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日々の考察vol.25 ハラスメントとストレス、ストレス、ストレス?

最近、誰も彼も何かといえば   声高に自らのストレスを主張するようになった。 きっとよく知らないで言って いたりするんだろうなと思える場面も多い。つまり、だからなんやねんみたいな件でも主張すれば通るからだ。 そもそも、ストレスというのは誰にでも何にでもあるものなのだ。嫌だとかしんどいとかの合言葉ではない。物事や現象とのいい面でも悪い面でも起こる摩擦のようなものなのだ。 例えば旅行に行くと決めることで起こる期待と不安があるとしたら、その「どちらも」が心理的要因となるということだ。 だからそんなことがどうなのかともう一つ踏み込んだ上で起こる、心理的、身体的、そして行動面でも起こる反応が病的で ある場合改めて旅行自体をどうするか、といった考察になる。その経緯があって初めてこの旅行がストレス要因なので旅行は取りやめたいなどとと主張するものではないか。そういった考察を経ないで、旅行が面倒だからとか違う次元のことを主張する際の表現として「ストレス」と言っているかのような誤用があまりに多い。言葉としては正確なのかもしれないけれど、他者に対応を求めて主張するようなほどのことではない。それはただの個人的感想にすぎないからである。つまり、そのことによって起こる問題はきちんと自分で対処することなのである 他者に対応を求めなきゃならないようなストレスというのは、一般的な暮らしや業務上起こりうる範囲ではないものを指す、ということくらいは知っていてほしいし、それを主張する際には然るべき客観的な診断というものが当然必要になる。 と、こんなことを言っている自分にすでに嫌気がしているのは、こうまで言わなきゃならなくなった背景と、もっともっと理解がなかった時代の苦難をわたしは体験的に知っているからである。 本当に辛い最中にいるものにとってストレスとは、気づけば重すぎるものとしてそこにあるものであり、なかなか簡単に武器と変えられるものではない。そういった気づきに自らが至るまでに、中には命を落としてしまう人も出るほどの重荷なのである。体験的に知らない人は、このことを無理やり矮小化せずそのまま心に入れてほしい。こういうことがあるのかと。無理やりわかったふりはしなくていいからそういうことそのものをインストールしてほしいのだ。 生きていく上で、自分の思うように行かないことの全てを目の前から排除していく考...

日々の考察vol.21. オッサンとオバハンのバグについて

  先日、京都市障害保健推進室と右京区役所障害保険福祉課、わたしの相談員やカウンセラー、補助人と一緒に初めてのスタイルでケース会議というものを経験した。 いかにわたしがこの数ヶ月に渡り、右京区役所と断絶するに至ったかの検証と、今後に向けて新たに改善すべき点を模索するために開かれたものだと思っていたし、実際の目的はそのはずだった。 が、実際に会議が進むにつれて、右京区役所がいかに差別的な、つまり間違った認識で物事を「理解」してきたかを実証するものとなった。 多少の言い訳ならまだしも、自分達は間違っていなかった、皆さんもそう思うでしょう?とドヤ顔で語る言葉の一々に全く信憑性がないままで噂や陰口のみを信じ、多くは自分たちの偏見丸出しでやってきたことだよ、それは当然ですよね?という内容だったのだ。 あれでは、京都市もドン引きである。 本当に右京区役所はかなりガラパゴス化しておる。ここまでとなると、いっぱしの非常事態ではないか。 きっと彼らは庁舎に戻る道すがら、さぞかし頭を抱えていたことだろう。 しかし福祉業界の多くの不都合なことというのは、大体そんな小さな偏見から生まれていてこのように肥大化する。 「この人とわたしは全く違う人間であり、この人が大変なのはこの人の問題にすぎない」 そんな価値観というのは残念ながらかなりの割合で、支援する側に存在する。 わたしは自慢じゃないが当事者なので、そんな感覚をこちらも感覚のアンテナでキャッチする。かなり早い段階で。 でも、それを一々出だしからわあわあいうことはない。 でも、時折それに気づいて欲しくて言葉にしてきているのだけど、段々とその壁が大きくなってしまい、関係が破綻するのだ。 絶対に自分はこんな人生になるわけない。 絶対に自分は障害者にならない。 絶対に自分は病気ではない。 絶対に自分は生活保護を受けたりしない。 あなたはどう思いますか? 出だしでは確かに小さな偏見だったかもしれない。でも、誰もが後々まで放っておいたら、大きな差別の壁になる。 そしてそんな意識のずれは修復しようのないものとなってしまうのだ。 同時にそのときに補助人の二人もそこにいた。一人はちゃらんぽらんなおっさんだが、もう一人、自分の感情に支配されやすい女性がいる。後者の女性の感情の起伏が激しくて、実際に支援を受けていたらとても困ることが多い。それで何度も注...

