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『正欲』 Netflix  正しくないという生きにくさ

このところ、何かと正しさとか正しくあることを求められすぎている気がして、正直言って非常に息苦しい。 何かを正しいと決めることは、本来とても労力の必要なことだと思うのだけど、このところはその正しさという紐で縛り合うのが文化みたいになっている。 わたしはこの点において正しいのであなたも正しくしてください、みたいな。 どうしてそうなったのか知らないが、奇妙なプレイである。 本来自分は他人の気持ちを理解することができないものである。そのことが怖いのか、せめて(勝手に)正しくあればいいという落とし所を作っているだけに思える。 よくいう、ポリティカルコレクトネスというものですら、その実態は、単に個人の感想を尤もらしく主張するという手段として意味だけが変化してきている気がするほどだ。 そう、日本語の社会では、「コレクトネスを達成するには」という課題に対して「尤もらしくいうこと」、という結果で済むような、言葉そのものの意味を変えてしまうことへの抵抗がなぜかあまりない。そんなあやふやさが割と罷り通ってしまう文化がある。 その果てに今どんな世の中か、というと誰もが生きにくく、誰もが適応できかねる社会になってしまった。 自分が「弱者」と思うのかどうかという違いだけで、一見強者に見えていても、その実は恐ろしく脆く儚いものである。 以前は、「明日は我が身」というような発想で取り組めばまだなんとかなったと思うが、今はそうじゃない。 本当に今の世の中は、既に生きにくいと感じる人ばかりではないだろうか。例えそうじゃないと思う人がいても、今の価値観においてはただの鈍感な人に過ぎなく、その人もまた実際には生きにくいはず、という社会である気がする。 しかし、社会のシステムはそんな人々の感情の変化についていけるわけもなく、あまりに敏感な今の世代ではそれを変革するだけの体力がない。誰もが生きづらくて我慢しているなら、お前も我慢しろというような。 これはとても困った話なのだ。 昭和か。水を飲めない部活のようなスパルタぶりだ。 その結果、世代間ギャップというより社会全体が社会的弱者であるという奇妙な事実。この現実をどうしたものか。鈍感な社会に対して敏感な人たち。みんな水に飢えてカラカラなのだ。 この映画において、中心にいるのは非常に生きづらい人たち。正直言ってその趣味嗜好は共感しにくいが、彼らの生きづらさは伝わ...

グッド・シリアルキラー ホラー映画なのに笑えてくる来るべき未来の映画

わたしの実家では  欲しいものがあれば、どうしてそれが欲しいのか、なぜそれが必要なのか、購入のための趣意書を作成して親の許可をもらわなきゃならなかった。 当時はネットもなかったのでそのやり方か、もしくは自分で稼いで買うように、と言われたからわたしは高校生の時からとにかく必死でアルバイトをしていた。 そんなこんなで年齢を重ねるにつれ、自分の都合で楽しみたい趣味もできたし、それを満喫できる空間も欲しかったのだと思う。思う、というのはいまだにわたしには、プライベートというものの線引きによる実感がピンとこない。実家では、わたしの部屋に内鍵をつけることは許されなかった。一回、わたしが相当な年齢になってから部屋を改築したときに、扉を付け替えることになってたまたまそこに内鍵がついていることを知った母が、あられもなく発狂しそうになったのを見て、わたしは本当にこの人はわたしがそういう空間を持つことを許せないのだと不思議に思った。変な感想ではあるけれど、その執念を思うと逆にわたしはそれまでのことが腑に落ちたし、心から奇妙にも感心したのだった。 中学生の初め頃、当時駅で気に入ったポスター(なぜか「いいちこのポスター」とかが好きだった)を駅員さんにお願いして取っておいてもらってそれを持って帰ったりしていたのをアート気分で部屋に貼っていた。わたしはいつもそれを気に入って眺めて過ごしていたのだが、ある日帰ったら全てなくなっていた。その光景はとても衝撃的だった。 わたしはなんとなく父によるものかなあと思っていた。またなんか気に障ったんだろうと思った。でも確かめなかった。 随分経ったある日、いつものように母があれしろこれしろ、あれはするなこれはするなと色々話していた時に、「あんなしょうもないもんを壁に貼る暇があったら」と言った。ん?「お母さんやったの」「そうだけど?」「お母さんやったのか」 「破って捨てたわ」 「なんでそんなことをできるの」 「なんなん?そんなにいうほどのもんでもないやん。欲しかったら買ってきたらしいやん。ほら、財布渡すわ」 そう言って母は財布を投げた。まるで母が被害者みたいだなあと思った。 「もういいわ」 「早く買ってきなさいよ。そんなにぶつぶついうなら出ていって好きに暮らしたらいいやん」 そんな母の言葉を背にわたしは部屋に戻った。 そうだったのか、母だったのか。そんなふ...

