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メディアの沈黙と、歪められた現実:ジェンダー問題報道の闇

  日本のメディアは、ジェンダー問題を歪曲し、隠蔽する役割を果たしている。 長年、男性中心の社会構造が根付いた結果、メディアもその構造を反映し、女性や、マイノリティの視点、そして、被害者の声を無視する報道が繰り返されている。 これは、単なる報道姿勢の問題ではなく、社会構造そのものの問題である。 特に、性犯罪や、セクハラといったジェンダー問題において、メディアの偏向報道は顕著である。 被害者の証言は軽視され、加害者の言い分が強調される。 被害者のプライバシーは、まるで公開処刑のように晒される一方、加害者のプライバシーは、徹底的に守られる。 この不均衡は、メディアが、男性中心的な価値観に染まっていることを示している。 例えば、中居 フジテレビ事件を報道したケースを考えてみよう。 報道は、加害者の地位や、権力に焦点が当てられ、被害者の苦痛や、損失は、ほとんど「人権への配慮」という言葉によって無視された。 加害者側の釈明は、詳細に報道された一方、被害者の証言は、断片的にしか伝えられなかった。 この報道は、視聴者の共感を、加害者へと誘導する効果があった。 結果として、被害者は、二次被害に苦しむことになった。この場合の二次被害ということについては前項を参照してほしい。 これは、単なるミスや、不注意ではない。 メディアは、意図的に、ジェンダー問題を歪曲し、隠蔽している。 視聴率を上げるため、あるいは、スポンサーの意向に沿うために、事実を操作したり、都合の悪い情報を隠蔽したりする。 女性や、マイノリティの視点、そして、被害者の声は、都合が悪いから、無視される。 この男性中心的な報道姿勢は、社会全体に悪影響を与えている。 女性や、マイノリティは、声を上げにくくなり、ジェンダー不平等は、ますます深刻化する。 メディアは、社会の鏡であるべきだが、日本のメディアは、その鏡を歪ませ、社会の病理を隠蔽する役割を果たしている。この場合のメディアというのはテレビや新聞のみならずネットメディアというものですらそうなのだ。 メディアの改革は、この社会全体の改革に不可欠である。 ジェンダー平等を実現するためには、メディアも、その責任を自覚し、女性や、マイノリティの視点を取り入れた、公平で、正確な報道を行う必要がある。 そして、私たち市民も、メディアの報道内容を批判的に吟味し、ジェンダー平等に対す...

セカンドレイプ、その誤用について

  最近、報道の中心にあるのは、有名男性司会者が出演するテレビ局が関係した女性アナウンサーへの性暴力事件と、その隠蔽が発覚した大スキャンダルだ。広告は軒並み引き揚げられ、CM もまともに流れない。世界中で報道され、収拾がつかない状態のテレビ局に対し、司会者は速やかに引退を表明。被害女性は PTSD を発症し、既に退社している。 この事件に関して、多くの批判が寄せられているが、その中で特に問題なのは、一部のインフルエンサーによる発言だ。彼らは「女性と司会者、テレビ局の問題は別物だ」と主張し、司会者と女性の問題を持ち出す人を「理性的じゃない」「そんな話を持ち出すことはセカンドレイプにあたる」「そんなこともわからないのか」と非難する。 しかし、私は、これらのインフルエンサーの発言が、事件の本質を理解していないどころか、結果的にテレビ局の隠蔽行為に加担していると考える。彼らは「セカンドレイプ」という言葉を用いることで、問題の本質をすり替え、議論を矮小化しようとしている。本来、セカンドレイプとは、性暴力被害者が事件について話したり、助けを求めたりする際に、周囲の人々から二次的な被害を受けることを指す。しかし、インフルエンサーの発言は、被害者の発言を直接的に阻害するものではない。 インフルエンサーたちの発言の真の問題点は、事件の根源である性暴力と、テレビ局による隠蔽行為という二つの重大な問題を、意図的に切り離そうとする点にある。これによって、真相究明が妨げられ、テレビ局の責任が曖昧になり、事件の全容解明が困難になっている。「セカンドレイプ」という言葉を使うことで、まるで批判する側が二次被害を助長しているかのような印象操作を行い、批判を封じ込める意図が見え隠れする。 この事件の根底にあるのは、司会者の性暴力だ。「飲みに来い」といった程度のことで、これほど大きな社会問題にはならない。社会がおかしいと言っているのは、パワハラだけではない。テレビ局は、社員が上司に呼ばれた先で性暴力の可能性を知っていたのか、という点だ。テレビ局、そしてマスコミは、事件の出発点をずらし続け、本質を見失わせようとしている。 この問題は、最初の性暴力抜きには語れない。それは大きな犯罪だ。テレビ局は記者会見で「人権への配慮」を理由に、司会者と女性の問題を扱うことを拒否した。一体誰への配慮なのか?普段人権...

