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PTSD当事者の毎日「アイスクリーム」

わたしの日常は、絶え間ない苦しみと闘う日々だ。  その根源にあるのは、「最低だった家族との生活より、世の中で暮らしていくほうがきっとマシに違いない」という、歪んだ価値観だ。  これは、漠然とした人への信頼というよりは、むしろ一般的な価値観とは真逆の、切実な生存戦略と言えるかもしれない。  様々な困難を経験してきた今でも、私はこの考えにすがって生きている。 それほどまでに、私の実家での暮らしは異様だった。  中学生の頃、頑張って部屋を飾り付け、美術館でかった好きな風景の写真や広告で綺麗なものをいただいたものポスターを貼って「よし!」と次の日を迎える。  しかし、学校から帰ると、そのポスターは剥がされ、ゴミ箱にすらなかった。  何度も繰り返された。  日記を書けば、その晩には必ず読まれ、朝まで厳しい叱責が続いた。今でも日記は苦手。書いてもいい思いをしなかったので苦手なのだ。  物理的な自由、心の自由、どちらも許されなかった。  今、あの状況を再び体験したら、間違いなく窒息してしまうだろう。 これは、他者から見た私の家族像とは全く関係ない、内面深くに潜む闇のようなものだった。  当時は、そんな分析をする余裕などなかった。  ただ、ただ、耐えることだけを必死で考えていた。  そして、一つ一つの出来事に対して、「傷ついた」「辛かった」という感情を、きちんと認識することさえできなかった。 親が亡くなり、私は一人になった。  そして今、PTSDという診断名と向き合っている。  あの家族との暮らしは、間違いなく私の人生で最悪の体験として刻まれている。  だから、世の中は、きっとそれよりはマシだろうと思う。  そう信じなければ、あの日々を耐えられなかった。  それは、私にとって、希望の光だったのだ。 しかし、毎日が容易ではない。  私の心は、まるでアイスクリームショップに並んだ、美しく満ち足りたアイスクリームのように見える。  しかし、それは、日々の生活の中で、少しずつ溶けていく。  嫌な言葉を浴びせられた時、それはまるで、大きな金属製のスクーパーで、私の心がゴリゴリと抉られているような感...

人格改造の告白

本当に幼い頃、わたしは今と全然違うタイプの性格だった。 わたしの家では強すぎる家父長制と宗教の色が強く出過ぎて何がなんやらわかりずらい両親が絶対的であったので、色々とぶつかることも多かったが、実際にはその前は非常に従順できっとそこそこいい子だったと思う。ユニークではあったと思うが。 わたしの親は、これをしろあれをしろという前になぜやらなかったのかという追求をよくしたのだが、今思うとそのようなスピリチュアルな要求にすらそこそこ対応できるほど、親から見た時に大きな問題を感じることもなかったのではと思ったりしている。年齢にしてはかなりヘビーな要求が次から次からあったのも事実だが、なんだかんだで一生懸命それをやろうとしていた。 しかし、中学校で私学に入った途端、授業料が高いことでそれを引き換えに何かをやれという親からの言い分が増えていった。 「もう授業料払わへんぞ」ということを二言目には言われたものだった。今思うとじゃあ払わなければよかったのにとも思えるがその頃のわたしは脅しに素直に怯え、なんとかしようと努力していたのだと思う、幼かったので。 そんなわけでだんだん親の言い分が奇妙に変化し始めた。無茶振りや理不尽なものも増えていった。 ところが、中学二年生の初めにちょっとしたいじめのような出来事があった。クラブ活動の中で、所属する同学年の人全てに嫌われていたということが発覚したのだった。その時までそんなに嫌われていたことをわたし自身が知らなかったことが一番びっくりだったが、その直後、これは困ったことになった、と思った。 なぜなら彼女たちはかなり人数が多く、今後の学生生活を脅かすほどあちこちにいたからだ。なんかやばいことになりそうな予感がして、どうしようかと思った時にまず決めたことは、 「とにかくこちらが誰一人も気にしないようにしよう。忘れたふりをできるほど気にしないでいたら、彼女たちはもうそれ以上言ってこないはず」ということだった。 そもそも大した理由もないのに多数決のような形で追い出されたから、その葛藤も強く、決断に悩みすごく辛かった。でもそうしないとここでは生きていけない、そう思ったのだった。だから単なるクラブ活動をやめたというだけのこととしてこの件を終えようとしたのだった。わたしの側が気にしなければなんとかなるということだけはわかっていた。それで本当に終われると思ったの...