科学はおっさんのものなのか 『キング・オブ・クローン』netfrix

https://www.netflix.com/jp/title/81516199 学者バカという言葉がある。 決して褒め言葉でもない、結局のところ、極めて既存の男性的な狭い了見で好きな分野だけしかものを知らない人のこととなるのだろう。研究対象のことしか知らないような人。 まあ、おっさんに多い。学者でもないのにそもそも狭い世界観でしかものを見れなくなるようなこと自体がおっさんの感覚でしかないから困ったものだ。しかもその狭い自分の世界に対して無駄に高すぎるプライドもあったりするから非常に迷惑なのだ。 このドキュメンタリーのおっさんもただの学者バカである。「科学者として当然のことです」と何度も彼は言うが、その前にあなたは人間でしょうが、と見ていて思った。勝手に「科学者」と言う言葉をカテゴライズして、印籠のように使う時点で彼は本来の意味での「科学者」としてダメなやつなのだ。だと言うのに、なんという傲慢さだろうか。 つくづくおっさんという人たちは折に触れて自分の言動の正体について考えてみるべきなのだ。日本は「専門家」ばかりで細分化した縦割り文化であるとわたしは思うのだけど、そうやってお互いの分野にあまりにも関与しないことばかりをやってきたから、他のおっさんの不正に甘い。「よそはよそ、うちはうち」とも言わんばかりに。社会的構造がそうなったまま結構長くなってきたことで、おっさんは連携することが非常に下手である。変にプライドばかりを刺激しあったりしてしまい喧嘩になるか、それが嫌すぎて関与しないという力が働いてしまうのだ。結局自分を守るために他者に関わらない、そういう内向きで狭いところで生きるしかないことを自ら強いるのがこの国でもいろんな団体のやり方になっている。 小さな組織になればなるほど、小さな権威しかないから無駄に大きく見られるためか、暴力的なおっさんがいたりする。 わたしが若い頃までは、当たり前に男性だけがリーダー役を買って出るものだった。優秀なのはいつも男性だと言う幻の歴史的な刷り込みによるものである。 そんな男性の生き方を見てみると、たいてい異常なほど生活にまつわる部分の能力が欠落していることが多いと思う。幼少の頃は母親が、大人になれば妻が、など過程の時点で既に主に女性の誰かがいないと生きることができない。「妻の支え」というが、それはつまりれっきとした支援とも言えるだろ...

映画『パーフェクト・ケア』 古今東西、後見人とは公的に「認められた」搾取・詐欺ビジネスなのだった

“完璧なケア”で裁判所からの信頼も厚い法定後見人のマーラ・グレイソン。だが、その正体は合法的に高齢者の資産を搾り取る悪徳後見人だった。そんなマーラが次の獲物に定めた資産家の老女ジェニファー。身寄りがなく格好の餌食となるはずが、なぜか彼女の背後からロシアン・マフィアが現れて――。 以上は公式HPからの引用。なかなかなブラックコメディである。 この映画を、実際に後見人ビジネスに搾取されながら見るというシュールすぎる体験をした。 こうなるととても笑ってはいられない。 わたしの場合はロザムンド・パイクではなく「福祉のよしみ」という一人のおっさんではあるのだけれど、そして彼はもっとコミュニケーションも取れないのだけれど、 そして何よりわたしにはロシアンマフィアという強い味方がいるわけでもないのだけれど、今まだ続いているからこそここにそのことを書いておきたかった。 パイク演じるマーラは後見人という仕事をビジネスとして大成させてこの分野において第一人者となっていく。 そもそも「後見人ビジネスとしての第一人者」とはなんだ?かなりイカれた匂いがぷんぷんするのだが。 それでも資本主義国家としてイチバーンなアメリカは、経済的な成功が社会的成功のバロメーターであるから、彼女のビジネスモデルを尊重してしまうのだろう。 ま、大体そういう利益を求める考え方と福祉という公助の概念とは非常に折り合いの悪いものである。だからこそ後見人ビジネスというハイエナのような職業にわたしは嫌悪感を覚えるものである。 正直にいうと、そんなことを本気でやる人が近くに現れるとは思っていなかった。 でも現れたのだ。それがわたしの前補助人自称「福祉のよしみ」である。マジでそれを職業とする人がいたのだ。最初に名刺をもらった時から「大きく出たな」というのがわたしの第一印象であった。あまり福祉関係の仕事をしていて自らを福祉といえば自分だというような人に会ったことがない。それほど福祉というのは奥深く重い言葉であるからだ。 ろくに考えてないか、無駄に誉められすぎておかしいのか、そんなものだろうと思っていた。そしてきっと彼が求めるのが「有識者」というポジションなのもすぐわかった。こういうわかりやすい名称であればあるほど、行政の目に留まりやすいものだからだ。ま、どっちもどっちであるが、そういう中身のないメンツで物事を決められて困るのが当...

