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8月, 2022の投稿を表示しています

『その年、私たちは』 - Netflix 偽物と本物と。繊細で温かい愛情に満ちた薄氷の上のドラマ

本物を探すことが人生なら果たして自分自身は本物なのだろうか。もし偽物ならどう生きればいいのか、そんな薄氷を履むような繊細な感情を何度見てもこのドラマは揺さぶる。 こういったことは大抵学生時代あたりで思い尽くすものだと思っていたが、わたしの青い鳥探しはきっと生きる上で一生続くのかもしれないと最近思うようになった。 なんとなく、自分の部屋に青い鳥がいたでしょと他人に言われても「いやあれと違うと思う」とまたふらふらと探しにいく自分が見えるのだ。 本物と偽物という概念は、いつの頃からかずっとわたしの中で対比的ではありながら対等に存在し続けてきた。 だからなのかもしれないが、このドラマの主人公仲間の境遇のまちまちなことで、その危ういながらも細く強い結びつきに惹かれるのかもしれない。 そういう奇跡のような出会いは、実は結構あるもので、「一期一会」とはおしゃれなことを昔の人は言ったものだと感心してしまう。 わたしは、人間とは真似をすることでさまざまなことを学ぶくせに、これまた人間も動物だからか雑に育てられてしまう生き物だとおもう。うまく生きるためにどれほどを我慢しなければならないのかと小さな頃から薄々思ってきた。 我慢することが生きることならいつか生きていたくなくなる。親とは潰すために子どもを産み育てるとはこれいかに?というふうな謎がずっとぐるぐると頭にあった。 そんな何もかもに共通するネガティブすぎる考え方がとにかく嫌だった。 家族も学校も社会もそう。 そういう気持ちに最も辟易していた何十年か昔にこの作品を見ていたらその頃のわたしはどう思っただろうか。 きっと今と大きく変わらないのではないかと思う。環境はあの頃と違うけれど、わたしの同じところに琴線は存在し続けている。 家族という難しすぎる小さな言葉にどれほど多くを詰め込もうとしてきたのかと、ちょっと思った。 あれほど多い荷物はきっとただの家族という袋では破れてしまう。 そんなに強くも大きくもない、たったの家族というだけの袋だった。 その袋を温かいもので満たすか、棘で満たすかそんな程度だったはずなのにと思った。 その割に長い時をかけてしまった。 失ったものは多いかもしれないが、たくさん学びたくさんを得た。 生きる途中で得難いものは必ずしも不必要なものではない。 今わたしは全てがわたし次第だということの喜びを純粋に感じて喜んでいる...

『3人のキリスト』 現存するタブーをアメリカはどう体験してきたか?

今年の京都の夏は異常な暑さで、すっかりダウンしてしまっていて更新が遅くなってしまった。回復も遅くつくづく体がヘタレでしょんぼりしてしまっていた。ぼちぼち復活してきたので再開することにする。 さて賛否両論ある映画というのは、話題を呼びがちだけれどこれもまたキリストという言葉のせいか、Netflixで配信している割には地味な印象であった。   しかし内容は簡単にいうなら精神科治療における人体実験の実話をもとにしたものである。 そして主演はあのリチャード・ギアである。彼は若い時から中年に至るまで、とにかくラブストーリーの主演ばかりの印象だったが最近特に『やり手の専門職であったが評価が上がるにつけ調子に乗りすぎて取り返しがつかなくなる役』がとても目立つようになってきた。そういうイメージを今作も裏切らない点は感心してしまったのだった。 最初に申し上げておくがわたしはこの映画の内容には賛否の否つまり後者である。基本的に苛つきながら見ていた。 まず、人体実験と治療は違うという大原則があるのでこのようになし崩しに一緒くたにされるのは困った問題である。 そして今のここ日本の精神医療というのもこの程度のものだとわたしは思っている。医者は「これが効くはず」「うまくいったら…」「しんどくなったら…」などと占い師のようなおぼつかなさを伴う説明が薬の処方の際に主流のインフォームドコンセントになっているというのも精神科においては特徴的だとわたしは思っている。 今のわたしの主治医は「あなたは精神医療に期待していないでしょ」と一定の理解を示している風であるが、それに至るまでのわたしの道のりを話す機会はなかった。これまた大して論理的でもない。その程度で治療していると言えてしまうのである。そしてこれが大方において「当たり前」なのである。患者も医者も薬にたよりがちになる、この先に20年とも言われている精神医療の抜本的な発展がどう待っているというのだろうか。 この映画の原作の論文発表が1964年とのことだけれど、今の2022年の日本と大して変わらないことをわたしは一番嘆かわしく思った。 現状ではこの映画と同じように特に閉鎖病棟への入院は完全に管理されている。 終盤で「解放してくれ」と患者が言うシーンがあるが、それの必要性を倫理的に論じる時にはいつも、患者の希望ではなく他の地域住民や家族の都合や「倫理...