VOL.23  父が死んだ日

  今日、父が亡くなったらしい。メールで知った。 変な気持ちだ。 ドキドキと動悸がしたし、オロオロと何をしたらいいかわからない。何をしたいのかしたくないのか、わからない。 あー、ほんまにうちはいつも突然だなあとか、式に行けば妹に会って何を言われるかわからないし怖いなあと思ったり、どうしたものかという戸惑いと、嫌すぎてスルーしたい思いと、これからまた色々と面倒なことが起こりそうな嫌すぎる予感と。 場違いなことであるのは承知しているが、何もわざわざ父の葬式だからと、妹に再会したくなさすぎて、できればやはりわたしは妹に会わないで済ませたい。 ああ、わたしの人生で一番大変だった人が亡くなったのかあと思う一種感慨深いような気持ちと、その父の若い頃とそっくりになってしまった妹にあうことでまた繰り返してしまう恐怖と。 ある友人が圧倒的にシビアな言葉をそんな揺れてるわたしにくれた。 「ほっといたらええ」 もちろんわたしの家族のこれまでをよく知っているからこその言葉なので、決してただの偶然に出た悪口ではないのだけれど、わたしの中にもある残酷で辛辣な部分をこうやって引き受けてくれてよかった。 で、わたしはどうしたいのかとかいうこと以前に、実は今、びっくりし過ぎて感情や感覚がかなりふわふわしているままでそれがなかなか治らない。 きっとそれなりの言葉のやりとりはできるんだけど、自覚としてはかなり薄い感じ。こういう解離症状のようなものは久しぶりなのだ。 困ったな、そういう言葉ばかりが浮かぶ。 人が亡くなるといろんな物事が怒涛の勢いで進むのは誰でもそうなのだけど、なぜかわたしの実家は突然亡くなるパターンが多いので、今回もまた父の死を取り巻く物事についていけていない自分自身にただ困ったなと呟くしかできない。 わたしの実家にわたしの存在はあったのだろうか。 父の中にもあったのだろうか。 わたしは実家でいつしか全員のサンドバッグだった。 そんなわたしが、父が亡くなったと言ってわざわざできることはない気がする。 「理想的な」娘像としては、それでも「わたしは長女なんですから」とか「産んで育ててくれてどうのこうの」と心にもないことを言いに行くことを求めるんだろうけど、 サンドバッグにしていいと思われていた娘にもそれは有効なんだろうか。 普通に、ただの悼む娘、ではいられない気持ちがある。 一つだけ今...

日々の考察 vol.22 虐待って終わるのか。どうやったら終わるのか。

最近とてもえげつないニュースが多い。 どうやらあっちこっちの公務員の方々が無茶をしているようで、記者会見ばかりが目につく。 あっちでペコペコ、こっちでペコペコ、合間に開き直るやつやら、おっさんというのは本当に人の事情より自分の事情なんだなと思う。 ここのところ、虐待によって起きるニュースも多く、その度に児相だの施設管理者だののおっさんが似たようなことを言い訳しながら謝罪しているのだ。つくづく奇妙な時代である。虐待はかなり熟練の第三者によって判断されてしまうくせに、その判断の基準は被虐待者の気持ちによるという責任逃れな構図があるから、結果的になかなかいい加減なことになり、結局悲劇は起こるべくして起こる。こういった相談機関は、すぐに「業務としての関わりの限界」を言い訳にするが、そのような方は、そもそもそのような職業に向かない。自分の立場のために判断することを嫌うような大人が子供を助けることは無理なのだ。後から悔やむことは誰でもできるが、命を救うことの責任が取れないなら、そもそもいない方がいい。 業務の前に一人の人間であることを忘れてしまうような人は福祉業界にいてはいけないのだ。 これが公務員というものかと実に情けない。自分の愚かさを競い合ってどうする。なぜおっさんにはまともな羞恥心もないのか。 虐待事案において、正直言って自分で今虐待を受けていると自覚できる人は大人でも少ないのではないだろうか。やっている側もそうかもしれないけれど。 本人としては、ただそのようなものとひたすら教えられるとともに、圧倒的な受け身でしかないからだ。だいたいその空間には、真っ当な常識的モラルはないのだ。だから良識ある第三者がその常識的モラルにおいて介入して支援しなければ助けられないのだ。ややこしい理屈を捏ねていることと命を助けることはどちらが優先されるか、それこそ本来悩むまでもないことのはずなのだ。つまり根本的に命を助けない理由というのはありえないからだ。 さてわたしの育った環境は、その点においてとても酷かったみたいだ。 そんな過去の一コマを話すにしても、毎回毎回「実際あったよりひどく話していないだろうか?」とわたしは自問自答する。表現し難い暴露に伴う罪悪感や、この期に及んで事態を矮小化しなきゃという気持ちが瞬時に働き、それが実はとても疲れるのだ。自分の中の気持ちがとても巨大な綱引きをするみた...

『正欲』 Netflix  正しくないという生きにくさ

このところ、何かと正しさとか正しくあることを求められすぎている気がして、正直言って非常に息苦しい。 何かを正しいと決めることは、本来とても労力の必要なことだと思うのだけど、このところはその正しさという紐で縛り合うのが文化みたいになっている。 わたしはこの点において正しいのであなたも正しくしてください、みたいな。 どうしてそうなったのか知らないが、奇妙なプレイである。 本来自分は他人の気持ちを理解することができないものである。そのことが怖いのか、せめて(勝手に)正しくあればいいという落とし所を作っているだけに思える。 よくいう、ポリティカルコレクトネスというものですら、その実態は、単に個人の感想を尤もらしく主張するという手段として意味だけが変化してきている気がするほどだ。 そう、日本語の社会では、「コレクトネスを達成するには」という課題に対して「尤もらしくいうこと」、という結果で済むような、言葉そのものの意味を変えてしまうことへの抵抗がなぜかあまりない。そんなあやふやさが割と罷り通ってしまう文化がある。 その果てに今どんな世の中か、というと誰もが生きにくく、誰もが適応できかねる社会になってしまった。 自分が「弱者」と思うのかどうかという違いだけで、一見強者に見えていても、その実は恐ろしく脆く儚いものである。 以前は、「明日は我が身」というような発想で取り組めばまだなんとかなったと思うが、今はそうじゃない。 本当に今の世の中は、既に生きにくいと感じる人ばかりではないだろうか。例えそうじゃないと思う人がいても、今の価値観においてはただの鈍感な人に過ぎなく、その人もまた実際には生きにくいはず、という社会である気がする。 しかし、社会のシステムはそんな人々の感情の変化についていけるわけもなく、あまりに敏感な今の世代ではそれを変革するだけの体力がない。誰もが生きづらくて我慢しているなら、お前も我慢しろというような。 これはとても困った話なのだ。 昭和か。水を飲めない部活のようなスパルタぶりだ。 その結果、世代間ギャップというより社会全体が社会的弱者であるという奇妙な事実。この現実をどうしたものか。鈍感な社会に対して敏感な人たち。みんな水に飢えてカラカラなのだ。 この映画において、中心にいるのは非常に生きづらい人たち。正直言ってその趣味嗜好は共感しにくいが、彼らの生きづらさは伝わ...