『正欲』 Netflix  正しくないという生きにくさ

このところ、何かと正しさとか正しくあることを求められすぎている気がして、正直言って非常に息苦しい。 何かを正しいと決めることは、本来とても労力の必要なことだと思うのだけど、このところはその正しさという紐で縛り合うのが文化みたいになっている。 わたしはこの点において正しいのであなたも正しくしてください、みたいな。 どうしてそうなったのか知らないが、奇妙なプレイである。 本来自分は他人の気持ちを理解することができないものである。そのことが怖いのか、せめて(勝手に)正しくあればいいという落とし所を作っているだけに思える。 よくいう、ポリティカルコレクトネスというものですら、その実態は、単に個人の感想を尤もらしく主張するという手段として意味だけが変化してきている気がするほどだ。 そう、日本語の社会では、「コレクトネスを達成するには」という課題に対して「尤もらしくいうこと」、という結果で済むような、言葉そのものの意味を変えてしまうことへの抵抗がなぜかあまりない。そんなあやふやさが割と罷り通ってしまう文化がある。 その果てに今どんな世の中か、というと誰もが生きにくく、誰もが適応できかねる社会になってしまった。 自分が「弱者」と思うのかどうかという違いだけで、一見強者に見えていても、その実は恐ろしく脆く儚いものである。 以前は、「明日は我が身」というような発想で取り組めばまだなんとかなったと思うが、今はそうじゃない。 本当に今の世の中は、既に生きにくいと感じる人ばかりではないだろうか。例えそうじゃないと思う人がいても、今の価値観においてはただの鈍感な人に過ぎなく、その人もまた実際には生きにくいはず、という社会である気がする。 しかし、社会のシステムはそんな人々の感情の変化についていけるわけもなく、あまりに敏感な今の世代ではそれを変革するだけの体力がない。誰もが生きづらくて我慢しているなら、お前も我慢しろというような。 これはとても困った話なのだ。 昭和か。水を飲めない部活のようなスパルタぶりだ。 その結果、世代間ギャップというより社会全体が社会的弱者であるという奇妙な事実。この現実をどうしたものか。鈍感な社会に対して敏感な人たち。みんな水に飢えてカラカラなのだ。 この映画において、中心にいるのは非常に生きづらい人たち。正直言ってその趣味嗜好は共感しにくいが、彼らの生きづらさは伝わ...