「ペトルーニャに祝福を」おっさんの撒き散らすゴミを誰が拾うのか(肩書き入り版)

 環境汚染だと言って国際会議を開いたら、一国の代表がセクシーセクシーと場違いに言った。 そのせいで、レジ袋の有料化が決まった。 こんなことですら誰も文句を言わない国にいて、この映画は非常にリアルである。 ペトルーニャが出会った集団リンチのような場面にわたしも人生で幾度か出会ったことがある。そのように表現してしまうと、きっと当時の加害者側は「それほどではない」というだろう。加害者はいつもそんなものである。きっとずっと自分の罪に対して軽薄なのだ。 この映画の登場人物はそれほど多くない。しかし、集団を形成する要素として不可欠なタイプをそれぞれキッチリ描き分けてある。母親もそうだし、警察官も、司祭もそうである。 友人とレポーター、母親が女性で他はみんな男性である。 宗教とムラ社会の親和性というのは一体なんなんだろうか。 その批判的な物言いの下卑たること、この上ない。 根拠なく拘束したり、罵ったり。そのような言葉を口にして罪悪感がないのも神という最強の後ろ盾があるからだと言えるのかもしれない。 しかし、その罵声がれっきとした「女性だから」という理由である時に、終盤で提示される「もし神が女性だったら?」という発想は(奇しくも男性の登場人物から発せられているのだけれど)ものすごい説得力を持つ。 一部のキリスト教において長らく「天の父」であった神が近年「父であり母である」神と言い直されてきているのだけど、言い換えればいいというものでもない。 男性優位の考え方というのは、本当に長い間、政治と文化、宗教にわたってあまりにも浸透してしまっている。この国においても。つくづく嫌になるほどに長い間社会として、おっさんを再生産しては甘やかしてきたのである。それをしやすいように社会が出来上がってしまっているのだ。おっさんは抜本的な解決より小手先の誤魔化ししかしないものであるから、日本の社会はいつも「古き悪き」日本でしかない。世界も根本では大きく変化しない。 そんなおっさんたちがどれほどの才能を差別と共に葬ってきたのかと思うとなんということなのかと呆れずにはおられない。 いつも思うのだけれど、人が他人のチャンスを奪う、可能性を削ることにおいてもう少し敏感であるべきである。根本的に人付き合いをするにあたって、最低限のルールである「自分がされて嫌なことは他人にしてはならない」さえ守れるならば、差...

『モーリタニアン 黒塗りの記録』 恐怖をも赦せたならヒトは進化するのかもしれない

毎日毎日、時間さえあれば映画や海外ドラマなどを見ているわたしであるが、見ていて辛くて泣けてくる映画というのはそうそうない。 主人公の境遇がいかに悲惨かをどんなに丁寧に描かれても、人間ってどうしてこんなに愚かなのかと深いため息をつきながら泣けてくる映画は一年にどのくらいあるのかと思い出すのも難しいほどになかなかないのだ。 しかしこの映画は辛かった。実話だからもちろんだけれど、単に被害者に同情するのみでなく、ヒトという生き物の限界を見せられているようにも思えた。えげつない描写が続くのだけれど、そのリアリティにこの映画の説得力があるので、わたしもヒトの端くれである以上どうしても苦しみながら見るべきなのだろうなと思いながら見ていた。 ほんの少し前、世界は収容所の悲劇を見て学んだはずなのだ。 「正義」というもののちっぽけさと、人の命の尊さについて、もっと真摯であるべきだったと学んだはずなのだ。 ドイツという国が第二次対戦後「贖罪」を国家として行うことを決めてきたのだけれど、それはいつ終わることではなく今後ずっとドイツ国民が背負うべきものとしてきたことにわたしは意義があると思ってきた。 過去の精算はドイツの今後ずっと担い続けることという考え方にいたく感銘を受けたのだ。 でも、敗戦国だからこそできることなのかもしれないと思えば、その戦勝国は同じ過ちを繰り返しかねないとも言える。 そもそも世界規模で、もちろん日本もであるが真っ当な戦後処理に取り組むことなどできようもなかった。それが現時点での事実なのかもしれない。 「わたしにはわたしにできることしかできないので」という奇妙な言い訳が最近巷に溢れているが、あなたが思うほどあなたのできることは小さくも少なくもない。 結局自信がないくせに大きなものには飲まれる。その大きなものをより大きくすることに自ら加担しながら、知らなかったことにする。それよりできることを少しでもしていればあなた自身を救うことになったかもしれないのにと思う場面もある。もちろんわたし自身についてもそうだけれど。 そんな場面は今の社会に山ほどある。 わたしはそれが失敗だった時に、ほんの少しでも加担したことに辛く思いたいとは思わないから、自分の考えを持とうと努力することにしている。 それがわたしのわたしに対する、社会に対する責任の捉え方なのだ。そうやって努力するのがわたしがヒ...