グッド・シリアルキラー ホラー映画なのに笑えてくる来るべき未来の映画

わたしの実家では  欲しいものがあれば、どうしてそれが欲しいのか、なぜそれが必要なのか、購入のための趣意書を作成して親の許可をもらわなきゃならなかった。 当時はネットもなかったのでそのやり方か、もしくは自分で稼いで買うように、と言われたからわたしは高校生の時からとにかく必死でアルバイトをしていた。 そんなこんなで年齢を重ねるにつれ、自分の都合で楽しみたい趣味もできたし、それを満喫できる空間も欲しかったのだと思う。思う、というのはいまだにわたしには、プライベートというものの線引きによる実感がピンとこない。実家では、わたしの部屋に内鍵をつけることは許されなかった。一回、わたしが相当な年齢になってから部屋を改築したときに、扉を付け替えることになってたまたまそこに内鍵がついていることを知った母が、あられもなく発狂しそうになったのを見て、わたしは本当にこの人はわたしがそういう空間を持つことを許せないのだと不思議に思った。変な感想ではあるけれど、その執念を思うと逆にわたしはそれまでのことが腑に落ちたし、心から奇妙にも感心したのだった。 中学生の初め頃、当時駅で気に入ったポスター(なぜか「いいちこのポスター」とかが好きだった)を駅員さんにお願いして取っておいてもらってそれを持って帰ったりしていたのをアート気分で部屋に貼っていた。わたしはいつもそれを気に入って眺めて過ごしていたのだが、ある日帰ったら全てなくなっていた。その光景はとても衝撃的だった。 わたしはなんとなく父によるものかなあと思っていた。またなんか気に障ったんだろうと思った。でも確かめなかった。 随分経ったある日、いつものように母があれしろこれしろ、あれはするなこれはするなと色々話していた時に、「あんなしょうもないもんを壁に貼る暇があったら」と言った。ん?「お母さんやったの」「そうだけど?」「お母さんやったのか」 「破って捨てたわ」 「なんでそんなことをできるの」 「なんなん?そんなにいうほどのもんでもないやん。欲しかったら買ってきたらしいやん。ほら、財布渡すわ」 そう言って母は財布を投げた。まるで母が被害者みたいだなあと思った。 「もういいわ」 「早く買ってきなさいよ。そんなにぶつぶついうなら出ていって好きに暮らしたらいいやん」 そんな母の言葉を背にわたしは部屋に戻った。 そうだったのか、母だったのか。そんなふ...

日々の考察 vol.15 1匹のヒトという生き物として生きること

  このところ、いわゆるフラッシュバックというもののあまりの連続に発狂しそうである。 わたしの部屋で 夜を徹して行われた父と母からの折檻 の光景、その後に必ず迎えた朝の光景、助けに階段を登ろうとしては止められてしまう祖母の存在、そんな毎日をただ耐えている時に感じた無力さと絶望。 繰り返された「お前は必ず他人に迷惑をかけるから何をするにも絶対に他人を巻き込むな」「どうせお前の考えることはろくなことじゃないから、好きに生きていけると思うな。そうしてもそう思うなら出ていけ」「授業料をこっちは払わなくてもいいんやぞ」 今もわたしはきっとあの絶望の空間にいる。あのいちいちの発言でわたしは毎回心を削り落とされたし、きっともう今はわたしの心というものは残っていない。結果的に破壊されても仕方がなかったと改めて思うのだ。そんな言葉を、わたしは本当にしょっちゅう夜から朝まで土下座をしながらきいていた。わたしと父との会話を全部足したところで、わたしが土下座をしないで話した時間の方がきっとすごく短いだろう。それくらいにいつも必ず長時間にわたってであった。 ずっと「じゃあなぜわたしはこうやって存在しているのか」と疑問だったが同時にその「答え」もその時両親は口にしていた。 「神様から預かったと思うから育ててやっているけどこんなんじゃどう顔向けできるのかわからん、こんな子で恥ずかしい」 自分でも不思議なのだが、この発言を当時(中学校から大学に入ってしばらく経つまで)何度も聞いているうちに「親としてなんと無責任な表現なのだろうか」とだけは思うようになってきた。口には出せなかったけれど。あ、一度高校生の時に担任の教師にあまりにも不思議だったので、その疑問をぶつけたことがあった。今思うと、その担任は、前提としての情報がない中で「神様」のくだりだけを突然言われても、きっとわけがわからなかっただろうと思う。でも掴める藁を探していたわたしとしては、また周囲の大人を諦めていくことになっていた。 そんな数えきれない体験を通していく中で、結果的にわたしはひとつの法則のようなものをゲットしてわたしの心の奥底に敷いておいた。 「人間と人間関係は信じるに値しない」「本人の都合でいつでも裏切る」「自分と接しているときに見えている人柄が全てではない」そして人間というのは「所詮その程度の 動物である」 もはやそれは怖...

