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差別はうざい。侮蔑という差別の日本に、マイケルは何をもたらすのか。



サンデル教授に聞く「能力主義」の問題点。自己責任論の国・日本への処方箋は? 【マイケル・サンデル×平野啓一郎特別対談】


なるほど、自己責任。あの頭にくる言い分ね。平野さんはそこから引っ掛かっているのもよくわかる。

確かにその表現には、発言者にとって自覚のない侮蔑の言葉としての匂いがプンプンしている。
差別も腹立たしいが、侮蔑は相手の生きる気力を奪う。話の最中に出てきたら、その腰を折る言葉なのだが、それが相手にとって自ら命をおえる決断へのトリガーになりうるほど強い言葉でもあるとわからず使う人も多い。流行り言葉としては最悪だ。

実際、社会という構造の中で生きていれば、自己責任なんて皆無なことは誰でもわかるはずなのだ。
先にそれを列記とした真実として強く信じていれば済むのだが、「社会的弱者」というのは何が弱いと言って勇気を振り絞る場面や決断することにとても弱い。自信がないのだ。それで恐る恐るコミュニケーションを取った相手に自己責任と言われたら、絶望する。

能力主義とは一体どういったことを指すのか、とわたしは最初に思った。
この場合、

なるほど、人をその実力で評価することそのものね。

そもそも、誰かに何かの肩書きみたいなものがあるということ、誰かが何かを持っているということと、その人の良し悪しは根本的に違う話ではないか?とわたしは思っている。
わかりやすく言えば、金持ちで性格の悪い人というのも山ほどいる。
なんとなく思いつく人はいませんか?
昔話にもよく出てくる例である。
しかし、いつの間にそういう能力主義という価値観が主流になっていたのだ? 日本の会社などでは給料査定などの場面では「理想として」そうなのだろうけどねえ。
もちろん人間性とは別の話である。そう思うけどねえ。
平野さんも言っているが能力主義というほど能力が成熟していない集合体の社会なのだ。つまり、能力主義というほどでもない社会なのです、と平野さんが言っているわけだ。日本と欧米の違いというものでもあると、この辺りはやはりお二人の指摘が入った点ではある。ただ、日本も確実に能力主義にシフトしつつあるのも事実なのだ。

ま、実力という抽象的なことでいうならお金だけではないので、この本のタイトルとして忠実にいうなら、チャンスはお金や学歴のある人の方が多いから、それは威張ることではないという感じではないではないか。
100%運でしかないことでも、何度もチャレンジする経済力やコネがあれば確率が上がる。それを自分が「持ってるわ、オレ」じゃないだろう? とマイケルは言ってるのだ。
わかるー。
そして気づけば、その「恵まれた人たち」の層と、「そうではない人たち」の層の格差社会になってしまっているのだ。そういうことの根拠として、学歴主義、努力主義が起こってしまっていることへの指摘である。

こういう文章だけならきっと「わかるわかる」と覚えのある「エリート」も多いことだろう。
問題は、そういったインテリ層が「わたしは差別なんかしていない」と教育を受けた知識があるからだと言い切る人がいかに多くて、実際そうでもない人がいかに多いかとわたしたちのマイケル(フレンドリーに言ってみた)は言っているのだ。
例えば、ホームレスの方々や生活保護受給者に対して、どんなに理屈を講じて「支援」をしたところで「自分はああいうふうにはなりたくない」という強い思いのあるエリートやセレブはとても多い。努力してきたというプライドが今度は邪魔をするのだ。
実にプライドというものは厄介で、大抵の場合、自分のプライドの構成要素を知らない。だから内なる差別があっても平気で無視できるのだ。


さらに、教わらずしてピアノを天才的に弾ける人というのがたまにいるセレブの子どもと貧乏な学校というものすら知らないような子どもでは、ピアノに出会うチャンスのレベルで違う。それを運命だというのなら、まさしくその運命の話をしているのが「能力主義も運のうち」ということなのだろう。

