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メディア論の現在 メディアとアンチ既存メディア論

わたしは年配のおっさんが器が小さいとか内省が足らんなどと 常々おもってきているのだが、先般からオールドメディアがどうだとかネットがどうだとかいう新たな軸も入ってきていて一体なんのことやと興味を持った。そういうわたしはだいたいいつもYouTubeを見ていることもあり、でも実はあまり実感がなかったのだ。 つまりわたしにはまずその分類がわからなかった。 どうして分けたがるのか、その真意が図りかねたのだ。何が違うのかと。 そもそも分けなくてもいいのにとおもっていて、でもそんなことを割とよく言いがち言われがちな方の話を聞いてみようとおもってこの動画を見てみた。メディアと社会についての若い世代の議論を聞いてみようとおもったからだ。同世代のお二人の会話でもあるので、非常にノリノリであるなというのが第一印象だった。 そしてなるほどと確信するに至った。最初のわたしの疑問は、ただのジェネレーションギャップにすぎないのだった。オールドメディアとかニューメディアという言葉を自らいうオールドな人はいないということと同じである。メディアという名前を借りた代理論戦みたいなところがある。結局のところわたしはそう思うに至った。今、国民民主党がなぜか少し人気だけど、その党のいちいちの主張もこういう問題に似たところがある。 若い人たちの発言の場があることによって、「老害」も含むことで発言力の弱くなりがちな「オールドメディア」に対して、これは非常に残念なのだけど「排除的」な思考で対抗する、そう言ったアティチュードに裏付けされた分断・批判なのだ。 なぜ残念だと言ったのかというと、そうすることはいちいちの文化に対しての敬意を感じないからである。つまりそれは変革的であることよりもむしろ排除的である思考を指していっているのだけど、その不戦勝じゃなくて不戦敗をしながら捨て台詞を言うような姿勢がとても残念なのだ。「覚えてろよ」的な話である。そう、昔からある視点である。だから反抗期みたいなもんだと思っているのだ。 問題のある対象にビビって近づけない怖がりが、遠く離れて言ってる「おぼえてろよ」はちょっとカッコ悪い。 きっとそれは自分自身の歴史が浅いことだけでなく、きっと教育システムの中で人類の歴史がいかに今に繋がるのか、そこに向き合うのに必要な一個人としての姿勢を根付かせていないからではないか。倫理的な思考がきちんと学問...

「ETV特集 市民と核兵器~ウクライナ 危機の中の対話~」 私たちは誰かを守るために何ができるのか、支援の可能性を戦争から考える

ETV特集 市民と核兵器~ウクライナ 危機の中の対話~ このところ、悪といえばプーチンという形容詞のようになっている、対ロシア問題である。 たくさんのドキュメンタリーが作られてきており、プーチンの何がいけないのか、ウクライナはどう戦うべきか、諸外国はそこにどう関わり、解決に貢献できるかなどを語られてきている中で、やっぱり根本的にプーチンという人の言うことに対して理解不能で思考停止している状態が続いてしまっているのだなあとも思っている。 わたしの考察というのは一貫していて、彼の思考回路は、家族的な価値観で言えばただのDVなおっさんだということではないかということである。 圧倒的なコミュニケーション能力の欠如があるのだが、それを暴力で全てリカバリーしてきた経験が、たまたまロシアでは成功した人。 だから本当は国際社会ではなかなか本人が望むような評価を得られないできたことへの鬱憤もこの逆ギレ戦争には込められているのだと思う。 今まで彼の暴力的な傾向にいち早く気づき、先手先手をうちながら「私たちうまくやってるでしょ?仲良くやってますよね??」と寄り添いながらうまく協調できてきたのは、ドイツのメルケルのみだった。 悪いけど、ああいったやり方をできる男性はまずいないのではないか。G7から外すのではなく、その輪に歓迎することで暴走できないようにする。プーチンだけではなく、世界のための協議なのだからという民主主義の根本が彼女にはわかっていたのだと思う。 プーチンの持つ、過剰な支配欲にメルケルが気づいていたかどうかなんて愚問である。プーチンが元々そうなのかというより、国家元首という莫大な権力を持ち続ければが男性というのは支配欲に拍車がかかるものだからだ。そして彼のストッパーとなってきた側近はこれ見よがしに殺されてきたではないか。もうそのあたりで十分彼は病んでいた。 さて、話は戻るがとにかくいちいち鬱陶しくも優しかった母親役のメルケルもいなくなったことだし、プーチンは暴れ出した。久々に暴れているのだが、もう止まらなくなってしまったのだ。 ウクライナはえらく怒ってやり返すし、正直メルケルがいたら・・・と今彼が一番思っているのかもしれない。アホみたいな話だけれどオッサンというのは案外そのようなものである。インタビューで調子に乗って脅すようなことを言いすぎても、あんなん大丈夫ですよ、わたしがち...