「クラウド アトラス」 永遠の命と人間の業は進化を拒みながら転がり続ける

主人公は、6つの時代と場所で、6つの人生を生きる男。その人生は悪人で始まるが、様々な数奇な経験を経て、ついには世界を救うまでに魂が成長していく男の物語だ。2度のアカデミー賞に輝く名優トム・ハンクスが、これまでのキャリアのすべてを注ぎ、次第に変化していくキャラクターを演じ切った。 舞台は、19世紀から24世紀。過去・現在・未来にまたがる500年の間の6つのエピソードが、一見アトランダムな流れに見えて、実はシーンからシーンへのつなぎの一つ一つが完璧に計算された、圧倒的な映像で描かれていく。(公式HPより引用)   同じ俳優があちこちに出てくるから、輪廻についても言いたいのだろうなと思ったが、わたしは個人的には真の赤の他人にこそ同じことが言える気がしている。 この映画においての舞台は6ヶ所の物語として、そこの時代や暮らしぶり全てが違っても、同じことを同じように考えることは、同じ人間でなくても共有できるのではないかと言うこと。 命と社会という人の営みにおいて、それは役割を超えたものであり、普遍的かつ連続的な命題のようなことなのだろう。 それは確信を伴った真実ではないだろうか。 真実は人の数だけある、とかいうのも表裏一体な思考ではないかということである。 とにかくとても面白かった。 命が次へ次へと連なることは明白であるが、そこに継承される真実はいつの時代にも存在するトラブルにおいても同様だし… つまり、命は、輪廻という個人に限定したものではないのかもしれない、そう思った。 そしておっさんはいつの時代にも必ずいるようにも思えた。 やはり本気のさよならおっさんは、ファンタジックな幻想に過ぎなかったと嘆くことになるのだろうか。 そして同じようにそこには、 わたしみたいにさよならおっさん、嫌だなおっさん、という人も存在する。 なんてこったい。 わたし自身、視野をとにかく広げないと!と思いながら生きてきたが、世界ならまだしも過去と未来にもその幅が広がるとは。 そしてそのどこにも共有しうるものになるとは。 希望のかたまりである。 わたしの言動がどうであれ、どこかでおなじように不満があふれたりもするし、それで殺されたりもする。 でも、そんなわたしみたいな人はわたしが死んでも現れる。 おかしいことはおかしいという人。それは身体が死んでも心は滅びない、ということ。 それはとてつもない希...

Britney vs Spears  ストリートファイターの孤独

誰が見ても「なんてこと!」となるこのドキュメンタリー。 ブリトニース・ピアーズの長い長い闘いの記録である。 非常識な父親などに苦しんだブリトニーに非常な親近感を覚えた。だからこそ、ずっと胸が痛かった。腰が曲がるくらい。 この父親にとって「自分の娘」はあくまでも親にとってのツールに過ぎないから、きっと一生「個人としての娘」という概念は理解できないであろう。彼女の一方通行な苦しみを思うと、たまらなかった。 彼女の緊張で休まらない生活の連続を思うと、そうだったそうだったとろくに稼いできたわけでもなかったわたしの人生と感覚的になぜか重なる。 そんなわたしのことで言うと恐縮だけど、いまだにわたしは生活していて「緊張」が取れない。どんなに気を抜いて暮らそうとしても、どこに住んでも緊張が取れない。 週に5回も鍼治療が必要なほどに、緊張が身体に染み付いてしまっている。 これは異常なことなんだとわかっていても、自律神経についてはどうにもならない。 確かにわたしにはお金は大してなかったが、同時にLDの算数障害があることが近ごろ分かった。 だから家族にはそのことを何度も訴えたが、その度に怠惰であるとか馬鹿だとかを罵り続けられた。 お金があろうがなかろうが、きっとこういう父親は子どもを潰してしまう。 現にブリトニーはお金以外にも多くも人や物を失ってきたではないか。 後に一人で生活するにあたり、福祉サービスも利用したがほんの一人の担当者が、わたしの引っ越しによって変更することでまた必要なサービスは行われなかった。 わたしは今、右京区に住んでいて、近々3年目に突入するのだけど、ただの一度も必要なサービスが行われたことはなかった。 さて、家族は今も昔もわたしを罵る存在であった。 そこから出ればもう少し違った世の中があると信じていた。 福祉サービスを受ければもっと人道的な時間を過ごせるのが当然だと思ってきた。 そのうち事実がどの程度なのかと思うと訳がわからなくなる。 結局「家族がDVでした、社会もDVでした」 が正解なんだろうか。 その時、社会において圧倒的に理不尽な父親の役割は誰なのか。 おっさん病のおっさんと違うのか。 何度も言うが、わたしはブリトニーと違う。 お金もないし、発言力も大してない。 この構造的な問題に、アメリカですらなかなか手出しできなかったではないか。 じゃあ、もっと人権意識の...