日々の考察 vol.14  改めて、生きるってなんなのだ、当たり前じゃないんだ

  いくつになっても、自分が振り返った自分の人生への想いがひっくり返るような出来事と言うのは起こる。そしてその度に、これ以上もない虚無感と絶望を味わい尽くすのだ。だからわたしは過去を振り返るのは好きじゃない。 思えば、わたしの親がわたしにしてきた強要的な支配のようなものが、通常の親のものと違うのかもしれないと思い始めた時から全ては始まっていた。 しかし、家族として暮らす以上、そのいちいちの答え合わせのようなものを過去に対してまで行うことはしなかったし、きっとその時の「現状」ですら、その時のわたしが生きていく上で耐えうる程度にしか認識していなかった。きっとそうに違いない。 だからこうやって後からまるでツケを払うように「あの時はそんなものだと思っていたことが根本から違うなんて」という出来事に今更出くわすのだ。 最近ちょっとしたことをきっかけに、わたしの中にある過剰なグロい下ネタへの嫌悪感に対して自分で疑問を持った。なんだか生理的に嫌だわと。しかもそれって異様なほどだわと。 そして、これってもしかしたらあのことが原因なのかなあと思うような過去を2つ思い起こしたのだ。ちなみに、わたしはそれまで、その2つの過去をトラウマになりうるものだと思ったことはなかった。 1つは、わたしは中学校の時から電車に乗って1時間はかかる学校に通っていたのだが、電車の中でも、その待ち時間に利用する本屋でも、とにかく痴漢にあった。 渋滞している空間には必ず痴漢がいる、今ではそんな解釈をしているわたしだけれど、初めて痴漢にあった小学校を卒業してすぐのわたしは、されていることは嫌だったけれどそれが「痴漢」ということだとはわかっていなかった。 そこで、帰宅後、母に聞いてみた。こんな事をするおっさんがいたので嫌だった、と。それを聞いた母は「それは痴漢だ」とものすごく怒った。わたしもその様子を見て、やっぱりあれはやったらいけないことをあのおっさんがしていたのかと少しホッとした。 そしてそのまま学校には通い続けていたが、高校生の頃にほとほと嫌気がしてものすごく早い空いている時間の電車で通うことにした。ちなみに、そんな痴漢は一人ではなく周囲にあまりにもいっぱいいた。 ただ、そのことでわたしはちょっと混乱したことになった。 なぜなら、ここからが2つ目の過去であるが、わたしの家族というのは宗教的に独特な立場(...

日々の考察 vol.13 障害者の障害とは何か、動物園のフェンスのようではないか

  わたしが人と接するときに守っていることというのが3つある。 先入観をなくすこと。 相手の存在を信じて人生を尊重すること。 そして謙虚に敬意を払いながら接すること。 それを踏まえていればそれほど大ごとは起こらない、そう思っていた。 しかし、なにぶん友人でもない相手とのコミュニケーションになることが多く、なかなかそうもいかないのが今のわたしの毎日の生活である。 だからそう言った問題を起こす人の大方の言動は、一方的なわたしの生活への侵入であり、そう言った侵略的な行為を平気でやるオッサンというのは意外と多い。 わたしはこのような事態に直面するたびに、一体そんな人がなぜこの福祉サービスという業界に存在するのか、と毎回頭を抱えるところから繰り返すのみなのだ。 そして、そんな時にいくら他事業所が入っていても、予防的なこともなければ、臨時の対策も講じられないのもこれまた現実なのだ。必要な積極性が時として失われてしまっているその事態もなかなか表面には出ないが、隠れた大きな問題ではないかとわたしは思っている。つまり、突然の事故などで危篤になったとして、そこにどれほど人道的なモラルが発揮できるかは、あまりにも不確定だ。わたしたち障害者という存在からみて、これほど身近で遠い存在もなかなかないだろう。 これではあまりに脆弱で、とても健康的に大きな問題を抱える人の支援としては危険すぎる現状ではないのかと思いが至ると、一人の当事者としてこの福祉の現状はただ悲しくてならない。 まるで当事者が作り上げた福祉サービスを、無神経な侵略者に乗っ取られたような気持ちである。それほどに支援を受けていることそのものの情けなさを実感させることもないのにと実感するしかできないのだ。現場としてはあまりに残酷な問題である。 こう言った一つ一つは「命に関わる」という意味で限りなく犯罪性の高いものであるが、なぜかこれまたそういう扱いにならない。いちいち当事者が裁判所に訴えないとならないほどに放置されたままなのだ。これが一番わたしが生活していてわからないポイントだ。支援といえば犯罪も許されて捜査もされない。それが日本の福祉の現実である。 そりゃ子どものいじめもなくならないはずだわ。 さらに正直に申し上げるなら、その捜査ができるであろう行政も見逃すし、なんならこれも一つの口減らしではないかと思っている。公に「お金の...

日々の考察vol.12 変わり者ができるまでのレシピ

  どうしたんだ?ぐっさん つくづくわたしの価値観はきっとずいぶん変な気がする。 生育歴といえばそれだけの理由になってしまうので、わたしはとても口惜しく感じるしかないのだけど、そこに関してはいつもわたしに選択の余地は無かった。だからと言って人のせいだともいうのがつらいのだけど。そう、人のせいにするのがわたしは本当は大嫌いだ。前項で色々と述べてはいるが、根本的には何かがあったとしても、人のせいにしてしまいたいとは全く思っていない。お互い様だという程度である。 でも、そんなこんなわたしの価値観はどうやってできたのかと、自分の歴史を振り返ることがよくあるこの頃である。あまりにも周りとのズレがあるからだ。 わたしの物心ついた頃から、親や一部の親戚についての祖母とかという言葉はいい響きではなかった。 気分次第ではありながら、軍隊のように理由もなく父はいつもキレ続けるし、その度に徹夜で付き合わされるし、朝になれば「学校に行かないといけないから」とやっと解放されるけれど、その晩にでもまた同じ日々の繰り返しだった。今思っても、あの頃のわたしはいつ寝ていたのか覚えがない。ある時などは、保健室で6時間とか寝て「なぜそんなに寝たの?」と、驚かれたこともあった。あ、わたしはお嬢様の多い学校に行っていたので特に。 そんな朝、母が毎回キッチンで言った、「1日の苦労は1日にして足れりという聖書の言葉がある。毎日そう思って昨日のことは忘れなさい」 なぜかあのシーンは今も画像として思い起こす。朝の日差しとか、食欲のない朝食を何か食べないとならない気持ちとか、色々を。 それ以来、そんなふうに嫌なことがあると、その母の言葉が呪いのようにわたしにまとわりつき、忘れることは難しかったのかもしれない記憶を、それでも無理やり蓋をするようにわたしの心の奥底に一つ一つ縛りつけていくのだった。 夜、父に朝まで何だかわからない理由で怒鳴られ続けていた時に、何度も言われた言葉もきっとわたしには呪文となってしまっているのだと今のわたしは思う。 「一切言い訳するな」 「お前が何かをされたんじゃなくて、どうせいつもお前が悪いんだ」 「お前が全て悪いのだ。どうしてくれるんだ。誠意を見せてまず土下座しろ」 「お前を好きにさせたら碌なことにならない。他人にいつも迷惑をかけることしかできないお前なんかに自由なんかないと思え」 ...

