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ヴィーガンに貧乏人はいない

  環境問題について、昔からずっと思っていることがある。 その理論の基本はわたしたちが住む地球のすぐ先のこれからについてのものであるから、あくまでも全人類が自覚的にしかも早急に取り組むべきなのだという、重大な問題であるという。 しかし、ここ日本だけでなく、どんなに自然災害を体験しても、目撃してもそれが普遍化することがなかなか起こらない。懲りたと言う人たちでこの世の中は溢れていくのに、なぜそういった感覚にならないのか。そういった運動につながらないのか。 特に日本において、自分の身に起こる不幸は、自分や身の回りの誰かのせい、と言う程度の認識に収める人がほとんどである。そのうちの特に多数の人たちは、たとえ自然災害ですら自分のせいのように考えてしまう。被害の跡をなんとかできない自分たちの資本力のなさのせいだと考えたり、時には先祖への弔いをきちんとももっとすべきだったなどと考える。場合によっては、自らがいかに悲惨な状況下にあっても、遠方の家族に世話になることを申し訳なく思って拒否する例もあるだろう。 そういった社会において、環境問題を普遍化することは、非常に困難である。 一つは今述べたような、さまざまな問題に出会った時に、それが環境に起因する問題であるという認識を一人ひとりが持つように社会的にできていない。これは構造的な問題だけでなく、文化的な背景も大きいとわたしは考えている。 ことに日本において、環境問題の被害者になることは、ただの運に過ぎないことの方が多い。 そしてその被害者は悉く社会的に貧困層として存在する。 たとえばドイツの財政難は、環境保護対策に様々な形で影響を与えている。 以下、簡単にその考察を述べる。  ドイツの財政難は、環境保護対策に深刻な影響を与えつつある。  再生可能エネルギーへの投資減少、原子力発電再稼働議論、環境規制緩和圧力など、様々な課題が浮き彫りになっている。  これらの課題に対処するためには、持続可能な経済モデルへの転換、国民への丁寧な説明と合意形成、国際協調の強化などが不可欠です。  短期的な経済的利益と長期的な環境保全のバランスをどのように取るかが、今後のドイツの環境政策の成否を左右する重要なポイントとなる。 もうこのように、環境問題というのは厳しすぎる現実にぶち当たっている。 現実といえば、貧困層の人は...

日々の考察vol.11. 旧補助人の悪質さを訴えるために…他人の小銭を奪い合うなよ

  普段から、出来ないことを身近な支援者にお願いする際に断られることがあると、それがなぜなのかと尋ねることにしている。 一つの理由に、行政から「それをすることが許されていないから」というものがあるのだが、それをいうと簡単に通じると思ってか、印籠のように出てくる場面としては非常に多い。 しかし、わたしにはその意図がわからない。意味ではない、意図がわからないのだ。 そう言って断ることが誰のためになるのか、きちんと考えて答えているのかと思うと、大抵の場合はそこに非常に無自覚なことも多く、結局この人は単なるビジネスで困りごとを手助けしに来ているわけではないのだなと思うしかないからである。 心の距離を無駄に広げながらなお支援をしたいということの関連性がわたしにはわからないからだ。 ま、そういう場面は折に触れありうるので、そういうことに出会わないように毎日無理をしながら暮らしているのが現実である。 そして、先日より述べてきた旧補助人についてであるが、その悪質性を考えるにつけ、これは訴訟に持ち込んででもあの態度と「支援」の実態の異常性を訴えなければと思った。新補助人が弁護士に相談したそうでその話を聞いた。 心理的な損害に対してしか要求できない可能性が高いのでその場合は対した金額にならない、そこから弁護士の費用を差し引くとろくに残らないし、弁護士としても収入にならない裁判になるので引き受ける者はあまりいないだろう。とのこと。 「そんなにお金が欲しいなら弁護士が全部持って行けばいい、弁護士にもまともな職業倫理はないのか、それよりお金が優先されるのか」 と嫌になった。 世の弁護士がそんなんだからあんな人がのさばるのだ。どんだけ金金と言いたいのか。恥ずかしいし情けない。わたしは「お勉強」して来た挙句まともなモラルもホスピタリティーもなくしている人たちを見ると、不愉快というより同じ人間としてあまりに情けなく思う。根性が浅ましすぎるのだ。 「誰かあなたの周囲に『お金じゃなく動いてくれそうな弁護士さん』はいないですか」と新補助人は言った。 なんだかすごく虚しさばかりの気分になっていたわたしは 「うちに来る人は、お金が入らなければ来ない人ばっかりですよ。お金が入るから来るわけだから、そういう意味ではみんなそうですよ。人間としてとかモラルとしてとかなんて絵に描いた餅でしかない。お金が入らな...