「天の怒り」わたしの喪失とオッサンの喪失 

はっきりと後味悪い映画である。 大御所の男性作家と元助手、もう一人の作家、こちらは作家希望だった男性、この3人と周りの人たち。この3人の10年以上にわたる物語。 軸は家族の死である。 あと、復讐についてどう考えるか。 アルゼンチンの映画で始終聖書に基づく価値観が出てくる。特に旧約聖書の方が。 元助手ルチアナは、牧師の娘で真面目な女性。 まあまあな大家族で和気藹々と暮らしていた。 それに対して大作家クロウリーは妻と娘の 核家族で、どうも妻が神経質すぎるなあというくらいから物語が始まる。 きっかけはセクハラで訴えたこと。それのせいで家族が一人ずつ殺されていったというのがルチアの主張である。 この大御所は困ったオッサンで、何を自慢したいのか聖書を自分の「復讐心」の当て馬のように使う。 わたしも牧師の娘で小さい頃からまあまあ聖書を読む機会は多かったし、その話はとても身近だった。 でも、あれほど都合よく読めてしまえる書物も他にないなあと今も思う。ある意味矛盾に満ちていて、TPOに合わせて何とでも使える。 しかもそこには、縋り付くような思いで信仰を求める多くの人たちがいた。 わたし個人は、聖書というかキリスト教のモットーは「赦し」というもので、とても好きな考え方だと思っているのだが、それに対して旧約聖書の主は神でありちょっとパワフルなキャラでありまあまあ矛盾するようなことになっている。 それが「復讐」なのかもしれない。 困ったことだ。 それでそのような本来非常に個人的な思いに過ぎない「復讐心」を、聖書という武器で裏付けようとするのだ。 つまり、「神がわたしにそうさせている」という理屈である。 わたしの生育環境がかなり暴力的であったが、そこにもいつも両親だけでなく「神」が存在した。 「お前がちゃんと育つようにする義務がある。なぜなら親は神から預ったんだから」 「神はいつも見ているんだぞ。何もバレないと思うな」 「うまく育たないと神に顔向けできない」 だから、先ほどの復讐についての件をこの映画で語られているのを見た時も、そうなんだよね、この手の人はそう思うんだよね、とある種の納得をしてしまったのだった。 たとえ神に託されたとしても、所詮親は人間だ。 にもかかわらず、神の制裁を実行することを躊躇しない人がいる。 何様なのか。もう一度いう。何様なのか。 それがいつも疑問だった。 そんな...

「さがす」 こういうことなの? 社会の底辺と波瀾万丈は鶏と卵

  腹が立つ。またこの手の話かとも思うし、そんな映画をAmazonにお薦めされてるじぶんに対してもだし、もちろんこの映画の中身に対してもだし、そんな中身の映画にいつも止まる日本映画の一種の限界に対してもだし、腹が立つ。 石ころをその数だけ並べて蹴飛ばしまくりたい。 はっきり言えば、何をどうしたいねんと。お金の問題なのか、福祉政策なのか、生死の倫理の問題なのか、犯罪か。政府か。 こねくり回しすぎて脳みそは今無茶苦茶である。 確かにいつもわたしも現実がカオスだとは痛感してるが、結局なんやねんとイライラしてることを思い出したでしょ。 ひどい映画だと言いたいわけじゃない。問題てんこ盛り、リスク死ぬほど、そんな環境はなぜに?ということなのだ。現実が。ラストで登場する『正義』だけど、それほど『正義』じゃないことはもう観客には伝わってる。 だからこれをお薦めされてAmazonの口車に乗ってみたことそのものに腹が立つのだ。わたしもそんなことでお薦めありがとうというようなチョロい人間じゃないよと。えらい見くびられたもんですな、と。寝ていた子をしっかり起こされた。そんな苛立ち。 あと、貧困や福祉は確かになぜか犯罪との親和性が高いのかもしれないけど、そこの丁寧さを欠けばこういう「どうせお金なんでしょ」みたいな『正義』になってしまう。それぐらいにたった一人の中での『正義』はショボい。 結局社会的に苦しみながら生きるわたしみたいな当事者の人たちはこういう映画をいつもどう思ってるんだろうか。 よく考えたら、そんなことを語り合うようなチャンスも今まであまりなかった。 我々当事者にとって、福祉も貧困も、障害も「ネタ」じゃない。生きる目的でもない。 日常なのだ。日常であるからこそ辛いこともあるし、日常であるからこそ社会保障制度になっているのだ。これは、非常時でも異常時でもない。このことが、一般的にわかってもらえるならいいのだが。 えげつないストーリーだが確かに繋がりも変じゃないし、むしろスムーズだ。 「社会の底辺を苦しみながら生きる大阪の父と娘。彼ら人生をのジェットコースターサスペンスで」のような違和感。 あ、そうそう、大阪の下町にいきなりUSJができた時のような違和感。 USJは好きだけど、ここで?みたいな慣れなさと、違和感に基づく不思議さと。 でももう当たり前になった、ということは、本当...

