環境問題について、昔からずっと思っていることがある。
その理論の基本はわたしたちが住む地球のすぐ先のこれからについてのものであるから、あくまでも全人類が自覚的にしかも早急に取り組むべきなのだという、重大な問題であるという。
しかし、ここ日本だけでなく、どんなに自然災害を体験しても、目撃してもそれが普遍化することがなかなか起こらない。懲りたと言う人たちでこの世の中は溢れていくのに、なぜそういった感覚にならないのか。そういった運動につながらないのか。
特に日本において、自分の身に起こる不幸は、自分や身の回りの誰かのせい、と言う程度の認識に収める人がほとんどである。そのうちの特に多数の人たちは、たとえ自然災害ですら自分のせいのように考えてしまう。被害の跡をなんとかできない自分たちの資本力のなさのせいだと考えたり、時には先祖への弔いをきちんとももっとすべきだったなどと考える。場合によっては、自らがいかに悲惨な状況下にあっても、遠方の家族に世話になることを申し訳なく思って拒否する例もあるだろう。
そういった社会において、環境問題を普遍化することは、非常に困難である。
一つは今述べたような、さまざまな問題に出会った時に、それが環境に起因する問題であるという認識を一人ひとりが持つように社会的にできていない。これは構造的な問題だけでなく、文化的な背景も大きいとわたしは考えている。
ことに日本において、環境問題の被害者になることは、ただの運に過ぎないことの方が多い。
そしてその被害者は悉く社会的に貧困層として存在する。
たとえばドイツの財政難は、環境保護対策に様々な形で影響を与えている。 以下、簡単にその考察を述べる。
ドイツの財政難は、環境保護対策に深刻な影響を与えつつある。 再生可能エネルギーへの投資減少、原子力発電再稼働議論、環境規制緩和圧力など、様々な課題が浮き彫りになっている。 これらの課題に対処するためには、持続可能な経済モデルへの転換、国民への丁寧な説明と合意形成、国際協調の強化などが不可欠です。 短期的な経済的利益と長期的な環境保全のバランスをどのように取るかが、今後のドイツの環境政策の成否を左右する重要なポイントとなる。
もうこのように、環境問題というのは厳しすぎる現実にぶち当たっている。
現実といえば、貧困層の人は、押し並べてヴィーガンにはなりえない。食べるものを選べないからだ。
もちろん肉を食べようにも食べる機会は常にないし、結果的に豆を食べたとしても、それは思想的な背景があるのではなく、それしか選べないから、そこに肉があるならば、もちろん肉を選ぶ。肉を選ぶくらいなら5日分の豆を買う人もいるかもしれない。それが貧困というものの現実なのだ。
ヴィーガンという思想を持つことは、貧困層では起こり得ないのだ。
ということになると、飢えている人に思想は必要ないということになる。飢えている人に、あなたは飢えていると思っているだけであり大豆を選んで食べることに意味があるので、それを気にせず享受すればいいのだなどと言えば、お前は馬鹿にしてるのかと言われるのがオチである。
美味しいものがあれば、それをみんなで食べたいね、シェアしたいね、とか、食べ物をきちんと選んでいくことがこれからの地球のためになるんだよとか、世界全体で共有されたらいいんだけど、といかにインテリが望んでも叫ぼうとも、手前に立ちはだかる貧困の問題は避けて通れない。
わたしは、その貧困を貧困と認識するのがとても嫌なので、より楽しんで暮らしたいと思うタイプであるが、実はそういう同じ認識の人がほとんどいないのではないかということに実際に気づいている。呑気では生きていけないのが貧困なのだ。
誰もが好きで貧乏でいるわけではない。しかも年々貧困層は増えていく。その中には、さまざまな負の感情が渦を巻いていく。
富裕層に、認識の変化を求めることで社会を変革していく必要性を訴えることは確かに大切な問題である。
しかし、そういった課題の被害者であり、本来重要な証言を持つ当事者である貧困層にその言葉が届かないことが、何より環境問題の大きな課題ではないだろうか。なんせ彼らは運動なんて関わる暇も気持ちも余裕がないくらいの暮らしをしている。

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