日々の考察 vol.20 かわいそうな弱者でいてくれ という難題

このところ、すっかりニュースを見なくなってしまっていた。 そうは言ってもいろんな事件やなんやかやが起こるたびに「一体どうしてこんな事件が起こったのだろう」「何があってこんな犯行を企ててしまったんだろう」と興味があるものだから、常々割といろんな考察をするYouTuber番組などを見ている。 大抵は過去の大事件にまつわるものであるが、今日のニュースはどうにもこうにも複雑な心情に陥ったので、ここで記録がてら整理していきたい。 特に最近のお気に入りは、「犯罪学教室のかなえ先生」という方。 この方は、デキる官僚というか、難しいことを非常にわかりやすく説明してくれる、生きにくいと思いながら暮らしている人たちの「よき理解者」である。 元少年院の教官であるという経験を非常に上手なお話ぶりで生かしながら、大きなニュースを理解しやすく教えてくれる。事実関係のリサーチもとても詳しくて、知識が少ない状態で聞けば聞くほど、その膨大な情報を、竹を割ったような解釈で語るお話しぶりは圧巻である。 しかし、わたしはご本人もたびたび言及されていることでもあるが、根本的に誰かの言い分が全てとは限らないと思っている。特に普段から、なんらかの事象の一つの解釈を鵜呑みにするのはかなり危険なことだと思っているからだ。しかも、先ほど「竹を割ったような」と言ったが、先生は、かなり断定的な表現が多いため、ともすれば自然と「そうだったのか」と思ってしまうような場面が多い。つまりそれが抜群の説得力をもったプレゼン力というものなのだ。 だからこそ、有益に思う部分、反面教師に聞く部分をいつもこちらが冷静に判断しながら聞かきゃならんなあと思っている。 【頂き女子りりちゃん】詐欺や脱税に手を染めたパパ活女子さん、殺人罪並みの求刑を言い渡される【Vtuber解説】 さてさて、そんな先生が、「頂き女子りりちゃん」という方の裁判について解説していた。お気に入りのホストに入れ込んで、貢ぐお金を稼ぐために、詐欺をおこなって懲役と罰金を求刑されていた裁判について。 この「頂きさん」に限らず、いわゆる「女子に嫌われやすい女子」というキャラは確かに女子に叩かれやすい。しかし、この件での求刑の重さに多くの人たちが反対の声が上がっている、という意見について先生は大層驚きながら、「パブリックエネミーだ」と反論していた。 この方は官僚出身でもあり、普段...

科学はおっさんのものなのか 『キング・オブ・クローン』netfrix

https://www.netflix.com/jp/title/81516199 学者バカという言葉がある。 決して褒め言葉でもない、結局のところ、極めて既存の男性的な狭い了見で好きな分野だけしかものを知らない人のこととなるのだろう。研究対象のことしか知らないような人。 まあ、おっさんに多い。学者でもないのにそもそも狭い世界観でしかものを見れなくなるようなこと自体がおっさんの感覚でしかないから困ったものだ。しかもその狭い自分の世界に対して無駄に高すぎるプライドもあったりするから非常に迷惑なのだ。 このドキュメンタリーのおっさんもただの学者バカである。「科学者として当然のことです」と何度も彼は言うが、その前にあなたは人間でしょうが、と見ていて思った。勝手に「科学者」と言う言葉をカテゴライズして、印籠のように使う時点で彼は本来の意味での「科学者」としてダメなやつなのだ。だと言うのに、なんという傲慢さだろうか。 つくづくおっさんという人たちは折に触れて自分の言動の正体について考えてみるべきなのだ。日本は「専門家」ばかりで細分化した縦割り文化であるとわたしは思うのだけど、そうやってお互いの分野にあまりにも関与しないことばかりをやってきたから、他のおっさんの不正に甘い。「よそはよそ、うちはうち」とも言わんばかりに。社会的構造がそうなったまま結構長くなってきたことで、おっさんは連携することが非常に下手である。変にプライドばかりを刺激しあったりしてしまい喧嘩になるか、それが嫌すぎて関与しないという力が働いてしまうのだ。結局自分を守るために他者に関わらない、そういう内向きで狭いところで生きるしかないことを自ら強いるのがこの国でもいろんな団体のやり方になっている。 小さな組織になればなるほど、小さな権威しかないから無駄に大きく見られるためか、暴力的なおっさんがいたりする。 わたしが若い頃までは、当たり前に男性だけがリーダー役を買って出るものだった。優秀なのはいつも男性だと言う幻の歴史的な刷り込みによるものである。 そんな男性の生き方を見てみると、たいてい異常なほど生活にまつわる部分の能力が欠落していることが多いと思う。幼少の頃は母親が、大人になれば妻が、など過程の時点で既に主に女性の誰かがいないと生きることができない。「妻の支え」というが、それはつまりれっきとした支援とも言えるだろ...