オーディション番組でジェンダーを考えた

 オーディション番組というのが数年前からコンスタントに配信されている。 そのことは知っていたが、あまり見たことはなかった。 ところが先日、ふと見たキャッチコピーに 釣られてしっかりと見ることになったものがあった。 No No Girls という女性グループのオーディション番組である。 「身長、体重、年齢はいりません。ただあなたの声と人生を見せてください」という応募要件ということにすごく興味を抱いたのがきっかけである。今までNOと言われてきた女性たちに焦点を当てたオーディションという観点にすごく惹かれたのだ。すごく魅力的なコンセプトに思えた。 彼女たちが合宿やさまざまな審査をくり返しながら、時に励まし合い、でも成長していく物語にすごく引き込まれた。彼女たちの抱える悔しさやコンプレックスは、もしかしたら多くの女性たちに共感を呼び、その苦しみに相対する高い実力を見れば見るほどこの世の不条理を感じながら一緒にその人生を体験している気がするほどだった。そういった意味で非常に意味深く感慨深いドラマを見た気がしていた。 さて、その後わたしはオーディション番組というのに興味を抱いて、その前に開催されていた、同じ事務所が開催した、男性グループのオーディション THE FIRST というのを見た。ちなみにわたしは先に選抜された彼らがデビューしてからの活動というのをほとんど知らなかったので、同じく新鮮な気持ちで見たのだった。 そこで気づいたことというと、男子ってなんでこんなに泣くの?ということだった。言っておくがそうは言っても、わたしももれなく彼らの実力に圧倒され、成長物語に感動したのは紛れもない事実なのだ。 しかしオーディションというのはそう大きな差があるものではなく、女性の場合と同じく、合宿などをしながら勝ち抜いていくスタイルであることには大きな差はなかった。 しかし、しかしだ。女性たちは、決して冷たいわけではない。それぞれを尊重しながら、確かに時にはもらい泣きもしながら成長していくが、誰かが敗退したからといって過剰にそれを残念がることをあまりしない。それはきっと本人が一番悔しいことを誰よりわかるからこそ、安易に同情することをしないのだと思った。 一方男性たちは、一人ひとりが脱落していくたびにほとんど全員が、ものすごく残念がる。号泣し、体の一部がなくなるかの如く嘆き悲しむ。...

人格改造の告白

本当に幼い頃、わたしは今と全然違うタイプの性格だった。 わたしの家では強すぎる家父長制と宗教の色が強く出過ぎて何がなんやらわかりずらい両親が絶対的であったので、色々とぶつかることも多かったが、実際にはその前は非常に従順できっとそこそこいい子だったと思う。ユニークではあったと思うが。 わたしの親は、これをしろあれをしろという前になぜやらなかったのかという追求をよくしたのだが、今思うとそのようなスピリチュアルな要求にすらそこそこ対応できるほど、親から見た時に大きな問題を感じることもなかったのではと思ったりしている。年齢にしてはかなりヘビーな要求が次から次からあったのも事実だが、なんだかんだで一生懸命それをやろうとしていた。 しかし、中学校で私学に入った途端、授業料が高いことでそれを引き換えに何かをやれという親からの言い分が増えていった。 「もう授業料払わへんぞ」ということを二言目には言われたものだった。今思うとじゃあ払わなければよかったのにとも思えるがその頃のわたしは脅しに素直に怯え、なんとかしようと努力していたのだと思う、幼かったので。 そんなわけでだんだん親の言い分が奇妙に変化し始めた。無茶振りや理不尽なものも増えていった。 ところが、中学二年生の初めにちょっとしたいじめのような出来事があった。クラブ活動の中で、所属する同学年の人全てに嫌われていたということが発覚したのだった。その時までそんなに嫌われていたことをわたし自身が知らなかったことが一番びっくりだったが、その直後、これは困ったことになった、と思った。 なぜなら彼女たちはかなり人数が多く、今後の学生生活を脅かすほどあちこちにいたからだ。なんかやばいことになりそうな予感がして、どうしようかと思った時にまず決めたことは、 「とにかくこちらが誰一人も気にしないようにしよう。忘れたふりをできるほど気にしないでいたら、彼女たちはもうそれ以上言ってこないはず」ということだった。 そもそも大した理由もないのに多数決のような形で追い出されたから、その葛藤も強く、決断に悩みすごく辛かった。でもそうしないとここでは生きていけない、そう思ったのだった。だから単なるクラブ活動をやめたというだけのこととしてこの件を終えようとしたのだった。わたしの側が気にしなければなんとかなるということだけはわかっていた。それで本当に終われると思ったの...