「ETV特集 市民と核兵器~ウクライナ 危機の中の対話~」 私たちは誰かを守るために何ができるのか、支援の可能性を戦争から考える

ETV特集 市民と核兵器~ウクライナ 危機の中の対話~ このところ、悪といえばプーチンという形容詞のようになっている、対ロシア問題である。 たくさんのドキュメンタリーが作られてきており、プーチンの何がいけないのか、ウクライナはどう戦うべきか、諸外国はそこにどう関わり、解決に貢献できるかなどを語られてきている中で、やっぱり根本的にプーチンという人の言うことに対して理解不能で思考停止している状態が続いてしまっているのだなあとも思っている。 わたしの考察というのは一貫していて、彼の思考回路は、家族的な価値観で言えばただのDVなおっさんだということではないかということである。 圧倒的なコミュニケーション能力の欠如があるのだが、それを暴力で全てリカバリーしてきた経験が、たまたまロシアでは成功した人。 だから本当は国際社会ではなかなか本人が望むような評価を得られないできたことへの鬱憤もこの逆ギレ戦争には込められているのだと思う。 今まで彼の暴力的な傾向にいち早く気づき、先手先手をうちながら「私たちうまくやってるでしょ?仲良くやってますよね??」と寄り添いながらうまく協調できてきたのは、ドイツのメルケルのみだった。 悪いけど、ああいったやり方をできる男性はまずいないのではないか。G7から外すのではなく、その輪に歓迎することで暴走できないようにする。プーチンだけではなく、世界のための協議なのだからという民主主義の根本が彼女にはわかっていたのだと思う。 プーチンの持つ、過剰な支配欲にメルケルが気づいていたかどうかなんて愚問である。プーチンが元々そうなのかというより、国家元首という莫大な権力を持ち続ければが男性というのは支配欲に拍車がかかるものだからだ。そして彼のストッパーとなってきた側近はこれ見よがしに殺されてきたではないか。もうそのあたりで十分彼は病んでいた。 さて、話は戻るがとにかくいちいち鬱陶しくも優しかった母親役のメルケルもいなくなったことだし、プーチンは暴れ出した。久々に暴れているのだが、もう止まらなくなってしまったのだ。 ウクライナはえらく怒ってやり返すし、正直メルケルがいたら・・・と今彼が一番思っているのかもしれない。アホみたいな話だけれどオッサンというのは案外そのようなものである。インタビューで調子に乗って脅すようなことを言いすぎても、あんなん大丈夫ですよ、わたしがち...

日々の考察vol.6 「善人であれ」という呪縛は善人によるとは限らない

レトロすぎるわたしなのだ   環境ってなんなんだろう。 当たり前が当たり前じゃなかった、ということの衝撃。 よくそんなディストピア映画がある。 その時代には今ある「自由」が制限されていたり、そもそもそこの誰かに管理されていたりする。そういった作品を見て「ああいう世の中にしてはなりませんな」と思う人が多いのかもしれないが、わたしはいつもフラッシュバックを起こしてしまうのだ。既視感、それは「確実にわたしにはそこにいた経験がある」ということの恐怖を呼び戻すのだ。 そんな時期がわたしはとても長かったと思う。正直言って「バカみたいに」長い間そんな環境にいた。 逃げればいいのにといつもわたしは知っていたのに長く耐えることを選んだ。 「バカみたいに」耐えていた。 そんな時わたしにはいつも呪文のように自分に言い聞かせていた言葉があった。 ローマ人への手紙 5:3-5 JA1955 それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。 そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。 つくづくよくできていると感心する。なぜならわたしは、決して「このように考えて耐えろ」と言われたわけじゃなく、自らこの箇所を気に入って信じていたからだ。  そう考えることがこの言葉どおりに「希望」だったからだけじゃなく、何よりクリスチャンの親にはウケが良かった。うまくそれなりに誤魔化せたのだ。わたしが本当はどう思っているかというわたしの気持ちを。わたしはずるく育ってしまった。 人から見ると本当に奇妙で情けないのかもしれないけど、親の感覚と子の感覚は全く別物で、これはきっと動物的本能として子は親を絶対視する。特に幼い時にはそれが全てだ。どんな親も変じゃないものなのだ。だから成長していく時に、親に対する批判的な心情が生まれると、罪悪感も抱く。特にわたしの育った家のような支配的な親子の間では、そういう親と違う意見を持つことそのものは、同時に死に値するほどの恐怖を伴うことだった。 非常な表裏のある親を見て知っていたし、正直に言えば自分がそうなりたいとは全く思わなかったが、段々と自らの本当の気持ちを隠すうちに、「取...