ある告発の解剖(Anatomy of a Scandal )考察 その後も色々考えた

前回の記事はこちら ある告発の解剖 「正しいこと」はいつも困難である 鯛は頭から腐る、ということの果てなのか、はたまた元来からの人間の習性なのかこの頃のニュースはとにかく凶暴化が凄まじい。すぐに殺す。人類の滅亡へとまっしぐらな気がしてならない。 人と会話するにしても議論を深めるわけでもなくすぐに論破する。しかも何秒で論破!みたいに速さで勝負している気までする。議論の過程で折り合いをつけることを目的とする時代は終わったのだろうか。論破することに誰がそんな意味を持たせたのだろうか。もしそうならなんと殺伐とした社会だろうか。会話や言葉の必然性がいつの間にか変わっていたのかもしれない。 福祉サービスを受け始めて知ったが、この業界には結構非常識な人が多い。はじめは面食らったけど、腐りかけの鯛のお頭だった方のように、奇妙な「理屈」で解釈した言葉や文章をなすりつける。 ある日ある団体から一方的に「契約終了のお知らせ」というのが送られてきた。しかもその理由がわたしの希望ということになっていて、さらに驚いた。 覚えのなかったわたしはその事業所と改めて話し合いの場を設けてもらうことになった。 わたしは正式な記録である文書が作られていることもあり、円滑に話せるのかなと思っていたが、その団体は結局当人に覚えのない内容にもかかわらず結局謝罪も訂正も撤回もしなかった。 「本人の希望で契約を終えたように書かれていますが、どうしてですか。わたしは希望してないですが」というと、 「それは私たちがあなたがやめたがっていると判断したのでそう書きました。だから撤回しません」 なんだその解釈は、と思ったと同時に、それを言ったオッサンはとりあえず現場のトップで、その人の日本語の理解力がこの程度ってどうしようもないな、とどん詰まった思いがした。何回確認しても彼はそのセリフを取り憑かれたように繰り返した。 このような方と団体相手に今後どのように話したらいいのか、果たしてどのような会話なら成立するのか、全くわからなくなった。言葉が崩壊していると思った。 「これが自分が事務局長だと言って威張り散らしてるおっさんの理屈か」と思うと、この社会に生きる今後の自分の生活への不安でいっぱいになった。 そんなオッサンの事業所は、多分日本一の規模で歴史的に金銭管理事業を独占で行政から請け負ってきたところである。競争相手がいないとこ...

日々の考察 vol.13 障害者の障害とは何か、動物園のフェンスのようではないか

  わたしが人と接するときに守っていることというのが3つある。 先入観をなくすこと。 相手の存在を信じて人生を尊重すること。 そして謙虚に敬意を払いながら接すること。 それを踏まえていればそれほど大ごとは起こらない、そう思っていた。 しかし、なにぶん友人でもない相手とのコミュニケーションになることが多く、なかなかそうもいかないのが今のわたしの毎日の生活である。 だからそう言った問題を起こす人の大方の言動は、一方的なわたしの生活への侵入であり、そう言った侵略的な行為を平気でやるオッサンというのは意外と多い。 わたしはこのような事態に直面するたびに、一体そんな人がなぜこの福祉サービスという業界に存在するのか、と毎回頭を抱えるところから繰り返すのみなのだ。 そして、そんな時にいくら他事業所が入っていても、予防的なこともなければ、臨時の対策も講じられないのもこれまた現実なのだ。必要な積極性が時として失われてしまっているその事態もなかなか表面には出ないが、隠れた大きな問題ではないかとわたしは思っている。つまり、突然の事故などで危篤になったとして、そこにどれほど人道的なモラルが発揮できるかは、あまりにも不確定だ。わたしたち障害者という存在からみて、これほど身近で遠い存在もなかなかないだろう。 これではあまりに脆弱で、とても健康的に大きな問題を抱える人の支援としては危険すぎる現状ではないのかと思いが至ると、一人の当事者としてこの福祉の現状はただ悲しくてならない。 まるで当事者が作り上げた福祉サービスを、無神経な侵略者に乗っ取られたような気持ちである。それほどに支援を受けていることそのものの情けなさを実感させることもないのにと実感するしかできないのだ。現場としてはあまりに残酷な問題である。 こう言った一つ一つは「命に関わる」という意味で限りなく犯罪性の高いものであるが、なぜかこれまたそういう扱いにならない。いちいち当事者が裁判所に訴えないとならないほどに放置されたままなのだ。これが一番わたしが生活していてわからないポイントだ。支援といえば犯罪も許されて捜査もされない。それが日本の福祉の現実である。 そりゃ子どものいじめもなくならないはずだわ。 さらに正直に申し上げるなら、その捜査ができるであろう行政も見逃すし、なんならこれも一つの口減らしではないかと思っている。公に「お金の...

