けない。自分の愚かさを競い合ってどうする。なぜおっさんにはまともな羞恥心もないのか。 虐待事案において、正直言って自分で今虐待を受けていると自覚できる人は大人でも少ないのではないだろうか。やっている側もそうかもしれないけれど。 本人としては、ただそのようなものとひたすら教えられるとともに、圧倒的な受け身でしかないからだ。だいたいその空間には、真っ当な常識的モラルはないのだ。だから良識ある第三者がその常識的モラルにおいて介入して支援しなければ助けられないのだ。ややこしい理屈を捏ねていることと命を助けることはどちらが優先されるか、それこそ本来悩むまでもないことのはずなのだ。つまり根本的に命を助けない理由というのはありえないからだ。 さてわたしの育った環境は、その点においてとても酷かったみたいだ。 そんな過去の一コマを話すにしても、毎回毎回「実際あったよりひどく話していないだろうか?」とわたしは自問自答する。表現し難い暴露に伴う罪悪感や、この期に及んで事態を矮小化しなきゃという気持ちが瞬時に働き、それが実はとても疲れるのだ。自分の中の気持ちがとても巨大な綱引きをするみた...

日々の考察vol.16 コロナ以前と以後の福祉について

  コロナのパンデミック中から、この現象 はこの国の福祉にとって今後きっと非常なほど悪影響をもたらすものになるだろうとおおかた予測していた。とても嫌な予感がしていた。 元々どういう考え方の事業所だったかを問わず、「支援する側」に「支援するかしないかはこっち次第」という勘違いをさせてしまえるほどには、強烈な社会の変容だったと思っている。 人手不足だとかいう根拠も根強いけれど、実はパンデミック以降の価値観の変化が、とてもわたしたち当事者には辛い。 信頼関係を構築するはずのヘルパーさんにそんな態度を示されることは、実際に病原菌よりメンタルにくる話である。 わたしとしては、そんな感覚の事業所なら、そもそも対人の業務を必須とされるような事業を止めることをお勧めしたいけれど。 日本の福祉の問題を構造的に考えようとするけれど、現場はわたしの家である。異常とも言える言い分を毒のように撒き散らしていく人たちを相手に、わたしはずっと何かに試されている気がしている。 「こんなことを続けていたら理性を失くすのではないか」そういった不安に駆られるからである。 先日、あるヘルパーが、わたしの友人からきたメールに勝手に返事を書いたことがあった。もちろんヘルパーの意見を勝手に返事にしてしまったのだ。 あり得ないことが起こったと思ったので、その場で注意したが、彼は「僕の方が恋愛相談は得意なんで」と言ったまま訂正も謝罪もしなかった。 このような出来事が、異様に非常識で、「大ごと」と知らないみたいだった。簡単にいうと、犯罪なのである。しかし、そのヘルパーがいる事業所は、開き直って「そのヘルパーがストレスで行きたくないと言ってるんですよ」と責め立てた。何がストレスなんだと呆れはするが、逆にそんなこともわからない人をわたしは今まで家に招き入れていたのかと愕然とした。その事業所丸ごと更生が必要な段階でしかない、そんな稚拙さに付き合う理由がどこにあるのかわからない。しかも彼らは、あらかじめこちらの話は聞く必要がないという話の仕方しか知らない高圧的な態度しかとらない。つまり電話で「まともな会話」すらできないのである。だから会う約束すらできずにいる。 その前に来て去っていたところも、またその前に来たところもそれぞれに異常な言動をして去っていった。共通するのは、自分の未熟さを差別を利用することで済まそうとする...