日々の考察 「支援」vol.1

『支援』が人の心を壊すということはあるのか      わたしの両親のわたしへの関わりはいつも独特で一方的でしかなかった。 そんな中でわたしは言葉を失い、いくら話してもその言葉がまともに尊重されなかった。とりあえず、子どもとしてわたしはそんな環境では生きるためのことしか考えなかった。きっと外ではもっとマシな未来があるという可能性だけを信じていたのだ。 そんな中、ある時両親はいつものような一方的な流れでわたしの精神科への入院を決めていたことがある。その体験はいつもわたしを恐怖のどん底に落とす形で今のわたしにも暗く影を落としている。それほどにその入院病棟は異常で終わりのない恐怖に満ち満ちたものであった。 それでもわたしは愚かなことに、ここと違って外の世界である社会においてはそういうところばかりではないはず、そういうことのない人生を選べるはずだろうと毎度毎度ほんの少しの希望に縋る思いで命を繋いでいた。忍耐の時間と労力で生きていた。いつも疲れた子どもだった。 そしてやっと長い時がたちそんな色々から解放されたと思った時に、いきなり社会、わたしにとって希望を託すしかなかった社会はどうだったと言えるのだろう。 もしそこでわたしが病気になることもなく健康で働いていたなら一人前の人間として生きていけたかもしれない。例えそこにまだまだ課題はあったとしても。 しかしそのタイミングでわたしは社会的な福祉サービスという支援を受ける存在となった。 正直言ってこれがまずかった。なぜならここ福祉業界の力の構造はわたしの生まれ育った虐待的な家族となんら変わりなかったからである。 虐待的な業界ではあるが家族ではない。 一般的に家族だから発覚しにくいのであり、他人ならただの犯罪である。 にもかかわらず福祉業界というものが一つの家族的な共同体となって守り合うために、一つの家族的共同体における DV のような構造となっている。だから相互に犯罪的な行為ですら注意し合えず、必然的に見殺しとなっていく。例えそこに犯罪があってもそれに対処しうるものでもなければ予防もできない。 果たしてこれを『支援』と言うべきなのか、自覚をしてほしい。支援とはそれほどに無責任でもないし、勝手なものでもないはずではないか。命を手助けすることと逆行することがあってもそれを指摘できないなら、一体それは何をしているというのか。 今、社会的には...

Britney vs Spears  ストリートファイターの孤独

誰が見ても「なんてこと!」となるこのドキュメンタリー。 ブリトニース・ピアーズの長い長い闘いの記録である。 非常識な父親などに苦しんだブリトニーに非常な親近感を覚えた。だからこそ、ずっと胸が痛かった。腰が曲がるくらい。 この父親にとって「自分の娘」はあくまでも親にとってのツールに過ぎないから、きっと一生「個人としての娘」という概念は理解できないであろう。彼女の一方通行な苦しみを思うと、たまらなかった。 彼女の緊張で休まらない生活の連続を思うと、そうだったそうだったとろくに稼いできたわけでもなかったわたしの人生と感覚的になぜか重なる。 そんなわたしのことで言うと恐縮だけど、いまだにわたしは生活していて「緊張」が取れない。どんなに気を抜いて暮らそうとしても、どこに住んでも緊張が取れない。 週に5回も鍼治療が必要なほどに、緊張が身体に染み付いてしまっている。 これは異常なことなんだとわかっていても、自律神経についてはどうにもならない。 確かにわたしにはお金は大してなかったが、同時にLDの算数障害があることが近ごろ分かった。 だから家族にはそのことを何度も訴えたが、その度に怠惰であるとか馬鹿だとかを罵り続けられた。 お金があろうがなかろうが、きっとこういう父親は子どもを潰してしまう。 現にブリトニーはお金以外にも多くも人や物を失ってきたではないか。 後に一人で生活するにあたり、福祉サービスも利用したがほんの一人の担当者が、わたしの引っ越しによって変更することでまた必要なサービスは行われなかった。 わたしは今、右京区に住んでいて、近々3年目に突入するのだけど、ただの一度も必要なサービスが行われたことはなかった。 さて、家族は今も昔もわたしを罵る存在であった。 そこから出ればもう少し違った世の中があると信じていた。 福祉サービスを受ければもっと人道的な時間を過ごせるのが当然だと思ってきた。 そのうち事実がどの程度なのかと思うと訳がわからなくなる。 結局「家族がDVでした、社会もDVでした」 が正解なんだろうか。 その時、社会において圧倒的に理不尽な父親の役割は誰なのか。 おっさん病のおっさんと違うのか。 何度も言うが、わたしはブリトニーと違う。 お金もないし、発言力も大してない。 この構造的な問題に、アメリカですらなかなか手出しできなかったではないか。 じゃあ、もっと人権意識の...