日々の考察 vol.20 かわいそうな弱者でいてくれ という難題

このところ、すっかりニュースを見なくなってしまっていた。 そうは言ってもいろんな事件やなんやかやが起こるたびに「一体どうしてこんな事件が起こったのだろう」「何があってこんな犯行を企ててしまったんだろう」と興味があるものだから、常々割といろんな考察をするYouTuber番組などを見ている。 大抵は過去の大事件にまつわるものであるが、今日のニュースはどうにもこうにも複雑な心情に陥ったので、ここで記録がてら整理していきたい。 特に最近のお気に入りは、「犯罪学教室のかなえ先生」という方。 この方は、デキる官僚というか、難しいことを非常にわかりやすく説明してくれる、生きにくいと思いながら暮らしている人たちの「よき理解者」である。 元少年院の教官であるという経験を非常に上手なお話ぶりで生かしながら、大きなニュースを理解しやすく教えてくれる。事実関係のリサーチもとても詳しくて、知識が少ない状態で聞けば聞くほど、その膨大な情報を、竹を割ったような解釈で語るお話しぶりは圧巻である。 しかし、わたしはご本人もたびたび言及されていることでもあるが、根本的に誰かの言い分が全てとは限らないと思っている。特に普段から、なんらかの事象の一つの解釈を鵜呑みにするのはかなり危険なことだと思っているからだ。しかも、先ほど「竹を割ったような」と言ったが、先生は、かなり断定的な表現が多いため、ともすれば自然と「そうだったのか」と思ってしまうような場面が多い。つまりそれが抜群の説得力をもったプレゼン力というものなのだ。 だからこそ、有益に思う部分、反面教師に聞く部分をいつもこちらが冷静に判断しながら聞かきゃならんなあと思っている。 【頂き女子りりちゃん】詐欺や脱税に手を染めたパパ活女子さん、殺人罪並みの求刑を言い渡される【Vtuber解説】 さてさて、そんな先生が、「頂き女子りりちゃん」という方の裁判について解説していた。お気に入りのホストに入れ込んで、貢ぐお金を稼ぐために、詐欺をおこなって懲役と罰金を求刑されていた裁判について。 この「頂きさん」に限らず、いわゆる「女子に嫌われやすい女子」というキャラは確かに女子に叩かれやすい。しかし、この件での求刑の重さに多くの人たちが反対の声が上がっている、という意見について先生は大層驚きながら、「パブリックエネミーだ」と反論していた。 この方は官僚出身でもあり、普段...

科学はおっさんのものなのか 『キング・オブ・クローン』netfrix

https://www.netflix.com/jp/title/81516199 学者バカという言葉がある。 決して褒め言葉でもない、結局のところ、極めて既存の男性的な狭い了見で好きな分野だけしかものを知らない人のこととなるのだろう。研究対象のことしか知らないような人。 まあ、おっさんに多い。学者でもないのにそもそも狭い世界観でしかものを見れなくなるようなこと自体がおっさんの感覚でしかないから困ったものだ。しかもその狭い自分の世界に対して無駄に高すぎるプライドもあったりするから非常に迷惑なのだ。 このドキュメンタリーのおっさんもただの学者バカである。「科学者として当然のことです」と何度も彼は言うが、その前にあなたは人間でしょうが、と見ていて思った。勝手に「科学者」と言う言葉をカテゴライズして、印籠のように使う時点で彼は本来の意味での「科学者」としてダメなやつなのだ。だと言うのに、なんという傲慢さだろうか。 つくづくおっさんという人たちは折に触れて自分の言動の正体について考えてみるべきなのだ。日本は「専門家」ばかりで細分化した縦割り文化であるとわたしは思うのだけど、そうやってお互いの分野にあまりにも関与しないことばかりをやってきたから、他のおっさんの不正に甘い。「よそはよそ、うちはうち」とも言わんばかりに。社会的構造がそうなったまま結構長くなってきたことで、おっさんは連携することが非常に下手である。変にプライドばかりを刺激しあったりしてしまい喧嘩になるか、それが嫌すぎて関与しないという力が働いてしまうのだ。結局自分を守るために他者に関わらない、そういう内向きで狭いところで生きるしかないことを自ら強いるのがこの国でもいろんな団体のやり方になっている。 小さな組織になればなるほど、小さな権威しかないから無駄に大きく見られるためか、暴力的なおっさんがいたりする。 わたしが若い頃までは、当たり前に男性だけがリーダー役を買って出るものだった。優秀なのはいつも男性だと言う幻の歴史的な刷り込みによるものである。 そんな男性の生き方を見てみると、たいてい異常なほど生活にまつわる部分の能力が欠落していることが多いと思う。幼少の頃は母親が、大人になれば妻が、など過程の時点で既に主に女性の誰かがいないと生きることができない。「妻の支え」というが、それはつまりれっきとした支援とも言えるだろ...

