子どもの時に食べられなかったものが大人になって美味しく感じるようになることがある。
割とそれを『大人になったという成長の証』のようにいうことがあるようだけれど、実は味覚というのは赤ちゃんの時に最も過敏で、歳をとるに従い鈍麻し、それゆえに食べられるようになったということらしい。
つまり、大人はただ子どもが鈍感になっただけの存在なのかもしれないと思うと、偉そうに激しく威張る根拠はあるんだろうかと再び首を傾げたくなる。
ま、そういうわたしもすっかり鈍感な大人になってしまった。だから色々と忘れてしまったであろう感覚を子どもたちに教えてもらわなくちゃと日々思っている。
さて、この映画はなかなかえげつない。一言で表すならば『露骨』なのだ。
一つの家族において共に小説家という両親の離婚という大きな出来事をどう体験していくか、という物語を淡々と、時にシニカルなほどに描いている。
一目瞭然なのは、父親の驚くほどのオッサン体質である。いや、まさにオッサンが服を着てしゃべっているようなものである。笑えるレベルを超越したオッサン。あらゆる周囲をこき下ろすのみに情熱的なオッサン。そして一つだけネタバレが許されるなら、父親は最後まで何にも変わらない。これほどしっかりとしたオッサンというキャラクターが、よりによって家族というところでどう発揮されるのか。想像するだけでゾッとする。
ただ、観ている者を悩ませるのは、その父を完璧なのだと信じ込み、なんなら助長させているかのような役割を担うお兄ちゃんの存在である。父親の口調を身につけ横柄に喋り、常に父親が彼のヒーローなのだとわかりやすい。思春期バリバリの年頃の敏感な男の子に、中身はともあれアイドル(偶像)であった父が、ただのエロいオッサンだよとは誰も言えないし言わない。憧れの父親だって少なくとも失敗だらけの人間である、それすら誰も彼に言い聞かせる人はいなかったようである。
そしてだんだん現実に気づいていく過程は観ていてとても胸が痛い。そこに至るまでのところでわたしは、あまりにもこの父親が不愉快だったから観るのをやめようかとすら思ったけれど、今度はお兄ちゃんのショックを思うとこれまたいたたまれなくなり気になりすぎて観るのを止めるのをやめたのだった。
この兄はこの映画が終わる頃、きっと父親のようなオッサンにはなりたくないと強く思っているだろうけれど、それがまたどれほど続くかわからない。セラピストや母親の関わりの中でまた新しい価値観と出会うことに期待したい。彼には人生を楽しんでほしいと、そうして暮らしていいのだと知ってくれたらいいなと心底思った。
熱い思いで観てしまったのは、この父親のタイプがわたし自身の父親と非常に似ていたからである。この手のオッサンにつける薬はない。オッサンの治療は元オッサンぐらいにしか手に負えないのではないかと思うので、オッサンの自浄作用は期待できないものなのだ。なぜならオッサンというのは基本的に他人のためには動こうとしないものだからである。
弟の気楽な感じ、それはこの少年が気楽なだけでなく、家族の中で不器用すぎる割に主張の強い兄のキャラクターと対照的すぎてあまりに軽い存在感ゆえの気もする。まともに身内に相手にされなくて生きてきた弟は、兄より幼く不安定にもかかわらず、時折見せる彼の天才的な自由度とバランス感覚に、さすが弟とはこういうところもあるのかと感心したが、決してそれゆえに大丈夫という話にはならない。だから弟にもセラピストは必要に思う。
そもそもこの兄弟のこの時点の不幸は、完全な『貰い事故』にもかかわらず、親だからすがることしかできない。これが家族というもののもつ圧倒的な上下関係なのだ。悔しいけれど。
この映画の監督は家族の持つ癖が得意なノア・パームバック、そして美しさに毒を混ぜる天才、ウエス・アンダーソンが製作でサポートをしている。その二人がこれまた地味であちこちが痒くなるような作品を作ったことがすごく腑に落ちてしまった。毒が少し強すぎる気もする。家族という言葉の呪縛から解き放たれるまでのリアルで酷な物語だった。
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