「マルモイ ことばあつめ」 わたしの細胞は何でできているのだろうか

言葉というもののありがたみは、じわじわと気づいていくものだ。その的確さ、私たちの場合で言うところの日本語というものの素晴らしさ、そこから起こる日本人である自分へのアイデンティティー、それもこれも言葉から起こっている気がする。 そしてその言葉自体の意味は、使う人の価値観によってどのようにも変わる。 そんな曖昧なものを曖昧にすることなく解説した文章の集合体を辞典というのだと思う。 そして、忘れてはならないのはこの映画で、韓国の言葉を守る人たちと奪う人たちがいて、その後者が日本人だということである。 今の日本の政治がいわば腐りきってしまったことの大きな要因に、歴史認識の改竄と情けないほど幼稚化した政治の力があると思う。腐った鯛の成れの果て、である。 わたし自身いつも役所の人たちと話して思うのは、そのあまりに幼稚な論理とも言えないほどの屁理屈である。正直言ってこんな理屈でこの地区をなんとかできると思っているのかと嘆かわしく思うくらいしか後には残らない。 生活の中でたくさんの言葉が通り過ぎていくときに、どうしてもうまくやり過ごせない言葉が、心に引っかかる。つまりわたしも傷ついているのだ。一生のうちに癒せる量の傷ならいいんだけど。細胞まで破壊されてきたのかもしれない。 長い間、気にしないふりをしてきたこともあり、うまくやれていると思っていた。でも、気にしないふりをしても傷は治らない。じわじわと悪化することはあるけれど。 わたしは3歳の時から京都市の近郊にあるU市にそれはそれは長い間住んでいた。 そして福祉サービスの利用もそこでスタートした。 そこで、いくつかの関わりのあった団体との会話における言葉を通して、物理的にも金銭的にも精神的にも簡単には癒せるわけのないほどの傷を受けてきた。 わたしの部屋を散らかしたので片付けると言って遺品整理の業者をよこし、その多くを廃棄してしまった通所施設もあった。生活必需品の何もかもが無くなった。布団や衣類、日々の着替え、何もかもである。困って購入し補填に充てた費用も補償しなかった。 そこの団体は地域行政や関係各所に厳重に守られたため、わたしがその被害をそのまま受けることになった。わたし自身では支払いができず結局裁判にまで話が進んだ。裁判所にはヘルパーさんだけが付き添ってくれた。 その後、役所の担当者たちがわたし本人不在で話し合い、ある日役所から電...

『3人のキリスト』 現存するタブーをアメリカはどう体験してきたか?

今年の京都の夏は異常な暑さで、すっかりダウンしてしまっていて更新が遅くなってしまった。回復も遅くつくづく体がヘタレでしょんぼりしてしまっていた。ぼちぼち復活してきたので再開することにする。 さて賛否両論ある映画というのは、話題を呼びがちだけれどこれもまたキリストという言葉のせいか、Netflixで配信している割には地味な印象であった。   しかし内容は簡単にいうなら精神科治療における人体実験の実話をもとにしたものである。 そして主演はあのリチャード・ギアである。彼は若い時から中年に至るまで、とにかくラブストーリーの主演ばかりの印象だったが最近特に『やり手の専門職であったが評価が上がるにつけ調子に乗りすぎて取り返しがつかなくなる役』がとても目立つようになってきた。そういうイメージを今作も裏切らない点は感心してしまったのだった。 最初に申し上げておくがわたしはこの映画の内容には賛否の否つまり後者である。基本的に苛つきながら見ていた。 まず、人体実験と治療は違うという大原則があるのでこのようになし崩しに一緒くたにされるのは困った問題である。 そして今のここ日本の精神医療というのもこの程度のものだとわたしは思っている。医者は「これが効くはず」「うまくいったら…」「しんどくなったら…」などと占い師のようなおぼつかなさを伴う説明が薬の処方の際に主流のインフォームドコンセントになっているというのも精神科においては特徴的だとわたしは思っている。 今のわたしの主治医は「あなたは精神医療に期待していないでしょ」と一定の理解を示している風であるが、それに至るまでのわたしの道のりを話す機会はなかった。これまた大して論理的でもない。その程度で治療していると言えてしまうのである。そしてこれが大方において「当たり前」なのである。患者も医者も薬にたよりがちになる、この先に20年とも言われている精神医療の抜本的な発展がどう待っているというのだろうか。 この映画の原作の論文発表が1964年とのことだけれど、今の2022年の日本と大して変わらないことをわたしは一番嘆かわしく思った。 現状ではこの映画と同じように特に閉鎖病棟への入院は完全に管理されている。 終盤で「解放してくれ」と患者が言うシーンがあるが、それの必要性を倫理的に論じる時にはいつも、患者の希望ではなく他の地域住民や家族の都合や「倫理...