日々の考察 vol.13 障害者の障害とは何か、動物園のフェンスのようではないか

  わたしが人と接するときに守っていることというのが3つある。 先入観をなくすこと。 相手の存在を信じて人生を尊重すること。 そして謙虚に敬意を払いながら接すること。 それを踏まえていればそれほど大ごとは起こらない、そう思っていた。 しかし、なにぶん友人でもない相手とのコミュニケーションになることが多く、なかなかそうもいかないのが今のわたしの毎日の生活である。 だからそう言った問題を起こす人の大方の言動は、一方的なわたしの生活への侵入であり、そう言った侵略的な行為を平気でやるオッサンというのは意外と多い。 わたしはこのような事態に直面するたびに、一体そんな人がなぜこの福祉サービスという業界に存在するのか、と毎回頭を抱えるところから繰り返すのみなのだ。 そして、そんな時にいくら他事業所が入っていても、予防的なこともなければ、臨時の対策も講じられないのもこれまた現実なのだ。必要な積極性が時として失われてしまっているその事態もなかなか表面には出ないが、隠れた大きな問題ではないかとわたしは思っている。つまり、突然の事故などで危篤になったとして、そこにどれほど人道的なモラルが発揮できるかは、あまりにも不確定だ。わたしたち障害者という存在からみて、これほど身近で遠い存在もなかなかないだろう。 これではあまりに脆弱で、とても健康的に大きな問題を抱える人の支援としては危険すぎる現状ではないのかと思いが至ると、一人の当事者としてこの福祉の現状はただ悲しくてならない。 まるで当事者が作り上げた福祉サービスを、無神経な侵略者に乗っ取られたような気持ちである。それほどに支援を受けていることそのものの情けなさを実感させることもないのにと実感するしかできないのだ。現場としてはあまりに残酷な問題である。 こう言った一つ一つは「命に関わる」という意味で限りなく犯罪性の高いものであるが、なぜかこれまたそういう扱いにならない。いちいち当事者が裁判所に訴えないとならないほどに放置されたままなのだ。これが一番わたしが生活していてわからないポイントだ。支援といえば犯罪も許されて捜査もされない。それが日本の福祉の現実である。 そりゃ子どものいじめもなくならないはずだわ。 さらに正直に申し上げるなら、その捜査ができるであろう行政も見逃すし、なんならこれも一つの口減らしではないかと思っている。公に「お金の...

日々の考察vol.7  怠惰と無気力・無関心=区役所の「お仕事」とはなんだ

右京区役所 今わたしは京都市右京区に住んでいる。 一人暮らしで引っ越しを何度かやったので、その間に出会った役所もこれで3つ目である。 右京区は引っ越した日から異常だった。 手続きに役所に行ったらいきなり窓口の男性職員が怒鳴った。 意味がわからないが、そんな人とは話せないので帰った。そんな態度の職員はこちらが相手にするべき人だとは思わなかった。 それ以降も、意欲的だった最初のケースワーカーは心を病んでケースワーカーになりたかった自分ということすらを諦めてしまった。漏れきく「上司」の異様な振る舞いは、こちらまで伝わるほどだったし、当時の係長はそれに準じてか知らないが、かなり高圧的、感情的にちょくちょく電話などに登場した。その異常性を隠すことなくカンファレンスでも披露して、今年度「移動」して行ったそうだ。 発言のいちいちが変な人だった。完璧な「さよならオッサン」案件だった。 で、その後改善されたかというと、そうでもない。障害保険福祉課の方も一貫してるのが、あまりに杜撰であるということに尽きる。極端なずさんをするために仕事をするかのような毎日を繰り返したせいか、責任感もないし、どんどん自己満足という目的のための勝手な理屈は膨張していく。そしてそれをこちらに強要する。その度に、「そもそもそれは法律違反であるから簡単にOKしてはならない」などとこちらから指摘しないと動かない。なぜ行政がこれほどに条例や法律を知らなくて間違うのか。 こんなに伝統的に怠慢とただの自己満足が蔓延している区役所をわたしは他に知らなかった。 これで仕事ができていると思っているのか、と呆れてしまう。 例えばどこかの福祉サービスが区役所に電話して「こんなことをしたくない」と『やってはならないこと』を主張する。 それを役所がテキトーにハイハイということで、後々大きなトラブルになり、役所じたいも仕事が増える。 それをいちいちこちらが伝えきいて、区役所にまた電話して「簡単にOKするな」と叱り、後始末を役所がすることになる。 こういうことをしておいて「私たちは忙しくて」という。 こんな凡庸なプレイに付き合わされる方はたまったものではない。こっちこそ暇ではないのだ。そして京都市の財政が危ないのかそうでないのかすらいまいちわからないのも、こんな仕事ぶりでは当然だし、このままではもれなく破綻するだろうと思う。 こういう「仕...