日々の考察vol.12 変わり者ができるまでのレシピ

  どうしたんだ?ぐっさん つくづくわたしの価値観はきっとずいぶん変な気がする。 生育歴といえばそれだけの理由になってしまうので、わたしはとても口惜しく感じるしかないのだけど、そこに関してはいつもわたしに選択の余地は無かった。だからと言って人のせいだともいうのがつらいのだけど。そう、人のせいにするのがわたしは本当は大嫌いだ。前項で色々と述べてはいるが、根本的には何かがあったとしても、人のせいにしてしまいたいとは全く思っていない。お互い様だという程度である。 でも、そんなこんなわたしの価値観はどうやってできたのかと、自分の歴史を振り返ることがよくあるこの頃である。あまりにも周りとのズレがあるからだ。 わたしの物心ついた頃から、親や一部の親戚についての祖母とかという言葉はいい響きではなかった。 気分次第ではありながら、軍隊のように理由もなく父はいつもキレ続けるし、その度に徹夜で付き合わされるし、朝になれば「学校に行かないといけないから」とやっと解放されるけれど、その晩にでもまた同じ日々の繰り返しだった。今思っても、あの頃のわたしはいつ寝ていたのか覚えがない。ある時などは、保健室で6時間とか寝て「なぜそんなに寝たの?」と、驚かれたこともあった。あ、わたしはお嬢様の多い学校に行っていたので特に。 そんな朝、母が毎回キッチンで言った、「1日の苦労は1日にして足れりという聖書の言葉がある。毎日そう思って昨日のことは忘れなさい」 なぜかあのシーンは今も画像として思い起こす。朝の日差しとか、食欲のない朝食を何か食べないとならない気持ちとか、色々を。 それ以来、そんなふうに嫌なことがあると、その母の言葉が呪いのようにわたしにまとわりつき、忘れることは難しかったのかもしれない記憶を、それでも無理やり蓋をするようにわたしの心の奥底に一つ一つ縛りつけていくのだった。 夜、父に朝まで何だかわからない理由で怒鳴られ続けていた時に、何度も言われた言葉もきっとわたしには呪文となってしまっているのだと今のわたしは思う。 「一切言い訳するな」 「お前が何かをされたんじゃなくて、どうせいつもお前が悪いんだ」 「お前が全て悪いのだ。どうしてくれるんだ。誠意を見せてまず土下座しろ」 「お前を好きにさせたら碌なことにならない。他人にいつも迷惑をかけることしかできないお前なんかに自由なんかないと思え」 ...

日々の考察vol.11. 旧補助人の悪質さを訴えるために…他人の小銭を奪い合うなよ

  普段から、出来ないことを身近な支援者にお願いする際に断られることがあると、それがなぜなのかと尋ねることにしている。 一つの理由に、行政から「それをすることが許されていないから」というものがあるのだが、それをいうと簡単に通じると思ってか、印籠のように出てくる場面としては非常に多い。 しかし、わたしにはその意図がわからない。意味ではない、意図がわからないのだ。 そう言って断ることが誰のためになるのか、きちんと考えて答えているのかと思うと、大抵の場合はそこに非常に無自覚なことも多く、結局この人は単なるビジネスで困りごとを手助けしに来ているわけではないのだなと思うしかないからである。 心の距離を無駄に広げながらなお支援をしたいということの関連性がわたしにはわからないからだ。 ま、そういう場面は折に触れありうるので、そういうことに出会わないように毎日無理をしながら暮らしているのが現実である。 そして、先日より述べてきた旧補助人についてであるが、その悪質性を考えるにつけ、これは訴訟に持ち込んででもあの態度と「支援」の実態の異常性を訴えなければと思った。新補助人が弁護士に相談したそうでその話を聞いた。 心理的な損害に対してしか要求できない可能性が高いのでその場合は対した金額にならない、そこから弁護士の費用を差し引くとろくに残らないし、弁護士としても収入にならない裁判になるので引き受ける者はあまりいないだろう。とのこと。 「そんなにお金が欲しいなら弁護士が全部持って行けばいい、弁護士にもまともな職業倫理はないのか、それよりお金が優先されるのか」 と嫌になった。 世の弁護士がそんなんだからあんな人がのさばるのだ。どんだけ金金と言いたいのか。恥ずかしいし情けない。わたしは「お勉強」して来た挙句まともなモラルもホスピタリティーもなくしている人たちを見ると、不愉快というより同じ人間としてあまりに情けなく思う。根性が浅ましすぎるのだ。 「誰かあなたの周囲に『お金じゃなく動いてくれそうな弁護士さん』はいないですか」と新補助人は言った。 なんだかすごく虚しさばかりの気分になっていたわたしは 「うちに来る人は、お金が入らなければ来ない人ばっかりですよ。お金が入るから来るわけだから、そういう意味ではみんなそうですよ。人間としてとかモラルとしてとかなんて絵に描いた餅でしかない。お金が入らな...

