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わたしはダニエル・ブレイク(ケン・ローチ監督) 小さな怠慢が招くもの

一作目のレビューである。

この作品は尊敬すべきおじさんとオッサンの話とも言えるかもしれない。






言わずもがなのカンヌ国際映画祭でパルム・ドールをゲットした作品である。
しかし、地味な地味な映画でもある。
以下に鑑賞後すぐわたしが書いたレビューを転載する。

満点にする勇気がなかった。
褒めるわけにはいかない事情がある。

わたしはひとりの障害者であり、生活保護受給者である。
わたしの今が描かれているかのように身につまされた。
根本的に、もともと日本とイギリスの国民性は似ている。
個人的にそれは島国ゆえのことだと思うのだけれど、この映画で四角四面に役所の職員が、ダニエルに話すことのいちいちは、しばしば日本でも「真面目な公務員」二ありがちな、そんなことを話していて人として恥ずかしくないのか的な台詞である。
自ら、人間であることに目を瞑り、機械的な言葉を発する。
相手が人間であるかどうかなど考えたこともないのだろうと思えてくる。
そんな彼らは、この映画を見てなんと思うのだろうか。
あの日、区役所で意味もなく怒鳴ったあの職員の感想を知りたくなった。

さて、日本の公的扶助は大方において申告制であり、困っている側が自ら自分が何を受けられるのか、どんな制度があるのかを調べなくてはならない。
その上で役所に問い合わせたところで、職員をもってしても知らないことすら多々ある。
そしてさらにあまり仕事したがらない体質までついてくる。

ではそんな制度は、一体誰のためにあるのか。
形だけ用意しておけば良いと言うものではない。
日本の行政のIT化の異様な遅れは、わざわざ人手を要することで過剰な公務員を雇っていくためなのだと悟った。
そう、もうイギリスも日本もほんとに似ている。
政治や国を、彼らのためだけに使わず、市民が取り戻さないとならないのかもしれない。
そうしないとこの時代から先は真っ暗どころかもう崖っぷちにいるのだ。
こんな風に誰ひとり、無責任な連中に殺されてはならないと強く思った。

   わたしは彼らの今後においてもし困ることになれば手助けもするかもしれない。

   だが、いま、彼らにその職務において殺されるわけにはいかないのだ。 

ここに述べたように、役所の職員にまずおっさん体質が蔓延している。

パワハラ、モラハラも場合によっては伴いながらそれを『正義』としてしまうことによって

市民の命がかかっていることの危険性も感じることを拒否しているのだ。

わたしが様々と残念なことになっている行政サービスを受けながら感じるのは、以前は

『誰かが死んでからあたふたしてもダメじゃないのか』だった。

でも、今感じるのは、

『誰かが死んでも何も感じないところになってしまっている』

という恐怖だ。

その誰か、はわたしたち全員なのだから、わたしたちはそのような職員をわざわざ役所に雇っていることになる。

このことは、一人ひとりの意識改革でしか良くならなそうだけれど、いつも思うのは、このような怠惰というものは、人間のかなしい性なのだろうかということだ。

自分が働くときに、職場が倒産しないという安心によって職務を都合よく変容させることや、改悪することで怠惰を身につけてしまう。できるだけサボろうとする子供じみた怠慢がいくつもの命を奪うことになる。

それは人間が成熟に向けて生きていくのと逆行している。

しかもそれが社会の規範となる部分に擦っても取れないシミのようにへばりついている。

おっさんは怠惰な自分を甘やかす生き物である。

そうはなりたくないものだとつくづく思う。


大きくひどいことはなかなかできないが、小さなごまかしや怠惰によって一人の不自由を感じる人のうえにさらに不親切が蓄積される。その辛さは筆舌に尽くし難い。

根拠のない屈辱感を無理矢理覚えさせられながら、まだその相手に何かを依頼しなければならないという構図の残酷さがわかるだろうか。

思わず太字になってしまった。

とにかく最後のなけなしの人間らしさを粉々に打ち砕くのが、デリカシーのないおっさん気質なのだ。

いつも鈍感な人は敏感な人を踏み潰していく。

いいなあと思ったのは小さく立ち上がるダニエルに送られた喝采。ここではそれすらないだろう。

でも、わたしはわたしをあきらめない。そのためにもおっさんばかりの役所と話していかなけれならないこともある。そのときにも一貫してダニエルのようなプライドを失わず生きていかないと、命が終わってしまう、そんなふうに思った。悔しい思いがリンクしてあまりに辛かった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/わたしは、ダニエル・ブレイク

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