本物を探すことが人生なら果たして自分自身は本物なのだろうか。もし偽物ならどう生きればいいのか、そんな薄氷を履むような繊細な感情を何度見てもこのドラマは揺さぶる。 こういったことは大抵学生時代あたりで思い尽くすものだと思っていたが、わたしの青い鳥探しはきっと生きる上で一生続くのかもしれないと最近思うようになった。 なんとなく、自分の部屋に青い鳥がいたでしょと他人に言われても「いやあれと違うと思う」とまたふらふらと探しにいく自分が見えるのだ。 本物と偽物という概念は、いつの頃からかずっとわたしの中で対比的ではありながら対等に存在し続けてきた。 だからなのかもしれないが、このドラマの主人公仲間の境遇のまちまちなことで、その危ういながらも細く強い結びつきに惹かれるのかもしれない。 そういう奇跡のような出会いは、実は結構あるもので、「一期一会」とはおしゃれなことを昔の人は言ったものだと感心してしまう。 わたしは、人間とは真似をすることでさまざまなことを学ぶくせに、これまた人間も動物だからか雑に育てられてしまう生き物だとおもう。うまく生きるためにどれほどを我慢しなければならないのかと小さな頃から薄々思ってきた。 我慢することが生きることならいつか生きていたくなくなる。親とは潰すために子どもを産み育てるとはこれいかに?というふうな謎がずっとぐるぐると頭にあった。 そんな何もかもに共通するネガティブすぎる考え方がとにかく嫌だった。 家族も学校も社会もそう。 そういう気持ちに最も辟易していた何十年か昔にこの作品を見ていたらその頃のわたしはどう思っただろうか。 きっと今と大きく変わらないのではないかと思う。環境はあの頃と違うけれど、わたしの同じところに琴線は存在し続けている。 家族という難しすぎる小さな言葉にどれほど多くを詰め込もうとしてきたのかと、ちょっと思った。 あれほど多い荷物はきっとただの家族という袋では破れてしまう。 そんなに強くも大きくもない、たったの家族というだけの袋だった。 その袋を温かいもので満たすか、棘で満たすかそんな程度だったはずなのにと思った。 その割に長い時をかけてしまった。 失ったものは多いかもしれないが、たくさん学びたくさんを得た。 生きる途中で得難いものは必ずしも不必要なものではない。 今わたしは全てがわたし次第だということの喜びを純粋に感じて喜んでいる...
バイバイ、いやなオッサン、バイバイおっさんみたいな文化 そんな決別宣言