「天の怒り」わたしの喪失とオッサンの喪失 

はっきりと後味悪い映画である。 大御所の男性作家と元助手、もう一人の作家、こちらは作家希望だった男性、この3人と周りの人たち。この3人の10年以上にわたる物語。 軸は家族の死である。 あと、復讐についてどう考えるか。 アルゼンチンの映画で始終聖書に基づく価値観が出てくる。特に旧約聖書の方が。 元助手ルチアナは、牧師の娘で真面目な女性。 まあまあな大家族で和気藹々と暮らしていた。 それに対して大作家クロウリーは妻と娘の 核家族で、どうも妻が神経質すぎるなあというくらいから物語が始まる。 きっかけはセクハラで訴えたこと。それのせいで家族が一人ずつ殺されていったというのがルチアの主張である。 この大御所は困ったオッサンで、何を自慢したいのか聖書を自分の「復讐心」の当て馬のように使う。 わたしも牧師の娘で小さい頃からまあまあ聖書を読む機会は多かったし、その話はとても身近だった。 でも、あれほど都合よく読めてしまえる書物も他にないなあと今も思う。ある意味矛盾に満ちていて、TPOに合わせて何とでも使える。 しかもそこには、縋り付くような思いで信仰を求める多くの人たちがいた。 わたし個人は、聖書というかキリスト教のモットーは「赦し」というもので、とても好きな考え方だと思っているのだが、それに対して旧約聖書の主は神でありちょっとパワフルなキャラでありまあまあ矛盾するようなことになっている。 それが「復讐」なのかもしれない。 困ったことだ。 それでそのような本来非常に個人的な思いに過ぎない「復讐心」を、聖書という武器で裏付けようとするのだ。 つまり、「神がわたしにそうさせている」という理屈である。 わたしの生育環境がかなり暴力的であったが、そこにもいつも両親だけでなく「神」が存在した。 「お前がちゃんと育つようにする義務がある。なぜなら親は神から預ったんだから」 「神はいつも見ているんだぞ。何もバレないと思うな」 「うまく育たないと神に顔向けできない」 だから、先ほどの復讐についての件をこの映画で語られているのを見た時も、そうなんだよね、この手の人はそう思うんだよね、とある種の納得をしてしまったのだった。 たとえ神に託されたとしても、所詮親は人間だ。 にもかかわらず、神の制裁を実行することを躊躇しない人がいる。 何様なのか。もう一度いう。何様なのか。 それがいつも疑問だった。 そんな...

「さがす」 こういうことなの? 社会の底辺と波瀾万丈は鶏と卵

  腹が立つ。またこの手の話かとも思うし、そんな映画をAmazonにお薦めされてるじぶんに対してもだし、もちろんこの映画の中身に対してもだし、そんな中身の映画にいつも止まる日本映画の一種の限界に対してもだし、腹が立つ。 石ころをその数だけ並べて蹴飛ばしまくりたい。 はっきり言えば、何をどうしたいねんと。お金の問題なのか、福祉政策なのか、生死の倫理の問題なのか、犯罪か。政府か。 こねくり回しすぎて脳みそは今無茶苦茶である。 確かにいつもわたしも現実がカオスだとは痛感してるが、結局なんやねんとイライラしてることを思い出したでしょ。 ひどい映画だと言いたいわけじゃない。問題てんこ盛り、リスク死ぬほど、そんな環境はなぜに?ということなのだ。現実が。ラストで登場する『正義』だけど、それほど『正義』じゃないことはもう観客には伝わってる。 だからこれをお薦めされてAmazonの口車に乗ってみたことそのものに腹が立つのだ。わたしもそんなことでお薦めありがとうというようなチョロい人間じゃないよと。えらい見くびられたもんですな、と。寝ていた子をしっかり起こされた。そんな苛立ち。 あと、貧困や福祉は確かになぜか犯罪との親和性が高いのかもしれないけど、そこの丁寧さを欠けばこういう「どうせお金なんでしょ」みたいな『正義』になってしまう。それぐらいにたった一人の中での『正義』はショボい。 結局社会的に苦しみながら生きるわたしみたいな当事者の人たちはこういう映画をいつもどう思ってるんだろうか。 よく考えたら、そんなことを語り合うようなチャンスも今まであまりなかった。 我々当事者にとって、福祉も貧困も、障害も「ネタ」じゃない。生きる目的でもない。 日常なのだ。日常であるからこそ辛いこともあるし、日常であるからこそ社会保障制度になっているのだ。これは、非常時でも異常時でもない。このことが、一般的にわかってもらえるならいいのだが。 えげつないストーリーだが確かに繋がりも変じゃないし、むしろスムーズだ。 「社会の底辺を苦しみながら生きる大阪の父と娘。彼ら人生をのジェットコースターサスペンスで」のような違和感。 あ、そうそう、大阪の下町にいきなりUSJができた時のような違和感。 USJは好きだけど、ここで?みたいな慣れなさと、違和感に基づく不思議さと。 でももう当たり前になった、ということは、本当...

「39歳」 不都合な真実の破壊力

  人生においてできれば出会いたくない出来事というのはいろいろある。 そんなことに出会った3人の親友たちが何を考えて何に悩んでどうするのか、そんな物語。 それぞれの境遇において怖くて触れなかったこと、気持ちを表すことの難しさ、大人なのに傷つく事への恐怖と傷付けることの回避、それでも無慈悲に起こる大きな出来事への適切な対処、年相応というプレッシャー、複雑すぎる時期のドラマである。一人一人の言葉がいつも愛おしいのはきっと限られた時間の中で最善を尽くす気持ちによるものなのではないだろうか。 例えば、地震雷火事親父という表現に含まれること。 ①地震 今のところ人生で一番辛かった時期に、何度か生きていけそうにないと思って大量に服薬した。両親はそのようなことで救急車を呼ぶ人たちでないのをわたしは知っていた。何度目かで目覚めてまた生き延びた事への重い後悔をしながら、ぼうっとテレビを見ていた。ずいぶん時間が経って、なんかおかしいと思った。番組らしいものがない。ずっと瓦礫を映し続けている様は異様だった。 「何かあったん」母に尋ねたところ、東北の方で大きな地震があったという。それでテレビも何もかもがいつもと違うことになっていると知った。 その後たくさんを考えた。わたしの命について、日々増えていく犠牲者の命について。 わたしはどうしたらいいのだろう。わたしの人生をどうしたらいいのだろう、と。 できることをひとしきりやってみよう、それでダメならその時また考えよう。そんな非常に暫定的な考えにしか辿り着けなかったけれど、それ以来わたしの意識は変わった。誰かがどう言うとかにかかわらず、今日死んでも後悔しないように一日を充実させようとそれだけを考えた。主治医を変えてやり直そう、まずそこから始めることになった。 「僕の出した薬でそんなことをされたら困る」それしか言わない当時の主治医が本当に嫌だったからである。 ②雷 小さな頃は嫌いだった。怖かったし嫌だったけど、今は何だかスカッとする。 あらゆるものを押し流してくれたらいいのにとその勢いと迫力に何かを委ねている自分を感じるのも好き。わたしは雷に憧れているかもしれない。 ③火事 ①の頃、実家に住んでいたのだけれどその実家が火事になった。古い住宅だったからコンセントからの発火だったとのことだった。でもそれにより家族は家を失った。 保険の手続きやさ...