日々の考察vol.9  それでも支援を受けるべきか、もう生きることを諦めるべきか ほんの少しのわたしの歴史について

 誰のせいでもないことを驚くほど簡単に人のせいにできる人というのがいる。 自分の怠惰を人のせいにできる人がいる。そういう人がなぜかこの福祉業界にいる。しかも多い。 こういう倫理的な常識がなくても態度が悪くても、福祉の世界の健常者には重宝がられる。もちろんその度に、いかにこちらが迷惑しているのかいちいちわたしは言ってきていた。 でもそんなことはまともに聞き入れられたことなどなかった。 いまだかつて、そんな事故や事件は「運が悪かった」ということで忘れる方がいいかのようにあえて見過ごされてきたのだ。 食い下がると生活保護はわたしに引っ越しを勧めた。毎回わたしの引っ越しは、怠惰な行政のために繰り返されてきたのだ。 いつの間にか、支援の中心は当事者じゃなくて支援する者次第に変わってしまっていたのだ。 気がつくとわたしの生活はそういうものでしかなかったのだ。 1.ほっとハウス 宇治市にいたときは、わたしの部屋を荒らしたほっとハウスという事業所が元に戻さなかったので、なんとかするように言い続けた結果、彼らは遺品整理の業者を寄越した。 その結果家にあるものを片っ端から処分してしまい、毎日の暮らしにも困るようになった。もちろんいちいちの場面でわたしは市役所に困っている旨を話してきたのだ。でも市役所は何もしなかった。あまりに困ったので急遽色々と買い揃えなければ生活できなくなったわたしはその費用をほっとハウスに請求した。当時の金銭管理をしていた社会福祉協議会{社協}にもその件を話して払うよう働きかけるようにいった。彼らはほっとハウスに支払うように言うだけで折り返しの電話すらなかったと言って放置した。実際に最後まで支払われなかった。その挙句、購入先の業者からの請求が裁判所にまでいくことになった。社協はいち早く「自分達は関係ない」と言って付き添いにもこなかった。 一人で裁判所に行き、相手に言い訳のようになるが、と前置きをした上で以上の事実を話した。相手が驚いて「金銭管理の方はどこにいるんですか」と言った。「関係ないのでこないと言われた」というと、そこにいた人たちがみんな驚いていた。そんなことがあるのかと。 その後しばらくして、市役所の障害福祉課と生活保護、金銭管理の社協とだけで話し合った。 その結果「宇治市であなたにできることは何もない」と電話で言われた。担当の職員にすら電話を繋がな...

日々の考察vol.7  怠惰と無気力・無関心=区役所の「お仕事」とはなんだ

右京区役所 今わたしは京都市右京区に住んでいる。 一人暮らしで引っ越しを何度かやったので、その間に出会った役所もこれで3つ目である。 右京区は引っ越した日から異常だった。 手続きに役所に行ったらいきなり窓口の男性職員が怒鳴った。 意味がわからないが、そんな人とは話せないので帰った。そんな態度の職員はこちらが相手にするべき人だとは思わなかった。 それ以降も、意欲的だった最初のケースワーカーは心を病んでケースワーカーになりたかった自分ということすらを諦めてしまった。漏れきく「上司」の異様な振る舞いは、こちらまで伝わるほどだったし、当時の係長はそれに準じてか知らないが、かなり高圧的、感情的にちょくちょく電話などに登場した。その異常性を隠すことなくカンファレンスでも披露して、今年度「移動」して行ったそうだ。 発言のいちいちが変な人だった。完璧な「さよならオッサン」案件だった。 で、その後改善されたかというと、そうでもない。障害保険福祉課の方も一貫してるのが、あまりに杜撰であるということに尽きる。極端なずさんをするために仕事をするかのような毎日を繰り返したせいか、責任感もないし、どんどん自己満足という目的のための勝手な理屈は膨張していく。そしてそれをこちらに強要する。その度に、「そもそもそれは法律違反であるから簡単にOKしてはならない」などとこちらから指摘しないと動かない。なぜ行政がこれほどに条例や法律を知らなくて間違うのか。 こんなに伝統的に怠慢とただの自己満足が蔓延している区役所をわたしは他に知らなかった。 これで仕事ができていると思っているのか、と呆れてしまう。 例えばどこかの福祉サービスが区役所に電話して「こんなことをしたくない」と『やってはならないこと』を主張する。 それを役所がテキトーにハイハイということで、後々大きなトラブルになり、役所じたいも仕事が増える。 それをいちいちこちらが伝えきいて、区役所にまた電話して「簡単にOKするな」と叱り、後始末を役所がすることになる。 こういうことをしておいて「私たちは忙しくて」という。 こんな凡庸なプレイに付き合わされる方はたまったものではない。こっちこそ暇ではないのだ。そして京都市の財政が危ないのかそうでないのかすらいまいちわからないのも、こんな仕事ぶりでは当然だし、このままではもれなく破綻するだろうと思う。 こういう「仕...