そんなあれやこれやをどのように言い訳したところで、どうしてホームレスの人に向かって、「ああいうふうになりたくない」という感情が起こるのか、という疑問には答えが見つからないだろう。だからそれを内なる差別というのだ。欺瞞と言ってもいい。
そういった「事実」をコロナという疾患のパンデミックは浮き彫りにしてしまった。
一人一人を半ば強制的に分断していく中で、自分が何を必要としているのか、誰を求めているのか、そんなに身動きの取れない状況に追い込まれることそのものに慣れない人たちは、パニクリ始めた。仕事し続けるエッセンシャルワーカーに対する自分の今までの意識の低さに愕然とした人も多いと思うし、そんな中も働き続ける人たちにさえ、菌を撒き散らすかのように差別する人たちも現れた。敬意を持つ前に実際そんな感情をぶつけられた話もよく聞いた。
本来、病気というものは、しかも流行性のものというのは、ある種平等で、誰もに危険なものであるはずだった。
「ああいうふうにはなりたくない」という生活の一端を体験したことで、社会がパニクってきたのだ。わたしたち当事者にとって、こういった環境はそれほど珍しいものではないが、実際にそうでもない方たちがパニクっているのを見て、わたしはやはり誰にとってもこういう理不尽を強いられることは、あってはならないことなのだと痛感していた。
コロナの場合、セレブだから感染しないということもないしおんなじなのになあ、と思っていたらどうやらもっと根が深かったようだ。

人間という社会的な生き物の残酷さと動物的な生き残りをかけた残酷さ、その両方がかけ合わさることで、それ以前の社会があちこちの臭いものに蓋してきた事実を、ここ数年の「新しい生活」というものへの急激な変換は、一斉に露呈してしまったのだ。ネットはより過激になったし、実際犯罪も凶悪なものが増えた。
社会がたった1日でこれほど変わると思わなかった、と当時であった不動産屋がしみじみと言った。誰もがそう思っていたし、誰もが同じく不安だったのだと思っていた
確実に社会は嫌々ではあったけど大きく舵を切ったのだった。どこへ向かっているのか、いまいちまだ誰にもわからないのだけれど。

これは、格差社会というものを作り維持するのもわたしたち一人一人ではないか、というところからはじまり、その垣根をなくしてしまえばいいというところに至る道を示した本だと思う。
構造的にいって、下から下から上に行く人というのはたまにいる。
そういう人は必要以上にカリスマ化され、時として金や異性の問題で失脚するものだ。インテリかどうかはよくわからない。カリスマとインテリは実はあんまり折り合いの良いものではない。カリスマになるとインテリジェンスがなぜか失速する。不思議な現象だが割とよくある。人間という生き物の一種の限界なのかもしれない。

そして、この本のターゲットは、どちらかというと構造的に上にいるものに対して書かれている。政治家やエリート、セレブの人たちに自覚を促すものとしてである。大体この手の本を手に取るものも限られているとマイケルはよくわかっている。
基本的に彼らは物おじせず、社会的に自分よりしたに思う人に対して見下して物をいう。その点において全く自覚がない。
わたしは、今も昔も多分ただのちょっとしたインテリなんだと思うが、そんなわたしが「障害者」になったことで、一部見下し始める人が現れた。あら、てなものである。そして生活保護受給者になったことで、さらに見下す人が現れた。あらまあこれはどういうことなのかと非常に驚いたが、彼らはその自覚がないのでその旨わたしが相手を尊重しなさい、言動に注意しなさいといったら「態度が偉そう」と言われた。
なんですと???あんたの態度が悪いといったのであって、そのことを指摘することが偉そうですって? アホですか(ため息)

でも、そういう人が散見されるのもまたこの国の福祉なのだ。わたしは大いなる幻想を「福祉」という言葉に持ちすぎていた。
それこそ幻想であって、現実は福祉の現場ほど差別的な表現を日常的に聞かなければならない世界はないのではないかと思う。最初、その現実に打ちのめされるのだ。
それをどういうふうに改善していこうとするのか、わたしはそんな福祉の世界で働く人たちに聞きたい。
はっきりと言えるのは、なぜか大学を卒業しているような自称インテリの支援をする人というのはおおむね態度が悪い。自己承認欲求を他者との「差別化」にすり替えるからだと思うが、彼らはもっとしっかりと自分なりの考えを構築すべきである。見下すべき他者がいないと存在できないような人は福祉には向いていない。もっと厳しいことを言うなら、いい大人が承認欲求とかよう言うものだと思う。しっかりしろと言いたい。そう言う意味で自らに欠落した部分があると自覚するところから始まることもある。自覚してどうするのか、職業的に許される範囲なのかどうか、そういった話ならわからなくもないが、大学を出たからなんなのだ。異次元の話に近い価値観を勝手に持ち込んで承認を求めるとは、かなりずうずうしい。なんのためのインテリジェンスだ。
つまり、彼らは押し並べて自らを振り返らない。自省しないのだ。
大学で何をしていたのかと不思議で仕方ないが、なぜかそう言う傾向がある。特に中年以降の大卒は一体どうしたのかすこぶる態度の悪い人が多い。無駄に褒められたがるというか。厚かましい。
確かにこの世は「お互い様」なのである。福祉の基本も平等なのであるが、それはとても重要な考えではあるけれど、個人的な欲望を達成する場として決して平等ではない。
当事者は生活上困難なことを達成しようとしているけれど、支援者は業務上関わっているにすぎない。これを当事者であるわたしが申し上げるのは胸が少し痛むのだけれど、所詮業務上の関係に過ぎないところから、支援は始まるのだ。その上でしかるべき信頼というものを構築していくのが大切なのであって、あくまでも平等というのは、サービスの利用者の獲得してきた権利の問題である。出会い頭から信頼があると思うなよ、というような権利、とも言える。かなり辛口なことで言えば。
あくまでも勘違いした支援者が振りかざすことではない。そもそも利用者である当事者には、そういう平等性がないから支援が必要なのだ。