『その年、私たちは』 - Netflix 偽物と本物と。繊細で温かい愛情に満ちた薄氷の上のドラマ

本物を探すことが人生なら果たして自分自身は本物なのだろうか。もし偽物ならどう生きればいいのか、そんな薄氷を履むような繊細な感情を何度見てもこのドラマは揺さぶる。 こういったことは大抵学生時代あたりで思い尽くすものだと思っていたが、わたしの青い鳥探しはきっと生きる上で一生続くのかもしれないと最近思うようになった。 なんとなく、自分の部屋に青い鳥がいたでしょと他人に言われても「いやあれと違うと思う」とまたふらふらと探しにいく自分が見えるのだ。 本物と偽物という概念は、いつの頃からかずっとわたしの中で対比的ではありながら対等に存在し続けてきた。 だからなのかもしれないが、このドラマの主人公仲間の境遇のまちまちなことで、その危ういながらも細く強い結びつきに惹かれるのかもしれない。 そういう奇跡のような出会いは、実は結構あるもので、「一期一会」とはおしゃれなことを昔の人は言ったものだと感心してしまう。 わたしは、人間とは真似をすることでさまざまなことを学ぶくせに、これまた人間も動物だからか雑に育てられてしまう生き物だとおもう。うまく生きるためにどれほどを我慢しなければならないのかと小さな頃から薄々思ってきた。 我慢することが生きることならいつか生きていたくなくなる。親とは潰すために子どもを産み育てるとはこれいかに?というふうな謎がずっとぐるぐると頭にあった。 そんな何もかもに共通するネガティブすぎる考え方がとにかく嫌だった。 家族も学校も社会もそう。 そういう気持ちに最も辟易していた何十年か昔にこの作品を見ていたらその頃のわたしはどう思っただろうか。 きっと今と大きく変わらないのではないかと思う。環境はあの頃と違うけれど、わたしの同じところに琴線は存在し続けている。 家族という難しすぎる小さな言葉にどれほど多くを詰め込もうとしてきたのかと、ちょっと思った。 あれほど多い荷物はきっとただの家族という袋では破れてしまう。 そんなに強くも大きくもない、たったの家族というだけの袋だった。 その袋を温かいもので満たすか、棘で満たすかそんな程度だったはずなのにと思った。 その割に長い時をかけてしまった。 失ったものは多いかもしれないが、たくさん学びたくさんを得た。 生きる途中で得難いものは必ずしも不必要なものではない。 今わたしは全てがわたし次第だということの喜びを純粋に感じて喜んでいる...

『家族を想うとき』はたして人権はお金で買えるのか。お金って何なんだ。

  またしてもケン・ローチ監督である。 労働者階級における悲劇的な負の連鎖をリアルに描く事をとても得意とするイギリスの映画監督である。 『〜ダニエル・ブレイク』の時と大きく違うのは、この映画の中心となるのは一つの家族だということ。4人が主人公なのだ。 ちなみに邦題と少しニュアンスの違う原題は『ご不在のところ失礼します』というような宅配業者の不在票にある一文である。 父親は新しくフランチャイズの宅配業を始めたばかり、母親は訪問ヘルパー、男の子と女の子がいる。出だしの父親が始めようとしている事業の説明を受けているところからいきなりめちゃくちゃ胡散臭い。 あまりにも条件が良くないのだ。 父親にはマイホームの夢があり、結局その危なっかしい職業に就いてしまうのだけど、それもきっとそれだけではないのではと想像がつく。失業率は相変わらず改善しない。 今、日本の社会における貧困問題が表面化、日常化してきていることでより彼らの苦悩が身近に感じられることもあり、わたし自身ケン・ローチ監督の作品は立て続けには見るのがあまりに辛すぎるので、よちよちと見ている。 それで最新作であるこの作品を観るにあたり、しばらくわたしは躊躇していた。家族の映画というものに身構えてしまう癖があるからかもしれない。わたしには家族というものがあまりにもわからなさすぎるからだ。 この映画は家族の映画というよりやはり社会問題の映画だった。社会全体にまだまだ人権などという考えが共有されているとは言えない現実があること。 お金で人権が買えると言わんばかりに、貧すればブラックな仕事に耐えるものという新しい基軸で回る社会が現れてくる。 既存の法に則った人権意識ががただの理想でしかないと思い知らされるのはいつも貧しくなった時であり、切羽詰まった時であり、またそのような人にのみ開かれる人権のない社会というものが別個に存在することが、悲しいことに共有されているのもこの世界の常識なのかもしれない。 わたしは社会的弱者という表現を自分を形容するために使いたいとは思わないのだけれど、この世の中はあえていうなら「社会的強者のための社会」が「社会的弱者のための社会」を支配し差別する構造になっていて、かなりくっきりと二分化されてしまっている。しかも強者の社会にいる人は時に弱者の社会の出来事を知らない。その逆においてもそうではないだろう...