「ETV特集 市民と核兵器~ウクライナ 危機の中の対話~」 私たちは誰かを守るために何ができるのか、支援の可能性を戦争から考える

ETV特集 市民と核兵器~ウクライナ 危機の中の対話~ このところ、悪といえばプーチンという形容詞のようになっている、対ロシア問題である。 たくさんのドキュメンタリーが作られてきており、プーチンの何がいけないのか、ウクライナはどう戦うべきか、諸外国はそこにどう関わり、解決に貢献できるかなどを語られてきている中で、やっぱり根本的にプーチンという人の言うことに対して理解不能で思考停止している状態が続いてしまっているのだなあとも思っている。 わたしの考察というのは一貫していて、彼の思考回路は、家族的な価値観で言えばただのDVなおっさんだということではないかということである。 圧倒的なコミュニケーション能力の欠如があるのだが、それを暴力で全てリカバリーしてきた経験が、たまたまロシアでは成功した人。 だから本当は国際社会ではなかなか本人が望むような評価を得られないできたことへの鬱憤もこの逆ギレ戦争には込められているのだと思う。 今まで彼の暴力的な傾向にいち早く気づき、先手先手をうちながら「私たちうまくやってるでしょ?仲良くやってますよね??」と寄り添いながらうまく協調できてきたのは、ドイツのメルケルのみだった。 悪いけど、ああいったやり方をできる男性はまずいないのではないか。G7から外すのではなく、その輪に歓迎することで暴走できないようにする。プーチンだけではなく、世界のための協議なのだからという民主主義の根本が彼女にはわかっていたのだと思う。 プーチンの持つ、過剰な支配欲にメルケルが気づいていたかどうかなんて愚問である。プーチンが元々そうなのかというより、国家元首という莫大な権力を持ち続ければが男性というのは支配欲に拍車がかかるものだからだ。そして彼のストッパーとなってきた側近はこれ見よがしに殺されてきたではないか。もうそのあたりで十分彼は病んでいた。 さて、話は戻るがとにかくいちいち鬱陶しくも優しかった母親役のメルケルもいなくなったことだし、プーチンは暴れ出した。久々に暴れているのだが、もう止まらなくなってしまったのだ。 ウクライナはえらく怒ってやり返すし、正直メルケルがいたら・・・と今彼が一番思っているのかもしれない。アホみたいな話だけれどオッサンというのは案外そのようなものである。インタビューで調子に乗って脅すようなことを言いすぎても、あんなん大丈夫ですよ、わたしがち...

「ペトルーニャに祝福を」おっさんの撒き散らすゴミを誰が拾うのか(肩書き入り版)

 環境汚染だと言って国際会議を開いたら、一国の代表がセクシーセクシーと場違いに言った。 そのせいで、レジ袋の有料化が決まった。 こんなことですら誰も文句を言わない国にいて、この映画は非常にリアルである。 ペトルーニャが出会った集団リンチのような場面にわたしも人生で幾度か出会ったことがある。そのように表現してしまうと、きっと当時の加害者側は「それほどではない」というだろう。加害者はいつもそんなものである。きっとずっと自分の罪に対して軽薄なのだ。 この映画の登場人物はそれほど多くない。しかし、集団を形成する要素として不可欠なタイプをそれぞれキッチリ描き分けてある。母親もそうだし、警察官も、司祭もそうである。 友人とレポーター、母親が女性で他はみんな男性である。 宗教とムラ社会の親和性というのは一体なんなんだろうか。 その批判的な物言いの下卑たること、この上ない。 根拠なく拘束したり、罵ったり。そのような言葉を口にして罪悪感がないのも神という最強の後ろ盾があるからだと言えるのかもしれない。 しかし、その罵声がれっきとした「女性だから」という理由である時に、終盤で提示される「もし神が女性だったら?」という発想は(奇しくも男性の登場人物から発せられているのだけれど)ものすごい説得力を持つ。 一部のキリスト教において長らく「天の父」であった神が近年「父であり母である」神と言い直されてきているのだけど、言い換えればいいというものでもない。 男性優位の考え方というのは、本当に長い間、政治と文化、宗教にわたってあまりにも浸透してしまっている。この国においても。つくづく嫌になるほどに長い間社会として、おっさんを再生産しては甘やかしてきたのである。それをしやすいように社会が出来上がってしまっているのだ。おっさんは抜本的な解決より小手先の誤魔化ししかしないものであるから、日本の社会はいつも「古き悪き」日本でしかない。世界も根本では大きく変化しない。 そんなおっさんたちがどれほどの才能を差別と共に葬ってきたのかと思うとなんということなのかと呆れずにはおられない。 いつも思うのだけれど、人が他人のチャンスを奪う、可能性を削ることにおいてもう少し敏感であるべきである。根本的に人付き合いをするにあたって、最低限のルールである「自分がされて嫌なことは他人にしてはならない」さえ守れるならば、差...