『モーリタニアン 黒塗りの記録』 恐怖をも赦せたならヒトは進化するのかもしれない

毎日毎日、時間さえあれば映画や海外ドラマなどを見ているわたしであるが、見ていて辛くて泣けてくる映画というのはそうそうない。 主人公の境遇がいかに悲惨かをどんなに丁寧に描かれても、人間ってどうしてこんなに愚かなのかと深いため息をつきながら泣けてくる映画は一年にどのくらいあるのかと思い出すのも難しいほどになかなかないのだ。 しかしこの映画は辛かった。実話だからもちろんだけれど、単に被害者に同情するのみでなく、ヒトという生き物の限界を見せられているようにも思えた。えげつない描写が続くのだけれど、そのリアリティにこの映画の説得力があるので、わたしもヒトの端くれである以上どうしても苦しみながら見るべきなのだろうなと思いながら見ていた。 ほんの少し前、世界は収容所の悲劇を見て学んだはずなのだ。 「正義」というもののちっぽけさと、人の命の尊さについて、もっと真摯であるべきだったと学んだはずなのだ。 ドイツという国が第二次対戦後「贖罪」を国家として行うことを決めてきたのだけれど、それはいつ終わることではなく今後ずっとドイツ国民が背負うべきものとしてきたことにわたしは意義があると思ってきた。 過去の精算はドイツの今後ずっと担い続けることという考え方にいたく感銘を受けたのだ。 でも、敗戦国だからこそできることなのかもしれないと思えば、その戦勝国は同じ過ちを繰り返しかねないとも言える。 そもそも世界規模で、もちろん日本もであるが真っ当な戦後処理に取り組むことなどできようもなかった。それが現時点での事実なのかもしれない。 「わたしにはわたしにできることしかできないので」という奇妙な言い訳が最近巷に溢れているが、あなたが思うほどあなたのできることは小さくも少なくもない。 結局自信がないくせに大きなものには飲まれる。その大きなものをより大きくすることに自ら加担しながら、知らなかったことにする。それよりできることを少しでもしていればあなた自身を救うことになったかもしれないのにと思う場面もある。もちろんわたし自身についてもそうだけれど。 そんな場面は今の社会に山ほどある。 わたしはそれが失敗だった時に、ほんの少しでも加担したことに辛く思いたいとは思わないから、自分の考えを持とうと努力することにしている。 それがわたしのわたしに対する、社会に対する責任の捉え方なのだ。そうやって努力するのがわたしがヒ...