『銀河』 タブーはこの先もタブーでいいのか 冒涜と自虐の境目

このところすっかり話題の宗教ネタである。 わたしは人である以上宗教を求める気持ちがあることはじゅうじゅう理解しているが、時にそれを悪用して気がつけば宗教心なのかただの忠誠心なのか求めるものがわからなくなっている団体やその被害者を見ると、つくづくその悪質性にため息が出るのだ。 いろんなタイプの宗教についてドキュメンタリーなどを見るのも割と好きなのだが、大体において何かの資格でも取るのかというほどにテストがあったり、やたらお金がかかったり、教義が無駄にエロかったりと、一体ここで本当に誰かが救われるのか?と聞きたくなるような団体も多い。 かといってキリスト教の場合、というだけの括りでもかなりな分派が現れたりしている中で、ストイックなところもあるので結局タブーになってしまっているものも多い気がする。 あとは、単純にあまりにも日本では知られていないので、ということが一番の理由だと思う。 とはいえ、わたしの実家はキリスト教の教会であり、父は牧師だった。 何かと幼い頃から聖書を眺める機会は多かった。わたしはかなり日本の中でもこの手のエピソードに詳しい方かもしれない。 だからこの映画を観て爆笑していた。 イエスがだらしない、それだけで相当に面白かった。それ以外にも山のようにパロディネタが続く。 何だか途中から不思議なリアリティを感じていた。一応記録と言われる聖書の記述とそれが『聖典』というニュアンスで、ものすごく真面目に考えがちだけれど、実際はこんな感じだったのかもしれないな、というふうに。 現実的に、ついつい固定観念で大げさに捉えていることも、いざ体験してみると拍子抜けするようなことがある。 大袈裟な天変地異ではなく、身近な毎日の流れの中にしれっと現れる、こんな人いたよねえ、面白い人だったねえぐらいからの印象が小さな奇跡とともに広がったとしたら、そんな絵本のような出来事も素敵に思えてくるから不思議だ。「神は細部に宿る」というような。 どっちが冒涜になるのかわからなくなってくる。そんなシュールさがとても楽しかった。

『家族を想うとき』はたして人権はお金で買えるのか。お金って何なんだ。

  またしてもケン・ローチ監督である。 労働者階級における悲劇的な負の連鎖をリアルに描く事をとても得意とするイギリスの映画監督である。 『〜ダニエル・ブレイク』の時と大きく違うのは、この映画の中心となるのは一つの家族だということ。4人が主人公なのだ。 ちなみに邦題と少しニュアンスの違う原題は『ご不在のところ失礼します』というような宅配業者の不在票にある一文である。 父親は新しくフランチャイズの宅配業を始めたばかり、母親は訪問ヘルパー、男の子と女の子がいる。出だしの父親が始めようとしている事業の説明を受けているところからいきなりめちゃくちゃ胡散臭い。 あまりにも条件が良くないのだ。 父親にはマイホームの夢があり、結局その危なっかしい職業に就いてしまうのだけど、それもきっとそれだけではないのではと想像がつく。失業率は相変わらず改善しない。 今、日本の社会における貧困問題が表面化、日常化してきていることでより彼らの苦悩が身近に感じられることもあり、わたし自身ケン・ローチ監督の作品は立て続けには見るのがあまりに辛すぎるので、よちよちと見ている。 それで最新作であるこの作品を観るにあたり、しばらくわたしは躊躇していた。家族の映画というものに身構えてしまう癖があるからかもしれない。わたしには家族というものがあまりにもわからなさすぎるからだ。 この映画は家族の映画というよりやはり社会問題の映画だった。社会全体にまだまだ人権などという考えが共有されているとは言えない現実があること。 お金で人権が買えると言わんばかりに、貧すればブラックな仕事に耐えるものという新しい基軸で回る社会が現れてくる。 既存の法に則った人権意識ががただの理想でしかないと思い知らされるのはいつも貧しくなった時であり、切羽詰まった時であり、またそのような人にのみ開かれる人権のない社会というものが別個に存在することが、悲しいことに共有されているのもこの世界の常識なのかもしれない。 わたしは社会的弱者という表現を自分を形容するために使いたいとは思わないのだけれど、この世の中はあえていうなら「社会的強者のための社会」が「社会的弱者のための社会」を支配し差別する構造になっていて、かなりくっきりと二分化されてしまっている。しかも強者の社会にいる人は時に弱者の社会の出来事を知らない。その逆においてもそうではないだろう...