日々の考察 vol.4 支援を受けることが命取りになる危険性について《貧困ビジネスの点と線》

   古くていいものは限られている    人というのは、自分で思うほど強くない。毎回そう思ってはいるけれど、それでもまた過信してまた倒れる。きっとそこまでがセットで途中で気づくこと自体無理なのかもしれないと最近思えてきた。 先日から後見人制度における補助人という人がやってきている。厳密にはわたしが制度の利用を申請したことにより裁判所から選定されてやってきた人である。 ところが、この人が圧倒的に会計に伴う倫理を知らない、コミュニケーションが取れない、福祉を誤解しているなどなどと問題が多かったので交代してもらうことにした。その際にわたしの主治医より書面が出ていて、それが届いたらすぐに交代の申請にいくという約束であったが、それすら1ヶ月後にこちらが気づくまで奪ったままでいたのだ。こちらから裁判所にいうのでもう構わない、と連絡したら彼は慌ててその日じゅうに提出したのであった。 それで裁判所にわたしは呼ばれていろいろ聞かれたりもしたが、一貫してわたしとわたしの支援者たちは、いかにコミュニケーションの取れない人か、またその人は金銭面でも全く明らかにしないのかできない主義のようで、そのくせ膨大な皺寄せが日常生活に響いて生活がより困難になっているのだと証言した。 交代するまでの今はツナギの時期。そんなうちに彼の「経済的虐待」というのは進み、行政に通報されるまでになった。 そんな中、彼の管轄でもある裁判所の担当調査官にわたしはどうにかしてくれと常々話をするのだが、ふと昨日「あの方は今通報されてますけどご存じでしたか?」と聞いたところ 「え? そんなん誰も教えてくれませんでしたわ、知らんかった!!!どこに通報されてるんですか?こっちから電話して聞きますわ!!」と大騒ぎし始めた。 なんなんだ、この人たちは。 その補助人もそうだが、おっさんというのは自称ベテランと言いながら知らないことを誇るかのような場面が多い。新人でもないのに知らないからと言って許されることはそうそう多くないのだ。 その点この裁判所に至っては、一市民としてなんというだらしなさだと情けなくなった。こんなところだからあんな補助人や去年捕まった後見人などが跋扈するのだと。しっかりしろよ。 そんなに仲は悪くないよ 昨日、どこまで本人にこの事態が理解できているのかが謎ではあるが、その補助人からのメールが来た。 あくまでも自分は正し...