日々の考察 vol.17 この国のおっさんたちへ

えらいもので今年に入って特にテレビの中のおっさんがめちゃくちゃ怒られている。 そしてそのおっさんたちはすべからく変態なのである。 ジャニーズ問題で亡くなったとはいえ、逆輸入なドキュメンタリーをきっかけに、一つのおっさん帝国が終了した。 次はお笑いおっさんファミリーである。今わたしたちはここにいる。 どちらも性暴力事件であって、そういうことについては法制度に至るまでここ日本では早急にアップデートすべき案件なため、逆説的ではあるけれどこれらの議論の結果、今は 日本社会が進化できるかどうかの大きな転機 になりうる状態ではないかと、わたしは期待を込めて見ている。 変態が先なのかおっさんが先なのかわからないが、とにかくおっさんはそんな変態行為の数々を恥じないことが大きなターニングポイントである。つまり、そういう発言を恥じるべきモラルがないおっさんは、もれなくさらに加速し悪化する。 誰でもが気分を害していても、自慢話にするし、 なんなら「人前でできる自分」という権力が自分にあると思い込んで酔ってしまい、威張ってみたりする。そう、おっさんは自分に一定の権力があることと、社会的なモラルを守らなくていいこととをセットの特典のように考えているみたいだ。馬鹿馬鹿しいのだけれど、実際にはそんな勘違いこそが、おっさん病の症状なのではないか。元々そんな人ではない、などという言い訳は関係ない。そういう勘違いこそが大問題なのだ。 今回の吉本興業の芸人さんを中心とするダウンタウン松本の報道というのは、あまりにもカッコの悪い、悪質極まりない事件の数々にまつわるものである。いろんな意味で男の持つ暴力性の限りを尽くした悪質さに、女性たちは生理的な嫌悪感を覚えるのだ。 相当に具体的な記事の言葉を耳にする女性のほとんどが吐き気を覚えるような時間についての供述が、毎週週刊誌に暴露されている。 一方、この激化する報道に際して「それほどじゃない」というような擁護論も出ているらしいのだが、それは今回おいておく。ちょっとそれとは別に「ほらほらまたまた…」とでもいうような意見も見られるようになった。 それについて書いてみる。 基本的にわたしは芸人に対して批判的なメディアの方を多くみているのだけれど、YouTubeなどでは、自覚なく悪ノリするおっさんが出てきた。 それが非常に不快なのだ。 例えば、そんなおっさんは松本人志を...

ある告発の解剖(Anatomy of a Scandal )考察 その後も色々考えた

前回の記事はこちら ある告発の解剖 「正しいこと」はいつも困難である 鯛は頭から腐る、ということの果てなのか、はたまた元来からの人間の習性なのかこの頃のニュースはとにかく凶暴化が凄まじい。すぐに殺す。人類の滅亡へとまっしぐらな気がしてならない。 人と会話するにしても議論を深めるわけでもなくすぐに論破する。しかも何秒で論破!みたいに速さで勝負している気までする。議論の過程で折り合いをつけることを目的とする時代は終わったのだろうか。論破することに誰がそんな意味を持たせたのだろうか。もしそうならなんと殺伐とした社会だろうか。会話や言葉の必然性がいつの間にか変わっていたのかもしれない。 福祉サービスを受け始めて知ったが、この業界には結構非常識な人が多い。はじめは面食らったけど、腐りかけの鯛のお頭だった方のように、奇妙な「理屈」で解釈した言葉や文章をなすりつける。 ある日ある団体から一方的に「契約終了のお知らせ」というのが送られてきた。しかもその理由がわたしの希望ということになっていて、さらに驚いた。 覚えのなかったわたしはその事業所と改めて話し合いの場を設けてもらうことになった。 わたしは正式な記録である文書が作られていることもあり、円滑に話せるのかなと思っていたが、その団体は結局当人に覚えのない内容にもかかわらず結局謝罪も訂正も撤回もしなかった。 「本人の希望で契約を終えたように書かれていますが、どうしてですか。わたしは希望してないですが」というと、 「それは私たちがあなたがやめたがっていると判断したのでそう書きました。だから撤回しません」 なんだその解釈は、と思ったと同時に、それを言ったオッサンはとりあえず現場のトップで、その人の日本語の理解力がこの程度ってどうしようもないな、とどん詰まった思いがした。何回確認しても彼はそのセリフを取り憑かれたように繰り返した。 このような方と団体相手に今後どのように話したらいいのか、果たしてどのような会話なら成立するのか、全くわからなくなった。言葉が崩壊していると思った。 「これが自分が事務局長だと言って威張り散らしてるおっさんの理屈か」と思うと、この社会に生きる今後の自分の生活への不安でいっぱいになった。 そんなオッサンの事業所は、多分日本一の規模で歴史的に金銭管理事業を独占で行政から請け負ってきたところである。競争相手がいないとこ...