『僕が飛びはねる理由』 誰のための表現か、誰のための命か

  コミュニケーションというのは、どんなに同じ言語だとしても一種の翻訳作業だと常々わたしは思っている。 だから極力誤解の生じないようにと、あらゆる表現方法を駆使してわたしは喋る。喋り続ける。 時々一体わたしはどうしてこんなに努力しないと思いが届かないのかと途方に暮れることもあるけれど、現実的に日常を社会的な福祉サービスを受けながら生活することとはそんなことが必須であるに違いないと思っている。 だから、割といつもものすごく実はわたしは疲れている。 阿吽の呼吸などというものは意外と例外のような奇跡の上にしかないのかもしれない。 そんないちいちを言葉にすることはほとんどないのだけれど、このような言葉を尽くすわたしですら大いなる誤解があちこちに生まれるのだから、共通の言葉を持たない自閉症の方々の思いというのは並大抵には伝わりにくく、さぞかし孤独な中でいるのだろうと昔からわたしは胸が痛かった。 わたしにとって感情というものはとても大切で、正直なところそれをどれほど自然に振る舞って許される空間であるかが、本当に幸せな空間なのかもしれない。 今までの人生を振り返っても、そのような空間はどこにもなかった。 わたしの思いはいつも社会にとって邪魔であり、つまらないものであった。 福祉サービスを受け始めてから、当事者の希望を大切にしますとどの支援者も言ったけれど、実際には意外と気を遣っている自分にも気づいていた。 そして思ったよりそのいちいちの事業者や役所までもが『こちらにも都合がありまして』とあちこちの都合をいうものなのであった。 そんな方々の都合を聞き入れないと支援が行われなくなる不安、そんな時の気持ちが一番嫌だった。 夜寝る前に寝転んでいたら、気持ちは休まりたいのに体がむずむずして眠りにくいことに気づいた。主治医によると『制約の多い生活をしてるからストレスによるもの、きっとずっとあったはず』とのこと。 なんてこと!知らない間に身体の中で暴れられない暴れん坊を飼っている気分だった。 暴れん坊を大人しくさせる薬はあるのだけれど、それを服用することがわたしの人生にとっての『解決策』なのか、まだまだ疑問は尽きない。 数年前、この映画が作られたきっかけになった本が話題になった頃、NHKのドキュメンタリーを見た。言葉って何だろうかとたくさん考えた。 この映画はきっと画期的ではあるけれど...

『マンチェスター・バイ・ザ・シー』 喪失と贖罪、そして再生までの静かな物語

また、初めて観た後に書いたレビューより。 素晴らしい。スタンディングオベーションの気持ちがわかる。 ただ、この映画を身終えてすぐにそうなるわけではないけれど。 何より配役がもう、バッチリなのだ。 常々ケイシー・アフレックという人は、あの猫背と話し方で、なんとも頼りないような、誰かが手を差し伸べたくなるような、そんなキャラクターがぴったりだと思っていた。 つまりは弟のキャラクターなのだけれど。 この映画での兄は、絶対的なほどに素晴らしい頼れるアニキだったのだが、突然亡くなる。亡くなるほどの持病があってもそれを常に意識するのは本人くらいで、意外と周りの人は元気な日々が続くほどに、あたかも治ったかのような錯覚に陥るものだ。 そんな兄の知らせを受けて帰ってくるのが主人公のリーだが、マンチェスターがまた田舎の漁師町といったふうな、街中が知り合いなのだ。 世界中どこにでもあるんだなあと思った。 耐えられないほどの過去を持つ弟は、お互いに言いたいことの言える兄の息子と、しばらく過ごすことになる。 とにかく、描写は抒情的だ。 セリフは多くはなく、いわゆる行間を読めと言わんばかりに、間をとった会話が多い。 リーの過去は割と早めに出てくるが、その時点で、これは無理だろうなとわたしは思った。むしろ、弟だからというにはあまりある、リーの無気力で投げやりな暮らしぶりの理由がはっきりした。 ただ、今はそうだけど、彼は全てに対してそんな無気力なわけではない。閉じこもるのも全ては自分の話だけであり、残された甥にはとにかく優しい。口論はするけど、なかなかいい関係なのだ。 しかし、甥も思春期だからか、一緒に暮らしてほしいの一言がなかなか言えない。 リーには分かっているのだけど、同時にリーが住み続けるのが難しいのも理解しているからだ。 住めばいいのに、というにはあまりにたいへんな土地がある。 いわゆるトラウマでもあるし、それはどんよりとまとわりつく空気が息苦しい場所になる。 息苦しい場所に住み続けるのは、もはや動物的に難しい。 終盤に元妻のランディに言われる、 「あれからあなたは病んでいる」というふうなセリフがある。 責め立て合いながらでも、誰かと一緒に乗り越えることもあるが、どうしてもできないこともある。 たしかに、甥のパトリックは、リーがいれば早く乗り越えられるのかもしれないが、リーには無理。 治療...