日々の考察 vol.3 わたしの暮らしはどうあるべきなのか

近所の神社前をサクと疾走中 「障害者ならこんな生活をするもの」 であるとか 「生活保護を受給するならこんなふうなヒトであるべき」 そんなこんながあんまりにも多いもので、時々わたしは耐えられなくなってしまう。 わたしの身体は「それなりに」不自由であるが、その失った機能以上の不自由をなぜ理由もなく受け入れなくてはならないのだろうか。 一体わたしは実際にどれほど不自由であるべきなのか。 それもまた支援を受けることにより実感することがあっちこっちにあるのだ。 あれをしたいと思ってもかなわない。 これをしたいと思っても実現しない。 たどり着かない。会えない。できない。できない。 中途半端な欲求不満は大きな固定観念をどうにもできず中途半端な妥協に終わることによって作られる。 こういうソファの座り方を最近覚えたのだ 支援する方々に聞いてみたい。あなたならどうする? それほど気にしないで暮らせるのかと。本当にそれが大したことではないのだろうか。 以前 「わたしなら支援を受けるのだからそのようなものだと思います。そう思うと思います」と言い切った支援者の方がいた。「支援を受けるのだから」そんなもんだと諦めた理由がよくわからない。支援を受けるのは果たして何かを我慢するためだったか。だったらこれはなんの罰なのだろうか。わたしは、懲罰くらいでしかこんな発想になることがないのでわからない。 それを罰ではないと言うならお給料でも払っていただきたい。我慢することが完全にビジネスだと割り切るために。 わたしもこの関係性の歪な感じをいつもどうにかしたいと思っている。 わたしという当事者はどんな存在なのだろうか。マネキンみたいなものなのか。 うんとさえ言えればいいのか。 何を提供して何を得ているのか。またはさらに何を失うのか。 鈍感でなくちゃ支援を受ける生活はできない。それがリアルである。 歯を食いしばる姿もじっと耐える姿ももう見せたくないのだ、本心は。 わたしは確かに楽しく毎日を過ごしたい。 それが思った以上に苦しいと思うとき、その先に一体全体何を支えにしていくのかと思うと真っ暗な思いがする。 暗くてすごく空っぽだと思い至ってとてもとても悲しくなった。 もしかしたら元々なかったもの以上に空っぽになっていく。 結局何も残らない、そんなものかと。 そんな時にまた思うのだ。 わたしに今ある自由って一体どのく...

日々の考察 「支援」vol.2

  できないことは犯罪なのか。 『盗られた財布』は嘘ではない。 きちんと探さなければならない。 ぐうううう、愛するぐっさん    障害者として生きていくにも、生活保護の受給者として生きていくとしても、わたしはいつもわたしの見識からでは想定外の障壁に出くわしてきた。 それはいつも偏見というあまりに大きな固定観念でもあった。 障害者の人といえば、この疾患の方は大体こういう感じだ、生活保護の受給者は大体こういうものだ、などなど。 そういう話は山ほどあるけれど、そこに何かしらポジティブなニュアンスはあるだろうか。 それをひっくるめてわたしはやはりそれはただの偏見ではないのか?と問いたい。 そんな必要以上の不自由が当たり前とされるには、それなりの理由がないといけない気がするが、実のところいつもそんなものは空気であるとか慣例であるとかいう一才の具体性を持たないもので説明をつけられてしまうのだ。 例えば、うちには今、成年後見人制度で言うところの補助人がいる。これがまた、 支援という言葉とは程遠い価値観で回っている制度で、しれば知るほどザルであり、必要なスキルもおおよそ必要ないまま働けてしまうなんちゃらホイホイのような制度だったのである。 だから意識ある被支援者からすると恐ろしくてやってられないようなことになるのであり、犯罪と言ってもいいほどの怪しいこともできてしまうものであった。 わたしの補助人はとにかく彼の都合に合わせることをわたしに求めるが、あまりに無理があるので交代してもらうことにした。しかし、その手続きのために裁判所へきちんと書類を提出してくださいと言われても、ずっと無視することでその座に居座るとかそもそも提出しないで保管したいと言い出す始末であった。常に彼のやったことといえば、とにかく常にわたしの生活の妨害であった。 愛車とファニーな相棒の愛犬サク 結局彼は今、後任者が決まるまでの間、わたしの区役所のケースワーカーが取り次ぎながらわたしの生活がきちんと滞りなくやれるように調整するという事態になっている。それくらい彼の辞任が確定していてもまだ、わたしのお金そのものに対する彼の執着は異常なのである。 彼は銀行口座で管理しない。全額『お持ち帰り』したがる。余剰分も口座にも戻すことはしない。出納帳はつけないと公言している。手持ちにしかないのでその残額は当人には教えない…...

「ペトルーニャに祝福を」おっさんの撒き散らすゴミを誰が拾うのか(肩書き入り版)