『モーリタニアン 黒塗りの記録』 恐怖をも赦せたならヒトは進化するのかもしれない

毎日毎日、時間さえあれば映画や海外ドラマなどを見ているわたしであるが、見ていて辛くて泣けてくる映画というのはそうそうない。 主人公の境遇がいかに悲惨かをどんなに丁寧に描かれても、人間ってどうしてこんなに愚かなのかと深いため息をつきながら泣けてくる映画は一年にどのくらいあるのかと思い出すのも難しいほどになかなかないのだ。 しかしこの映画は辛かった。実話だからもちろんだけれど、単に被害者に同情するのみでなく、ヒトという生き物の限界を見せられているようにも思えた。えげつない描写が続くのだけれど、そのリアリティにこの映画の説得力があるので、わたしもヒトの端くれである以上どうしても苦しみながら見るべきなのだろうなと思いながら見ていた。 ほんの少し前、世界は収容所の悲劇を見て学んだはずなのだ。 「正義」というもののちっぽけさと、人の命の尊さについて、もっと真摯であるべきだったと学んだはずなのだ。 ドイツという国が第二次対戦後「贖罪」を国家として行うことを決めてきたのだけれど、それはいつ終わることではなく今後ずっとドイツ国民が背負うべきものとしてきたことにわたしは意義があると思ってきた。 過去の精算はドイツの今後ずっと担い続けることという考え方にいたく感銘を受けたのだ。 でも、敗戦国だからこそできることなのかもしれないと思えば、その戦勝国は同じ過ちを繰り返しかねないとも言える。 そもそも世界規模で、もちろん日本もであるが真っ当な戦後処理に取り組むことなどできようもなかった。それが現時点での事実なのかもしれない。 「わたしにはわたしにできることしかできないので」という奇妙な言い訳が最近巷に溢れているが、あなたが思うほどあなたのできることは小さくも少なくもない。 結局自信がないくせに大きなものには飲まれる。その大きなものをより大きくすることに自ら加担しながら、知らなかったことにする。それよりできることを少しでもしていればあなた自身を救うことになったかもしれないのにと思う場面もある。もちろんわたし自身についてもそうだけれど。 そんな場面は今の社会に山ほどある。 わたしはそれが失敗だった時に、ほんの少しでも加担したことに辛く思いたいとは思わないから、自分の考えを持とうと努力することにしている。 それがわたしのわたしに対する、社会に対する責任の捉え方なのだ。そうやって努力するのがわたしがヒ...