『銀河』 タブーはこの先もタブーでいいのか 冒涜と自虐の境目

このところすっかり話題の宗教ネタである。 わたしは人である以上宗教を求める気持ちがあることはじゅうじゅう理解しているが、時にそれを悪用して気がつけば宗教心なのかただの忠誠心なのか求めるものがわからなくなっている団体やその被害者を見ると、つくづくその悪質性にため息が出るのだ。 いろんなタイプの宗教についてドキュメンタリーなどを見るのも割と好きなのだが、大体において何かの資格でも取るのかというほどにテストがあったり、やたらお金がかかったり、教義が無駄にエロかったりと、一体ここで本当に誰かが救われるのか?と聞きたくなるような団体も多い。 かといってキリスト教の場合、というだけの括りでもかなりな分派が現れたりしている中で、ストイックなところもあるので結局タブーになってしまっているものも多い気がする。 あとは、単純にあまりにも日本では知られていないので、ということが一番の理由だと思う。 とはいえ、わたしの実家はキリスト教の教会であり、父は牧師だった。 何かと幼い頃から聖書を眺める機会は多かった。わたしはかなり日本の中でもこの手のエピソードに詳しい方かもしれない。 だからこの映画を観て爆笑していた。 イエスがだらしない、それだけで相当に面白かった。それ以外にも山のようにパロディネタが続く。 何だか途中から不思議なリアリティを感じていた。一応記録と言われる聖書の記述とそれが『聖典』というニュアンスで、ものすごく真面目に考えがちだけれど、実際はこんな感じだったのかもしれないな、というふうに。 現実的に、ついつい固定観念で大げさに捉えていることも、いざ体験してみると拍子抜けするようなことがある。 大袈裟な天変地異ではなく、身近な毎日の流れの中にしれっと現れる、こんな人いたよねえ、面白い人だったねえぐらいからの印象が小さな奇跡とともに広がったとしたら、そんな絵本のような出来事も素敵に思えてくるから不思議だ。「神は細部に宿る」というような。 どっちが冒涜になるのかわからなくなってくる。そんなシュールさがとても楽しかった。

『家族を想うとき』はたして人権はお金で買えるのか。お金って何なんだ。

  またしてもケン・ローチ監督である。 労働者階級における悲劇的な負の連鎖をリアルに描く事をとても得意とするイギリスの映画監督である。 『〜ダニエル・ブレイク』の時と大きく違うのは、この映画の中心となるのは一つの家族だということ。4人が主人公なのだ。 ちなみに邦題と少しニュアンスの違う原題は『ご不在のところ失礼します』というような宅配業者の不在票にある一文である。 父親は新しくフランチャイズの宅配業を始めたばかり、母親は訪問ヘルパー、男の子と女の子がいる。出だしの父親が始めようとしている事業の説明を受けているところからいきなりめちゃくちゃ胡散臭い。 あまりにも条件が良くないのだ。 父親にはマイホームの夢があり、結局その危なっかしい職業に就いてしまうのだけど、それもきっとそれだけではないのではと想像がつく。失業率は相変わらず改善しない。 今、日本の社会における貧困問題が表面化、日常化してきていることでより彼らの苦悩が身近に感じられることもあり、わたし自身ケン・ローチ監督の作品は立て続けには見るのがあまりに辛すぎるので、よちよちと見ている。 それで最新作であるこの作品を観るにあたり、しばらくわたしは躊躇していた。家族の映画というものに身構えてしまう癖があるからかもしれない。わたしには家族というものがあまりにもわからなさすぎるからだ。 この映画は家族の映画というよりやはり社会問題の映画だった。社会全体にまだまだ人権などという考えが共有されているとは言えない現実があること。 お金で人権が買えると言わんばかりに、貧すればブラックな仕事に耐えるものという新しい基軸で回る社会が現れてくる。 既存の法に則った人権意識ががただの理想でしかないと思い知らされるのはいつも貧しくなった時であり、切羽詰まった時であり、またそのような人にのみ開かれる人権のない社会というものが別個に存在することが、悲しいことに共有されているのもこの世界の常識なのかもしれない。 わたしは社会的弱者という表現を自分を形容するために使いたいとは思わないのだけれど、この世の中はあえていうなら「社会的強者のための社会」が「社会的弱者のための社会」を支配し差別する構造になっていて、かなりくっきりと二分化されてしまっている。しかも強者の社会にいる人は時に弱者の社会の出来事を知らない。その逆においてもそうではないだろう...