「クラウド アトラス」 永遠の命と人間の業は進化を拒みながら転がり続ける

主人公は、6つの時代と場所で、6つの人生を生きる男。その人生は悪人で始まるが、様々な数奇な経験を経て、ついには世界を救うまでに魂が成長していく男の物語だ。2度のアカデミー賞に輝く名優トム・ハンクスが、これまでのキャリアのすべてを注ぎ、次第に変化していくキャラクターを演じ切った。 舞台は、19世紀から24世紀。過去・現在・未来にまたがる500年の間の6つのエピソードが、一見アトランダムな流れに見えて、実はシーンからシーンへのつなぎの一つ一つが完璧に計算された、圧倒的な映像で描かれていく。(公式HPより引用)   同じ俳優があちこちに出てくるから、輪廻についても言いたいのだろうなと思ったが、わたしは個人的には真の赤の他人にこそ同じことが言える気がしている。 この映画においての舞台は6ヶ所の物語として、そこの時代や暮らしぶり全てが違っても、同じことを同じように考えることは、同じ人間でなくても共有できるのではないかと言うこと。 命と社会という人の営みにおいて、それは役割を超えたものであり、普遍的かつ連続的な命題のようなことなのだろう。 それは確信を伴った真実ではないだろうか。 真実は人の数だけある、とかいうのも表裏一体な思考ではないかということである。 とにかくとても面白かった。 命が次へ次へと連なることは明白であるが、そこに継承される真実はいつの時代にも存在するトラブルにおいても同様だし… つまり、命は、輪廻という個人に限定したものではないのかもしれない、そう思った。 そしておっさんはいつの時代にも必ずいるようにも思えた。 やはり本気のさよならおっさんは、ファンタジックな幻想に過ぎなかったと嘆くことになるのだろうか。 そして同じようにそこには、 わたしみたいにさよならおっさん、嫌だなおっさん、という人も存在する。 なんてこったい。 わたし自身、視野をとにかく広げないと!と思いながら生きてきたが、世界ならまだしも過去と未来にもその幅が広がるとは。 そしてそのどこにも共有しうるものになるとは。 希望のかたまりである。 わたしの言動がどうであれ、どこかでおなじように不満があふれたりもするし、それで殺されたりもする。 でも、そんなわたしみたいな人はわたしが死んでも現れる。 おかしいことはおかしいという人。それは身体が死んでも心は滅びない、ということ。 それはとてつもない希...

「マルモイ ことばあつめ」 わたしの細胞は何でできているのだろうか

言葉というもののありがたみは、じわじわと気づいていくものだ。その的確さ、私たちの場合で言うところの日本語というものの素晴らしさ、そこから起こる日本人である自分へのアイデンティティー、それもこれも言葉から起こっている気がする。 そしてその言葉自体の意味は、使う人の価値観によってどのようにも変わる。 そんな曖昧なものを曖昧にすることなく解説した文章の集合体を辞典というのだと思う。 そして、忘れてはならないのはこの映画で、韓国の言葉を守る人たちと奪う人たちがいて、その後者が日本人だということである。 今の日本の政治がいわば腐りきってしまったことの大きな要因に、歴史認識の改竄と情けないほど幼稚化した政治の力があると思う。腐った鯛の成れの果て、である。 わたし自身いつも役所の人たちと話して思うのは、そのあまりに幼稚な論理とも言えないほどの屁理屈である。正直言ってこんな理屈でこの地区をなんとかできると思っているのかと嘆かわしく思うくらいしか後には残らない。 生活の中でたくさんの言葉が通り過ぎていくときに、どうしてもうまくやり過ごせない言葉が、心に引っかかる。つまりわたしも傷ついているのだ。一生のうちに癒せる量の傷ならいいんだけど。細胞まで破壊されてきたのかもしれない。 長い間、気にしないふりをしてきたこともあり、うまくやれていると思っていた。でも、気にしないふりをしても傷は治らない。じわじわと悪化することはあるけれど。 わたしは3歳の時から京都市の近郊にあるU市にそれはそれは長い間住んでいた。 そして福祉サービスの利用もそこでスタートした。 そこで、いくつかの関わりのあった団体との会話における言葉を通して、物理的にも金銭的にも精神的にも簡単には癒せるわけのないほどの傷を受けてきた。 わたしの部屋を散らかしたので片付けると言って遺品整理の業者をよこし、その多くを廃棄してしまった通所施設もあった。生活必需品の何もかもが無くなった。布団や衣類、日々の着替え、何もかもである。困って購入し補填に充てた費用も補償しなかった。 そこの団体は地域行政や関係各所に厳重に守られたため、わたしがその被害をそのまま受けることになった。わたし自身では支払いができず結局裁判にまで話が進んだ。裁判所にはヘルパーさんだけが付き添ってくれた。 その後、役所の担当者たちがわたし本人不在で話し合い、ある日役所から電...