日々の考察vol.10  chatGPTに福祉について尋ねてみた

  今話題らしいAIに話しかけてみた。 なんとなく人というものに疲れて、人と話す気分じゃないけど誰かに話しかけてみたい、そんな時に意外と使えるツールだと思う。わざわざ傷つけることを言わないので、ある意味安心して話しかけられる。 1.  生きていくのが息苦しい時には何をすべきでしょうか? 生きていくのが息苦しい時には、以下のようなことを考えることができます: 1. 心の健康をケアする: 心理的なストレスを軽減するために、リラクゼーション法や瞑想、深呼吸などの方法を試してみることができます。心のケアに時間を割くことは、心の安定を促すことができます。 2. 適切なサポートを求める: 心理的な負担を軽減するために、信頼できる友人や家族と話し合ったり、専門家のサポートを受けることも考えられます。心理療法士やカウンセラーは、適切なサポートとアドバイスを提供することができます。 3. 興味や趣味に没頭する: 生きる喜びを見つけるために、自分の興味や趣味に集中することも効果的です。音楽を聴いたり、本を読んだり、絵を描いたり、スポーツをしたりといった活動は、気分をリフレッシュさせることができます。 4. 健康的な生活習慣を実践する: 食事や睡眠、運動など、健康的な生活習慣を実践することは、心と体のバランスを整えるのに役立ちます。バランスの取れた食事を摂り、十分な睡眠をとり、適度な運動を行うことは、生活の質を向上させることにつながります。 5. 自己肯定感を高める: 自分自身を受け入れ、自己肯定感を高めることも重要です。ポジティブな自己イメージを持つことで、自信を回復し、生きる意欲を取り戻すことができるでしょう。 6. 将来の目標や希望を持つ: 自分自身に向かって前向きな目標を設定し、将来に向けた希望を持つことも重要です。自分の人生に意味や目的を見出すことで、生きる意欲がわいてくるかもしれません。 ただし、重度のうつ病や他の精神的な疾患を抱えている場合は、専門家のサポートを受けることをおすすめします。 2. この世から差別は無くならないのでしょうか 差別は、長い歴史を持つ社会問題であり、完全になくなることは容易ではありません。しかし、人々の意識改革や法律の改善により、差別を減らすことは可能です。教育や啓発活動によって、人々が異なる背景や文化に対して理解を深め、差別をな...