日々の考察 vol.13 障害者の障害とは何か、動物園のフェンスのようではないか

  わたしが人と接するときに守っていることというのが3つある。 先入観をなくすこと。 相手の存在を信じて人生を尊重すること。 そして謙虚に敬意を払いながら接すること。 それを踏まえていればそれほど大ごとは起こらない、そう思っていた。 しかし、なにぶん友人でもない相手とのコミュニケーションになることが多く、なかなかそうもいかないのが今のわたしの毎日の生活である。 だからそう言った問題を起こす人の大方の言動は、一方的なわたしの生活への侵入であり、そう言った侵略的な行為を平気でやるオッサンというのは意外と多い。 わたしはこのような事態に直面するたびに、一体そんな人がなぜこの福祉サービスという業界に存在するのか、と毎回頭を抱えるところから繰り返すのみなのだ。 そして、そんな時にいくら他事業所が入っていても、予防的なこともなければ、臨時の対策も講じられないのもこれまた現実なのだ。必要な積極性が時として失われてしまっているその事態もなかなか表面には出ないが、隠れた大きな問題ではないかとわたしは思っている。つまり、突然の事故などで危篤になったとして、そこにどれほど人道的なモラルが発揮できるかは、あまりにも不確定だ。わたしたち障害者という存在からみて、これほど身近で遠い存在もなかなかないだろう。 これではあまりに脆弱で、とても健康的に大きな問題を抱える人の支援としては危険すぎる現状ではないのかと思いが至ると、一人の当事者としてこの福祉の現状はただ悲しくてならない。 まるで当事者が作り上げた福祉サービスを、無神経な侵略者に乗っ取られたような気持ちである。それほどに支援を受けていることそのものの情けなさを実感させることもないのにと実感するしかできないのだ。現場としてはあまりに残酷な問題である。 こう言った一つ一つは「命に関わる」という意味で限りなく犯罪性の高いものであるが、なぜかこれまたそういう扱いにならない。いちいち当事者が裁判所に訴えないとならないほどに放置されたままなのだ。これが一番わたしが生活していてわからないポイントだ。支援といえば犯罪も許されて捜査もされない。それが日本の福祉の現実である。 そりゃ子どものいじめもなくならないはずだわ。 さらに正直に申し上げるなら、その捜査ができるであろう行政も見逃すし、なんならこれも一つの口減らしではないかと思っている。公に「お金の...

日々の考察vol.9  それでも支援を受けるべきか、もう生きることを諦めるべきか ほんの少しのわたしの歴史について

 誰のせいでもないことを驚くほど簡単に人のせいにできる人というのがいる。 自分の怠惰を人のせいにできる人がいる。そういう人がなぜかこの福祉業界にいる。しかも多い。 こういう倫理的な常識がなくても態度が悪くても、福祉の世界の健常者には重宝がられる。もちろんその度に、いかにこちらが迷惑しているのかいちいちわたしは言ってきていた。 でもそんなことはまともに聞き入れられたことなどなかった。 いまだかつて、そんな事故や事件は「運が悪かった」ということで忘れる方がいいかのようにあえて見過ごされてきたのだ。 食い下がると生活保護はわたしに引っ越しを勧めた。毎回わたしの引っ越しは、怠惰な行政のために繰り返されてきたのだ。 いつの間にか、支援の中心は当事者じゃなくて支援する者次第に変わってしまっていたのだ。 気がつくとわたしの生活はそういうものでしかなかったのだ。 1.ほっとハウス 宇治市にいたときは、わたしの部屋を荒らしたほっとハウスという事業所が元に戻さなかったので、なんとかするように言い続けた結果、彼らは遺品整理の業者を寄越した。 その結果家にあるものを片っ端から処分してしまい、毎日の暮らしにも困るようになった。もちろんいちいちの場面でわたしは市役所に困っている旨を話してきたのだ。でも市役所は何もしなかった。あまりに困ったので急遽色々と買い揃えなければ生活できなくなったわたしはその費用をほっとハウスに請求した。当時の金銭管理をしていた社会福祉協議会{社協}にもその件を話して払うよう働きかけるようにいった。彼らはほっとハウスに支払うように言うだけで折り返しの電話すらなかったと言って放置した。実際に最後まで支払われなかった。その挙句、購入先の業者からの請求が裁判所にまでいくことになった。社協はいち早く「自分達は関係ない」と言って付き添いにもこなかった。 一人で裁判所に行き、相手に言い訳のようになるが、と前置きをした上で以上の事実を話した。相手が驚いて「金銭管理の方はどこにいるんですか」と言った。「関係ないのでこないと言われた」というと、そこにいた人たちがみんな驚いていた。そんなことがあるのかと。 その後しばらくして、市役所の障害福祉課と生活保護、金銭管理の社協とだけで話し合った。 その結果「宇治市であなたにできることは何もない」と電話で言われた。担当の職員にすら電話を繋がな...