誰が偉いと言うことではないし悪いことでもない。大体、偉いとか正しいとかそう言う話をしているのではない。間違うなと言いたいだけなのだ。

「生活保護費はきちんと審査を受けたものに税金を出すという社会福祉サービスなのであって、あなたのお小遣いをもらっているわけじゃない。なのにどうしてそんな偉そうな口調で話すのか」

例えばわたしが言ったのはこうである。そしたら行政に向かってそう言ったわたしが偉そう、だそうだ。アホですか?本当にばかばかしい。

そして、この本の中でもう一つ大事なポイントである、そもそものスペックの違いという指摘があった。
わたしは、わたしが人生で出会う差異は大体優劣ではなく「個性」という言葉で覆ってきたんだなあとその時思った。小さな頃とか、もっと露骨に感じる場面もあったはずだし、今でもわたしはとりわけ計算ができないという問題があるので実感しているはずなのだ。でも本当に自分に都合よく忘れていたし置き換えて考えていた。やたらとポジティブに。
一足飛ばしにし過ぎていたのだ。もう少し丁寧にその辺りを考えるべきだった。

アホですか?とかそういう怒りの感情でなく、相手に通じるように言ってあげなさいとよく言われる。その意味が今までピンと来なかった。でも、ちょっとだけこういうことなのかなあと思った。
大学だなんだと言っても逆に運の問題だとするなら、人間であるというスペックだけでいうなら大差のない話である。誰でも何かいいところは絶対にあるものだ。
わたしはその点において人間というものを、その命を絶対的に信じている。

そんないろいろなボーダーレスな価値観やスペック、得意なことや不得意なことを持ち寄ってミックスした状況で話をするなら、どんなアイデアでも出そうな気がする。
均一化されていない個性がいくつもあるところでいろんな意見を聞くのがそもそもわたしは好きなのだ。均一化されているなら集まっても意味がないしつまらない。
そしてそんな誰もが生きているだけで社会に貢献していることを、実感し享受できる社会であるべきではないか。そのためにはやはり、差別ほど邪魔な概念はないのだ。
一人で生きることを選択することが多分生きていく上で最も危険で大きな脅威である。そんな世の中であってはほしくないと毎日実感している。

最後に、侮蔑という言葉にとって、それをもてはやし、嘲笑という「お笑い」を文化的に持ち上げた芸人がここ日本で、今失脚しそうになっている。行き過ぎた侮蔑が足元をすくったとも言えるだろう。侮蔑というのは厄介で、いじめられっ子がいじめっ子に転じてしまうような危険性がある。そしてそれを「お笑い」というところでやってしまうような中毒性と流行性。おっさんというのは本当にもう…。気色悪い話である。

ポリティカルコレクトネス、というけれど、自分が言われたら嫌だなあということは他者に言わない、やられたら嫌だなあということを他者にしない、という程度のところから、他者を尊重していこうとする文化をこれから作っていかなければならない。
純粋にその人そのものと向き合うには、適切に自分とも向き合わなくちゃならない。
そんないちいちから逃げてはいけないのだ。
仲がいいことと何にも言えなくなることは両立してはならない。何も言わないことは、時としてその相手に服従することでもあり、自動的な賛同でもある。そんな惰性で進むような組織に対しての一人一人の意識の改革も、この国ではとても大切な課題だと思った。これは一人一人の自立の問題なのである。













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