 環境汚染だと言って国際会議を開いたら、一国の代表がセクシーセクシーと場違いに言った。 そのせいで、レジ袋の有料化が決まった。 こんなことですら誰も文句を言わない国にいて、この映画は非常にリアルである。 ペトルーニャが出会った集団リンチのような場面にわたしも人生で幾度か出会ったことがある。そのように表現してしまうと、きっと当時の加害者側は「それほどではない」というだろう。加害者はいつもそんなものである。きっとずっと自分の罪に対して軽薄なのだ。 この映画の登場人物はそれほど多くない。しかし、集団を形成する要素として不可欠なタイプをそれぞれキッチリ描き分けてある。母親もそうだし、警察官も、司祭もそうである。 友人とレポーター、母親が女性で他はみんな男性である。 宗教とムラ社会の親和性というのは一体なんなんだろうか。 その批判的な物言いの下卑たること、この上ない。 根拠なく拘束したり、罵ったり。そのような言葉を口にして罪悪感がないのも神という最強の後ろ盾があるからだと言えるのかもしれない。 しかし、その罵声がれっきとした「女性だから」という理由である時に、終盤で提示される「もし神が女性だったら?」という発想は(奇しくも男性の登場人物から発せられているのだけれど)ものすごい説得力を持つ。 一部のキリスト教において長らく「天の父」であった神が近年「父であり母である」神と言い直されてきているのだけど、言い換えればいいというものでもない。 男性優位の考え方というのは、本当に長い間、政治と文化、宗教にわたってあまりにも浸透してしまっている。この国においても。つくづく嫌になるほどに長い間社会として、おっさんを再生産しては甘やかしてきたのである。それをしやすいように社会が出来上がってしまっているのだ。おっさんは抜本的な解決より小手先の誤魔化ししかしないものであるから、日本の社会はいつも「古き悪き」日本でしかない。世界も根本では大きく変化しない。 そんなおっさんたちがどれほどの才能を差別と共に葬ってきたのかと思うとなんということなのかと呆れずにはおられない。 いつも思うのだけれど、人が他人のチャンスを奪う、可能性を削ることにおいてもう少し敏感であるべきである。根本的に人付き合いをするにあたって、最低限のルールである「自分がされて嫌なことは他人にしてはならない」さえ守れるならば、差...

「さがす」 こういうことなの? 社会の底辺と波瀾万丈は鶏と卵

  腹が立つ。またこの手の話かとも思うし、そんな映画をAmazonにお薦めされてるじぶんに対してもだし、もちろんこの映画の中身に対してもだし、そんな中身の映画にいつも止まる日本映画の一種の限界に対してもだし、腹が立つ。 石ころをその数だけ並べて蹴飛ばしまくりたい。 はっきり言えば、何をどうしたいねんと。お金の問題なのか、福祉政策なのか、生死の倫理の問題なのか、犯罪か。政府か。 こねくり回しすぎて脳みそは今無茶苦茶である。 確かにいつもわたしも現実がカオスだとは痛感してるが、結局なんやねんとイライラしてることを思い出したでしょ。 ひどい映画だと言いたいわけじゃない。問題てんこ盛り、リスク死ぬほど、そんな環境はなぜに?ということなのだ。現実が。ラストで登場する『正義』だけど、それほど『正義』じゃないことはもう観客には伝わってる。 だからこれをお薦めされてAmazonの口車に乗ってみたことそのものに腹が立つのだ。わたしもそんなことでお薦めありがとうというようなチョロい人間じゃないよと。えらい見くびられたもんですな、と。寝ていた子をしっかり起こされた。そんな苛立ち。 あと、貧困や福祉は確かになぜか犯罪との親和性が高いのかもしれないけど、そこの丁寧さを欠けばこういう「どうせお金なんでしょ」みたいな『正義』になってしまう。それぐらいにたった一人の中での『正義』はショボい。 結局社会的に苦しみながら生きるわたしみたいな当事者の人たちはこういう映画をいつもどう思ってるんだろうか。 よく考えたら、そんなことを語り合うようなチャンスも今まであまりなかった。 我々当事者にとって、福祉も貧困も、障害も「ネタ」じゃない。生きる目的でもない。 日常なのだ。日常であるからこそ辛いこともあるし、日常であるからこそ社会保障制度になっているのだ。これは、非常時でも異常時でもない。このことが、一般的にわかってもらえるならいいのだが。 えげつないストーリーだが確かに繋がりも変じゃないし、むしろスムーズだ。 「社会の底辺を苦しみながら生きる大阪の父と娘。彼ら人生をのジェットコースターサスペンスで」のような違和感。 あ、そうそう、大阪の下町にいきなりUSJができた時のような違和感。 USJは好きだけど、ここで?みたいな慣れなさと、違和感に基づく不思議さと。 でももう当たり前になった、ということは、本当...