日々の考察 vol.3 わたしの暮らしはどうあるべきなのか

近所の神社前をサクと疾走中 「障害者ならこんな生活をするもの」 であるとか 「生活保護を受給するならこんなふうなヒトであるべき」 そんなこんながあんまりにも多いもので、時々わたしは耐えられなくなってしまう。 わたしの身体は「それなりに」不自由であるが、その失った機能以上の不自由をなぜ理由もなく受け入れなくてはならないのだろうか。 一体わたしは実際にどれほど不自由であるべきなのか。 それもまた支援を受けることにより実感することがあっちこっちにあるのだ。 あれをしたいと思ってもかなわない。 これをしたいと思っても実現しない。 たどり着かない。会えない。できない。できない。 中途半端な欲求不満は大きな固定観念をどうにもできず中途半端な妥協に終わることによって作られる。 こういうソファの座り方を最近覚えたのだ 支援する方々に聞いてみたい。あなたならどうする? それほど気にしないで暮らせるのかと。本当にそれが大したことではないのだろうか。 以前 「わたしなら支援を受けるのだからそのようなものだと思います。そう思うと思います」と言い切った支援者の方がいた。「支援を受けるのだから」そんなもんだと諦めた理由がよくわからない。支援を受けるのは果たして何かを我慢するためだったか。だったらこれはなんの罰なのだろうか。わたしは、懲罰くらいでしかこんな発想になることがないのでわからない。 それを罰ではないと言うならお給料でも払っていただきたい。我慢することが完全にビジネスだと割り切るために。 わたしもこの関係性の歪な感じをいつもどうにかしたいと思っている。 わたしという当事者はどんな存在なのだろうか。マネキンみたいなものなのか。 うんとさえ言えればいいのか。 何を提供して何を得ているのか。またはさらに何を失うのか。 鈍感でなくちゃ支援を受ける生活はできない。それがリアルである。 歯を食いしばる姿もじっと耐える姿ももう見せたくないのだ、本心は。 わたしは確かに楽しく毎日を過ごしたい。 それが思った以上に苦しいと思うとき、その先に一体全体何を支えにしていくのかと思うと真っ暗な思いがする。 暗くてすごく空っぽだと思い至ってとてもとても悲しくなった。 もしかしたら元々なかったもの以上に空っぽになっていく。 結局何も残らない、そんなものかと。 そんな時にまた思うのだ。 わたしに今ある自由って一体どのく...

日々の考察 「支援」vol.1

『支援』が人の心を壊すということはあるのか      わたしの両親のわたしへの関わりはいつも独特で一方的でしかなかった。 そんな中でわたしは言葉を失い、いくら話してもその言葉がまともに尊重されなかった。とりあえず、子どもとしてわたしはそんな環境では生きるためのことしか考えなかった。きっと外ではもっとマシな未来があるという可能性だけを信じていたのだ。 そんな中、ある時両親はいつものような一方的な流れでわたしの精神科への入院を決めていたことがある。その体験はいつもわたしを恐怖のどん底に落とす形で今のわたしにも暗く影を落としている。それほどにその入院病棟は異常で終わりのない恐怖に満ち満ちたものであった。 それでもわたしは愚かなことに、ここと違って外の世界である社会においてはそういうところばかりではないはず、そういうことのない人生を選べるはずだろうと毎度毎度ほんの少しの希望に縋る思いで命を繋いでいた。忍耐の時間と労力で生きていた。いつも疲れた子どもだった。 そしてやっと長い時がたちそんな色々から解放されたと思った時に、いきなり社会、わたしにとって希望を託すしかなかった社会はどうだったと言えるのだろう。 もしそこでわたしが病気になることもなく健康で働いていたなら一人前の人間として生きていけたかもしれない。例えそこにまだまだ課題はあったとしても。 しかしそのタイミングでわたしは社会的な福祉サービスという支援を受ける存在となった。 正直言ってこれがまずかった。なぜならここ福祉業界の力の構造はわたしの生まれ育った虐待的な家族となんら変わりなかったからである。 虐待的な業界ではあるが家族ではない。 一般的に家族だから発覚しにくいのであり、他人ならただの犯罪である。 にもかかわらず福祉業界というものが一つの家族的な共同体となって守り合うために、一つの家族的共同体における DV のような構造となっている。だから相互に犯罪的な行為ですら注意し合えず、必然的に見殺しとなっていく。例えそこに犯罪があってもそれに対処しうるものでもなければ予防もできない。 果たしてこれを『支援』と言うべきなのか、自覚をしてほしい。支援とはそれほどに無責任でもないし、勝手なものでもないはずではないか。命を手助けすることと逆行することがあってもそれを指摘できないなら、一体それは何をしているというのか。 今、社会的には...