Nike / Dream Crazy (United States) コリン・キャパニックとは? ひとりの人生から大切なことを知る

アメリカンフットボールというスポーツはろくに知らないが、その選手が人種差別に抗議して国家への起立を拒否することの重大さはなんとなくわかる気がする。 それをやってのけたコリンキャパニックという選手の半生を描いたドラマをNetflixで公開している。 それがとても面白かったのでこのナイキのCMと合わせておすすめしたい。 コリン・イン・ブラック・アンド・ホワイト Netflix まず、何より彼にとって大きいことは、彼の両親が白人であったということではないだろうか。 そこではもちろん人種的な差別があるわけではなく、それなりに家族として仲良く暮らしているわけで、お互い勝手がわからないことももちろんあるには違いないが結局うまくやれる家族という空間が彼にはあったという大きな前提があった。 差別の元となる『人種的な分断』がない空間で育った彼には、社会で「黒人であることによる差別」に出会した時の理不尽な思いが、諦めきれなかったのだろうと思う。 若い時に彼の母親が、コリンをクールなヘアスタイルにさせてあげたく思い、その結果「コーンロウにしてくれるところ」を探してたどり着くエピソードはとてもうニークであるとともに素敵な話だと思う。こういうひとつ一つのエピソードがたくさん出てくる。 そういう彼の育った土壌は彼に独特の視点をもたらしたと思う。 彼にとってきっと白人は敵ではなかった。ただ他人との関係でわからないことがあってもそれをお互いに知ることで解決できるという実績があったのだ。 母親の一々の場面での戸惑いまできちんと描かれているけれど、それが「我が子の成長」に対するものなのか、「黒人である我が子」への戸惑いであるかは一々言及されないままである。 ただ、社会的に彼が生きにくい時には両親が影になり日向になり彼を支える。その丸ごとの抱えっぷりにはすごいなと素直に尊敬した。そういうのを親の愛情と言うのかもしれないなと思った。友人もとても素敵な人ばかりだった。 そして、よく学ぶ彼の姿勢ものちの活動家としての人生にもたらすものは大きかったと思う 。 本来社会のスタンダードはひとつであるはずである。そこにはあらゆる多様性を包括した大きなスタンダードが存在するべきなのである。 しかし、明文化されないような「分断」を持ってダブルスタンダードにする。トリプルでもなんでもいいが、それを超えて被筒にしようとするも...

「さがす」 こういうことなの? 社会の底辺と波瀾万丈は鶏と卵

  腹が立つ。またこの手の話かとも思うし、そんな映画をAmazonにお薦めされてるじぶんに対してもだし、もちろんこの映画の中身に対してもだし、そんな中身の映画にいつも止まる日本映画の一種の限界に対してもだし、腹が立つ。 石ころをその数だけ並べて蹴飛ばしまくりたい。 はっきり言えば、何をどうしたいねんと。お金の問題なのか、福祉政策なのか、生死の倫理の問題なのか、犯罪か。政府か。 こねくり回しすぎて脳みそは今無茶苦茶である。 確かにいつもわたしも現実がカオスだとは痛感してるが、結局なんやねんとイライラしてることを思い出したでしょ。 ひどい映画だと言いたいわけじゃない。問題てんこ盛り、リスク死ぬほど、そんな環境はなぜに?ということなのだ。現実が。ラストで登場する『正義』だけど、それほど『正義』じゃないことはもう観客には伝わってる。 だからこれをお薦めされてAmazonの口車に乗ってみたことそのものに腹が立つのだ。わたしもそんなことでお薦めありがとうというようなチョロい人間じゃないよと。えらい見くびられたもんですな、と。寝ていた子をしっかり起こされた。そんな苛立ち。 あと、貧困や福祉は確かになぜか犯罪との親和性が高いのかもしれないけど、そこの丁寧さを欠けばこういう「どうせお金なんでしょ」みたいな『正義』になってしまう。それぐらいにたった一人の中での『正義』はショボい。 結局社会的に苦しみながら生きるわたしみたいな当事者の人たちはこういう映画をいつもどう思ってるんだろうか。 よく考えたら、そんなことを語り合うようなチャンスも今まであまりなかった。 我々当事者にとって、福祉も貧困も、障害も「ネタ」じゃない。生きる目的でもない。 日常なのだ。日常であるからこそ辛いこともあるし、日常であるからこそ社会保障制度になっているのだ。これは、非常時でも異常時でもない。このことが、一般的にわかってもらえるならいいのだが。 えげつないストーリーだが確かに繋がりも変じゃないし、むしろスムーズだ。 「社会の底辺を苦しみながら生きる大阪の父と娘。彼ら人生をのジェットコースターサスペンスで」のような違和感。 あ、そうそう、大阪の下町にいきなりUSJができた時のような違和感。 USJは好きだけど、ここで?みたいな慣れなさと、違和感に基づく不思議さと。 でももう当たり前になった、ということは、本当...