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『3人のキリスト』 現存するタブーをアメリカはどう体験してきたか?

今年の京都の夏は異常な暑さで、すっかりダウンしてしまっていて更新が遅くなってしまった。回復も遅くつくづく体がヘタレでしょんぼりしてしまっていた。ぼちぼち復活してきたので再開することにする。





さて賛否両論ある映画というのは、話題を呼びがちだけれどこれもまたキリストという言葉のせいか、Netflixで配信している割には地味な印象であった。 

しかし内容は簡単にいうなら精神科治療における人体実験の実話をもとにしたものである。

そして主演はあのリチャード・ギアである。彼は若い時から中年に至るまで、とにかくラブストーリーの主演ばかりの印象だったが最近特に『やり手の専門職であったが評価が上がるにつけ調子に乗りすぎて取り返しがつかなくなる役』がとても目立つようになってきた。そういうイメージを今作も裏切らない点は感心してしまったのだった。

最初に申し上げておくがわたしはこの映画の内容には賛否の否つまり後者である。基本的に苛つきながら見ていた。

まず、人体実験と治療は違うという大原則があるのでこのようになし崩しに一緒くたにされるのは困った問題である。

そして今のここ日本の精神医療というのもこの程度のものだとわたしは思っている。医者は「これが効くはず」「うまくいったら…」「しんどくなったら…」などと占い師のようなおぼつかなさを伴う説明が薬の処方の際に主流のインフォームドコンセントになっているというのも精神科においては特徴的だとわたしは思っている。

今のわたしの主治医は「あなたは精神医療に期待していないでしょ」と一定の理解を示している風であるが、それに至るまでのわたしの道のりを話す機会はなかった。これまた大して論理的でもない。その程度で治療していると言えてしまうのである。そしてこれが大方において「当たり前」なのである。患者も医者も薬にたよりがちになる、この先に20年とも言われている精神医療の抜本的な発展がどう待っているというのだろうか。

この映画の原作の論文発表が1964年とのことだけれど、今の2022年の日本と大して変わらないことをわたしは一番嘆かわしく思った。

現状ではこの映画と同じように特に閉鎖病棟への入院は完全に管理されている。

終盤で「解放してくれ」と患者が言うシーンがあるが、それの必要性を倫理的に論じる時にはいつも、患者の希望ではなく他の地域住民や家族の都合や「倫理」に沿って決定される。場合によっては退院後の介護の関わりですら、本人の希望を重視しているといいながら、家族の都合を相当に考慮しなければならないケースも多い。そうやって、あなたは自立できない人、自立させてはならない人という洗脳が続いていく。

精神疾患のおおもとに、環境の問題が何より大きく関係するとわたしは確信しているけれど、ゆりかごも墓場もどんな環境の連鎖で守られるか、それぞれの人間関係を振り返るべきではないだろうかとわたしはいつも医療・福祉業界の方達に問題提起したいと思っている。ガチガチでなくてもいい、緩やかに自立した人間関係の営みが理想の社会像ではないかと。

本においてわたしが最も振り返って残念に思うポイントがあるとしたら、精神科をまず受診したことだ。これで「通院歴のある人」となってしまった。精神科を受診したことがある人とない人と何が違うだろうか。そう思う程度のはずなのに。ニュースで通院歴があるかないかは何のために言うのだろうか。

例えば骨折したことがあるかないかの情報も同じように扱うだろうか。

次に入院歴もある。基本的人権は一旦入院中となることで完全に奪われる。むしろ刑務所の方が暮らしやすいような精神科の病院はまだまだ世間的にもニーズがあるのと医療とがタッグを組んで実践されている。いつだって患者のニーズは後回しである。それほどに精神科医の持つ権力は大きい。結果的に治療方針を決めて実行できるのは医者だからである。患者は担いででも入院させられる。そして社会や家族という後ろ盾がそこには大きくのしかかっているのである。

わたしはさまざまな「障害」を持つ身であるが、とりわけその中で社会的にも対人としても一番不自由なのは精神障害の部分である。だから最近特に思うけれど、アイデンティティーもそこに一番大きく感じている。いつまでも変わらないひどく差別的な意識とは何なんだろうかと常に思っている。

物理的な面と倫理的な面、双方において不自由な時にでも、倫理的な不自由を強いられると人の心は簡単に壊れる。

そんなデリカシーを治療する側が理解することは非常に少ない。そうではないから医者なのだ。傷つきやすすぎたら医者ではおれない。でも患者からすると相当にガサツな人に治療されるのである。ある意味暴力的な構造であるために、主治医を誰にするのかは患者にとってとても重要な大問題である。時には受診にも勇気を伴う。

わたしには多くの精神疾患を抱える友人がいるが、この映画の登場人物のように誰もが嘘でしょと耳を疑うような人生を経験している。よく生きてこられたと敬服するような人生を一人ひとりが生きてきているのである。そこに敬意を払いこそすれ、電気ショックを与えるとはどっちが狂っているのか、何事かとわたしはいつも思っている。