Britney vs Spears  ストリートファイターの孤独

誰が見ても「なんてこと!」となるこのドキュメンタリー。 ブリトニース・ピアーズの長い長い闘いの記録である。 非常識な父親などに苦しんだブリトニーに非常な親近感を覚えた。だからこそ、ずっと胸が痛かった。腰が曲がるくらい。 この父親にとって「自分の娘」はあくまでも親にとってのツールに過ぎないから、きっと一生「個人としての娘」という概念は理解できないであろう。彼女の一方通行な苦しみを思うと、たまらなかった。 彼女の緊張で休まらない生活の連続を思うと、そうだったそうだったとろくに稼いできたわけでもなかったわたしの人生と感覚的になぜか重なる。 そんなわたしのことで言うと恐縮だけど、いまだにわたしは生活していて「緊張」が取れない。どんなに気を抜いて暮らそうとしても、どこに住んでも緊張が取れない。 週に5回も鍼治療が必要なほどに、緊張が身体に染み付いてしまっている。 これは異常なことなんだとわかっていても、自律神経についてはどうにもならない。 確かにわたしにはお金は大してなかったが、同時にLDの算数障害があることが近ごろ分かった。 だから家族にはそのことを何度も訴えたが、その度に怠惰であるとか馬鹿だとかを罵り続けられた。 お金があろうがなかろうが、きっとこういう父親は子どもを潰してしまう。 現にブリトニーはお金以外にも多くも人や物を失ってきたではないか。 後に一人で生活するにあたり、福祉サービスも利用したがほんの一人の担当者が、わたしの引っ越しによって変更することでまた必要なサービスは行われなかった。 わたしは今、右京区に住んでいて、近々3年目に突入するのだけど、ただの一度も必要なサービスが行われたことはなかった。 さて、家族は今も昔もわたしを罵る存在であった。 そこから出ればもう少し違った世の中があると信じていた。 福祉サービスを受ければもっと人道的な時間を過ごせるのが当然だと思ってきた。 そのうち事実がどの程度なのかと思うと訳がわからなくなる。 結局「家族がDVでした、社会もDVでした」 が正解なんだろうか。 その時、社会において圧倒的に理不尽な父親の役割は誰なのか。 おっさん病のおっさんと違うのか。 何度も言うが、わたしはブリトニーと違う。 お金もないし、発言力も大してない。 この構造的な問題に、アメリカですらなかなか手出しできなかったではないか。 じゃあ、もっと人権意識の...

「天の怒り」わたしの喪失とオッサンの喪失 

はっきりと後味悪い映画である。 大御所の男性作家と元助手、もう一人の作家、こちらは作家希望だった男性、この3人と周りの人たち。この3人の10年以上にわたる物語。 軸は家族の死である。 あと、復讐についてどう考えるか。 アルゼンチンの映画で始終聖書に基づく価値観が出てくる。特に旧約聖書の方が。 元助手ルチアナは、牧師の娘で真面目な女性。 まあまあな大家族で和気藹々と暮らしていた。 それに対して大作家クロウリーは妻と娘の 核家族で、どうも妻が神経質すぎるなあというくらいから物語が始まる。 きっかけはセクハラで訴えたこと。それのせいで家族が一人ずつ殺されていったというのがルチアの主張である。 この大御所は困ったオッサンで、何を自慢したいのか聖書を自分の「復讐心」の当て馬のように使う。 わたしも牧師の娘で小さい頃からまあまあ聖書を読む機会は多かったし、その話はとても身近だった。 でも、あれほど都合よく読めてしまえる書物も他にないなあと今も思う。ある意味矛盾に満ちていて、TPOに合わせて何とでも使える。 しかもそこには、縋り付くような思いで信仰を求める多くの人たちがいた。 わたし個人は、聖書というかキリスト教のモットーは「赦し」というもので、とても好きな考え方だと思っているのだが、それに対して旧約聖書の主は神でありちょっとパワフルなキャラでありまあまあ矛盾するようなことになっている。 それが「復讐」なのかもしれない。 困ったことだ。 それでそのような本来非常に個人的な思いに過ぎない「復讐心」を、聖書という武器で裏付けようとするのだ。 つまり、「神がわたしにそうさせている」という理屈である。 わたしの生育環境がかなり暴力的であったが、そこにもいつも両親だけでなく「神」が存在した。 「お前がちゃんと育つようにする義務がある。なぜなら親は神から預ったんだから」 「神はいつも見ているんだぞ。何もバレないと思うな」 「うまく育たないと神に顔向けできない」 だから、先ほどの復讐についての件をこの映画で語られているのを見た時も、そうなんだよね、この手の人はそう思うんだよね、とある種の納得をしてしまったのだった。 たとえ神に託されたとしても、所詮親は人間だ。 にもかかわらず、神の制裁を実行することを躊躇しない人がいる。 何様なのか。もう一度いう。何様なのか。 それがいつも疑問だった。 そんな...