『家族を想うとき』はたして人権はお金で買えるのか。お金って何なんだ。

  またしてもケン・ローチ監督である。 労働者階級における悲劇的な負の連鎖をリアルに描く事をとても得意とするイギリスの映画監督である。 『〜ダニエル・ブレイク』の時と大きく違うのは、この映画の中心となるのは一つの家族だということ。4人が主人公なのだ。 ちなみに邦題と少しニュアンスの違う原題は『ご不在のところ失礼します』というような宅配業者の不在票にある一文である。 父親は新しくフランチャイズの宅配業を始めたばかり、母親は訪問ヘルパー、男の子と女の子がいる。出だしの父親が始めようとしている事業の説明を受けているところからいきなりめちゃくちゃ胡散臭い。 あまりにも条件が良くないのだ。 父親にはマイホームの夢があり、結局その危なっかしい職業に就いてしまうのだけど、それもきっとそれだけではないのではと想像がつく。失業率は相変わらず改善しない。 今、日本の社会における貧困問題が表面化、日常化してきていることでより彼らの苦悩が身近に感じられることもあり、わたし自身ケン・ローチ監督の作品は立て続けには見るのがあまりに辛すぎるので、よちよちと見ている。 それで最新作であるこの作品を観るにあたり、しばらくわたしは躊躇していた。家族の映画というものに身構えてしまう癖があるからかもしれない。わたしには家族というものがあまりにもわからなさすぎるからだ。 この映画は家族の映画というよりやはり社会問題の映画だった。社会全体にまだまだ人権などという考えが共有されているとは言えない現実があること。 お金で人権が買えると言わんばかりに、貧すればブラックな仕事に耐えるものという新しい基軸で回る社会が現れてくる。 既存の法に則った人権意識ががただの理想でしかないと思い知らされるのはいつも貧しくなった時であり、切羽詰まった時であり、またそのような人にのみ開かれる人権のない社会というものが別個に存在することが、悲しいことに共有されているのもこの世界の常識なのかもしれない。 わたしは社会的弱者という表現を自分を形容するために使いたいとは思わないのだけれど、この世の中はあえていうなら「社会的強者のための社会」が「社会的弱者のための社会」を支配し差別する構造になっていて、かなりくっきりと二分化されてしまっている。しかも強者の社会にいる人は時に弱者の社会の出来事を知らない。その逆においてもそうではないだろう...

わたしはダニエル・ブレイク(ケン・ローチ監督) 小さな怠慢が招くもの

一作目のレビューである。 この作品は尊敬すべきおじさんとオッサンの話とも言えるかもしれない。 言わずもがなのカンヌ国際映画祭でパルム・ドールをゲットした作品である。 しかし、地味な地味な映画でもある。 以下に鑑賞後すぐわたしが書いたレビューを転載する。 満点にする勇気がなかった。 褒めるわけにはいかない事情がある。 わたしはひとりの障害者であり、生活保護受給者である。 わたしの今が描かれているかのように身につまされた。 根本的に、もともと日本とイギリスの国民性は似ている。 個人的にそれは島国ゆえのことだと思うのだけれど、この映画で四角四面に役所の職員が、ダニエルに話すことのいちいちは、しばしば日本でも「真面目な公務員」二ありがちな、そんなことを話していて人として恥ずかしくないのか的な台詞である。 自ら、人間であることに目を瞑り、機械的な言葉を発する。 相手が人間であるかどうかなど考えたこともないのだろうと思えてくる。 そんな彼らは、この映画を見てなんと思うのだろうか。 あの日、区役所で意味もなく怒鳴ったあの職員の感想を知りたくなった。 さて、日本の公的扶助は大方において申告制であり、困っている側が自ら自分が何を受けられるのか、どんな制度があるのかを調べなくてはならない。 その上で役所に問い合わせたところで、職員をもってしても知らないことすら多々ある。 そしてさらにあまり仕事したがらない体質までついてくる。 ではそんな制度は、一体誰のためにあるのか。 形だけ用意しておけば良いと言うものではない。 日本の行政のIT化の異様な遅れは、わざわざ人手を要することで過剰な公務員を雇っていくためなのだと悟った。 そう、もうイギリスも日本もほんとに似ている。 政治や国を、彼らのためだけに使わず、市民が取り戻さないとならないのかもしれない。 そうしないとこの時代から先は真っ暗どころかもう崖っぷちにいるのだ。 こんな風に誰ひとり、無責任な連中に殺されてはならないと強く思った。     わたしは彼らの今後においてもし困ることになれば手助けもするかもしれない。    だが、いま、彼らにその職務において殺されるわけにはいかないのだ。   ここに述べたように、役所の職員にまずおっさん体質が蔓延している。 パワハラ、モラハラも場合によっては伴いながらそれを『正義』としてしまうこ...