これがわたしの精神障害者差別と断固決別するべきだと思う理由である。

現実にわからないことを怖がったり敬遠せず、興味を持って理解し合うための一歩を誰もが踏み出すべきである。間違えたら修正しながら、誰もが助け合える世の中であるべきである。

彼らの声に耳を澄まし、真っ当にその言葉を理解するべくその言葉を待つのだ。話さない人が悪いのでなく彼らを話せなくすることの無い努力をするべきなのである。これは綺麗事でなく、この世のヘドロを取り除く話である。

わたしがペラペラと自分の意見を喋ることで、意外だと言われることも多い。精神疾患の患者はうまく話せない人も多いからだ。

わたしの思う理由の一つは現存する悪徳な精神科病院では、治療という名のもとに患者の人権を奪い続ける。そうすると患者はだんだん言葉を失って所謂廃人となってしまうのである。

その根拠として以前の入院体験がある。

当時わたしが驚いた出来事は山ほどあったが、その一つに大部屋で同室になった方と仲良くなったことで当時の主治医に注意を受けたことがある。

「友達を作りに来ているんじゃ無いんで誰とも何も話してはいけません」といった主治医に

「ちなみにわたしは何をしに来てるんですか?」と」わたしは聞いたが明確な返答はなかった。その代わり主治医は

「人と話すのをやめないと薬を増やして退院を伸ばします。あなたが話していい人は僕か看護師だけです。」と言った。

「今後話すならどちらか一人を個室に閉じ込めます」とも。

意味がわからなかったが、いつもあまりわからないと繰り返すと本当にさらによくない待遇になるので無理やり黙った。これが「治療」だそうだ。恐ろしい空間だとおもった。

わたしはここはアウシュビッツだと思った。明らかに異常だった。

ある時、退院の日程が遅れていて、楽しみにそわそわいそいそとしている患者がいた。そこへちょっと長い休暇を終えた担当の看護師が現れて「まだいたんか、もういないと思ったのに」と言った。その看護師はいつも言葉遣いが荒かった。患者が「いい加減にそんな言い方をやめてほしい」と初めて泣いて怒った。その直後の朝の会議でその看護師は患者の主治医に具合が悪いようだと報告したことで格段に薬が増えた。数日後、ダンスの講師をしていた溌剌とした患者の姿と引き換えに、初老の女性がいた。見たことの無い人だと思って彼女は誰かと近くの人にわたしが尋ねたら、その患者だった。わたしは怒りで全身が震えた。でも周りの人たちが

「今話したらあなたもああいう風になる。だから早く退院することだけを考えた方がいい。一生出られなくなったら元も子もない」

そう一斉に言って怒るわたしを必死で引き止めた。

悔しかった。自分のベッドで布団をかぶって号泣したのをわたしは忘れることはできない。

何やここはと、地獄のようだと思った。何というところかと。それがわたしの地元の公立の精神科病院だった。小さな頃から、子どもが遊ぶ中で大きい声を出すと近所のおっさんに「あこの精神病院に掘り込むぞ」と言われたりすることで有名な地元の病院である。これが地域密着型とは聞いて呆れる。

後に入院の手続きをした当時の主治医(入院中の主治医とは別の主治医である)が病院の玄関に立っていて呼び止められた。

「今日で定年退職なので話したくて待っていた」

と言って

「ずっと入院中も退院後も辛かったでしょ。謝りたかった。本当にひどいことをした。間違いをしてしまった。入院なんてさせるべきじゃなかった、申し訳なかった」と頭を下げて謝った。退職前彼は院長をしていた。

退院後、すれ違う時にいつも腹が立って睨んでいたわたしにも気づいていたと謝っていた。

その姿を見て、この主治医はすごい人なのかもしれないと思った。謝れないおっさんじゃなかった。だから「だったらわかったからもういい、許すわ」とわたしは言って和解して握手をして、別の病院がいいと思うと言った主治医にそうすると言って別れた。

その元主治医は、割とすぐに亡くなってしまった。とても悲しくなったけど、いつも受診について思い出すのはその主治医だった。

福祉の制度も何もなかった頃、家族とも間に入って話をして理解が深まるようにしてくれた。良かれと思って出した薬が合わない時は申し訳なかったとまた考えてくれていた。

近所の大病院の内科で紹介状が精神科からでは見ないと診察を拒否されたときは、怒ってその病院の院長と話をして協力体制を整えてくれた。

あの主治医も賛否両論ある人だったらしい。でもわたしはとても人間味のある対応をいつもしてくれた人生の恩師だと思っている。結局、人間と人間でしかない、未来のわたしを待つ苦難を少しでも少なく済むようにと、道端の石を除けてちょっとでも歩きやすくしてくれるような医師だったと今のわたしはただすごく感謝しかないのだ。


そんな人間関係をわたしは本当に大切にしたいといつも思っている。

だから、その妨げになるものをわたしもちょっとずつでもなくしていきたいと思って日々を過ごしている。

そんな怒りや闘志や、悲喜こもごもをとにかく思い出させる映画だった。できればこの映画の患者がもし自分だったらと思いながら見てほしい、そんな映画だった。


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