「さがす」 こういうことなの? 社会の底辺と波瀾万丈は鶏と卵

  腹が立つ。またこの手の話かとも思うし、そんな映画をAmazonにお薦めされてるじぶんに対してもだし、もちろんこの映画の中身に対してもだし、そんな中身の映画にいつも止まる日本映画の一種の限界に対してもだし、腹が立つ。 石ころをその数だけ並べて蹴飛ばしまくりたい。 はっきり言えば、何をどうしたいねんと。お金の問題なのか、福祉政策なのか、生死の倫理の問題なのか、犯罪か。政府か。 こねくり回しすぎて脳みそは今無茶苦茶である。 確かにいつもわたしも現実がカオスだとは痛感してるが、結局なんやねんとイライラしてることを思い出したでしょ。 ひどい映画だと言いたいわけじゃない。問題てんこ盛り、リスク死ぬほど、そんな環境はなぜに?ということなのだ。現実が。ラストで登場する『正義』だけど、それほど『正義』じゃないことはもう観客には伝わってる。 だからこれをお薦めされてAmazonの口車に乗ってみたことそのものに腹が立つのだ。わたしもそんなことでお薦めありがとうというようなチョロい人間じゃないよと。えらい見くびられたもんですな、と。寝ていた子をしっかり起こされた。そんな苛立ち。 あと、貧困や福祉は確かになぜか犯罪との親和性が高いのかもしれないけど、そこの丁寧さを欠けばこういう「どうせお金なんでしょ」みたいな『正義』になってしまう。それぐらいにたった一人の中での『正義』はショボい。 結局社会的に苦しみながら生きるわたしみたいな当事者の人たちはこういう映画をいつもどう思ってるんだろうか。 よく考えたら、そんなことを語り合うようなチャンスも今まであまりなかった。 我々当事者にとって、福祉も貧困も、障害も「ネタ」じゃない。生きる目的でもない。 日常なのだ。日常であるからこそ辛いこともあるし、日常であるからこそ社会保障制度になっているのだ。これは、非常時でも異常時でもない。このことが、一般的にわかってもらえるならいいのだが。 えげつないストーリーだが確かに繋がりも変じゃないし、むしろスムーズだ。 「社会の底辺を苦しみながら生きる大阪の父と娘。彼ら人生をのジェットコースターサスペンスで」のような違和感。 あ、そうそう、大阪の下町にいきなりUSJができた時のような違和感。 USJは好きだけど、ここで?みたいな慣れなさと、違和感に基づく不思議さと。 でももう当たり前になった、ということは、本当...

「ある告発の解剖」 「正しいこと」はいつも困難である

正しいと間違い、善と悪、そう言う対比を語るとするならば、よく映画やドラマのセリフで 「わたしは正しいことをした」ということをいうセリフがいつも引っかかっていた。 なんだその言い回しは?とニュアンスがわからなかった。 このドラマでもそのセリフは出てくる。 しかし、今回は納得した。わたしは彼女に共感していたのかもしれない。 大抵その「正しいこと」は大いなる葛藤の先に導き出されるものなのかもしれない。 やたらと女性問題の多い議員の妻、その裁判の検事、一般的にはそこの意識が必ず違うとは限らないが、このドラマでは夫が議員というのがミソなのかもしれない。そのせいで、議員の妻は受容し難いような屈辱にも耐えなければならなかったため、裁判にも出席し、イメージアップを信じて夫に協力しようとした。 現実的にはどうなのだろうか。彼女は夫の何を信じていたのだろうか。権力なのかお金なのか、はたまた芋蔓式に連なる自分の立場か。 夫の弁護士も女性だが、検事も女性である。 きっと裁判が始まる段階から妻も含めて3人からその夫への思いはある部分で共有されていたのだろうと思う。 しかし細やかな話である。男女の性暴力事件であるが、被害者の証言の「はじめは良かったが途中からやめて欲しかった」と言うことが争われた。 日本ではおおよそそこまで議論すらできないであろう、繊細な心の機微である。 しかも夫の暴力性も不愉快である。わたしでもただの勘として「こいつはあかんやつ」と頭の中で警告が鳴っていた。 「いやよ いやよも好きのうち」という恐ろしい言葉がある。そしてアホな男はこれを信じている。 そもそも女性の気持ちについて週刊誌のような知識では頑張ったところでその程度である。 相手が自分と同じ人間であるという「事情」をどのくらい人が許容できるのか、それが人間関係の基本にもかかわらず、このえげつない爆弾のような誤解に基づく理屈を持ち込むことで全てが破壊される。他のことが対等であるのに、この件だけそんなに男性のわがままが通るわけがないでしょと言いたい。 相手を尊重すること、敬意を払うこと、多くを許容しながら理解し合うこと、それが心地いい関係の基本だと思う。 でも違う優先順位の軸で生きる人がいる。 その違う軸の人とわかりあうことを積極的に楽しみたいとわたしは思うのだけど、実はそのあたりから相手に拒絶される事も多い。 オッサンの...