日々の考察vol.9  それでも支援を受けるべきか、もう生きることを諦めるべきか ほんの少しのわたしの歴史について

 誰のせいでもないことを驚くほど簡単に人のせいにできる人というのがいる。 自分の怠惰を人のせいにできる人がいる。そういう人がなぜかこの福祉業界にいる。しかも多い。 こういう倫理的な常識がなくても態度が悪くても、福祉の世界の健常者には重宝がられる。もちろんその度に、いかにこちらが迷惑しているのかいちいちわたしは言ってきていた。 でもそんなことはまともに聞き入れられたことなどなかった。 いまだかつて、そんな事故や事件は「運が悪かった」ということで忘れる方がいいかのようにあえて見過ごされてきたのだ。 食い下がると生活保護はわたしに引っ越しを勧めた。毎回わたしの引っ越しは、怠惰な行政のために繰り返されてきたのだ。 いつの間にか、支援の中心は当事者じゃなくて支援する者次第に変わってしまっていたのだ。 気がつくとわたしの生活はそういうものでしかなかったのだ。 1.ほっとハウス 宇治市にいたときは、わたしの部屋を荒らしたほっとハウスという事業所が元に戻さなかったので、なんとかするように言い続けた結果、彼らは遺品整理の業者を寄越した。 その結果家にあるものを片っ端から処分してしまい、毎日の暮らしにも困るようになった。もちろんいちいちの場面でわたしは市役所に困っている旨を話してきたのだ。でも市役所は何もしなかった。あまりに困ったので急遽色々と買い揃えなければ生活できなくなったわたしはその費用をほっとハウスに請求した。当時の金銭管理をしていた社会福祉協議会{社協}にもその件を話して払うよう働きかけるようにいった。彼らはほっとハウスに支払うように言うだけで折り返しの電話すらなかったと言って放置した。実際に最後まで支払われなかった。その挙句、購入先の業者からの請求が裁判所にまでいくことになった。社協はいち早く「自分達は関係ない」と言って付き添いにもこなかった。 一人で裁判所に行き、相手に言い訳のようになるが、と前置きをした上で以上の事実を話した。相手が驚いて「金銭管理の方はどこにいるんですか」と言った。「関係ないのでこないと言われた」というと、そこにいた人たちがみんな驚いていた。そんなことがあるのかと。 その後しばらくして、市役所の障害福祉課と生活保護、金銭管理の社協とだけで話し合った。 その結果「宇治市であなたにできることは何もない」と電話で言われた。担当の職員にすら電話を繋がな...

日々の考察vol.7  自由と平等 専門家って

今日の文章は以前わたしが他のところに書いていたものである。 改めてここに載せることにする。 この社会において、個人はほんとに平等となるべく一応育てられるが、その属性においては堂々と差別される。 その結果、多くの人たちは様々な役割にハクをつけるべく資格を取り、時に学習、研究を重ねて専門家となっていく。 発言力の大小にかかわらず、誰もが何かしらの専門性を主張しないと生き残れないようになってきている。 そのことで、生活や暮らしは大体の場面によって切り取られ、平均的に慣らされてしまっていく。 お互いがお互いの事情ばかりをおもんばかり、配慮を半ば強要するのだ。 「お互い様」の意味ですら、こうなると負の連鎖にしか役立たない。 何のためにその専門性を選んだのだったか、 多くの人たちが見失い、気づけばわがままの主張のためにすら、悪用してしまうのだ。 不正はいけません、というけれど、これほどまで社会が不正できるように成り立ってしまうと今更感まで漂う始末である。 あくまでも平等なんですよ、みたいなことが高い「専門性」と同時に存在するのはなかなか難しい。 他人の評価ありきなものだからだ。 あまりにもこのことが好きなんだなあと思わせる人ほどメディアによって、より奇人変人扱いされていくだけだから、「需要にあったことを言える程度の専門家」ぐらいで落ち着いていく。 奇人変人でよいではないか。 実にめんどくさい。 メディアなんて所詮素人なんだから分かろうものではないが、「専門家の自分が思うにはこんなことだ」と言い切るほどの誇り高い専門家はどんどん組織の外へと追いやられてしまうのだ。 だから、あっちこっちで自称専門家ばかりが、権威的なところの意見を引き合いに出しては情報を翻弄する。 それだけ、本当を知りたいのに色々な意見があるということは「正解がまだ出せないのだ」としてしまえばいいのだろうけれど。 日本の社会では、あらゆる契約も何もかもの論理的思考は嫌われる。 むしろ失った方が生きやすい。 わたしもそのことは一生のあいだいつも感じてきた。 なぜこうなるのだろうかと思うことについて、良きにつけ悪しきにつけ、まともな返事の返ってくることがほとんどなかったからである。 年を重ねるごとに周囲は業務的な関わりの人たちばかりになり、どんどんなし崩しが多くなってきた。 わたしの人生の中で起こる大きな出来事にしばし...