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『家族を想うとき』はたして人権はお金で買えるのか。お金って何なんだ。

 




またしてもケン・ローチ監督である。

労働者階級における悲劇的な負の連鎖をリアルに描く事をとても得意とするイギリスの映画監督である。

『〜ダニエル・ブレイク』の時と大きく違うのは、この映画の中心となるのは一つの家族だということ。4人が主人公なのだ。

ちなみに邦題と少しニュアンスの違う原題は『ご不在のところ失礼します』というような宅配業者の不在票にある一文である。


父親は新しくフランチャイズの宅配業を始めたばかり、母親は訪問ヘルパー、男の子と女の子がいる。出だしの父親が始めようとしている事業の説明を受けているところからいきなりめちゃくちゃ胡散臭い。あまりにも条件が良くないのだ。

父親にはマイホームの夢があり、結局その危なっかしい職業に就いてしまうのだけど、それもきっとそれだけではないのではと想像がつく。失業率は相変わらず改善しない。

今、日本の社会における貧困問題が表面化、日常化してきていることでより彼らの苦悩が身近に感じられることもあり、わたし自身ケン・ローチ監督の作品は立て続けには見るのがあまりに辛すぎるので、よちよちと見ている。

それで最新作であるこの作品を観るにあたり、しばらくわたしは躊躇していた。家族の映画というものに身構えてしまう癖があるからかもしれない。わたしには家族というものがあまりにもわからなさすぎるからだ。

この映画は家族の映画というよりやはり社会問題の映画だった。社会全体にまだまだ人権などという考えが共有されているとは言えない現実があること。

お金で人権が買えると言わんばかりに、貧すればブラックな仕事に耐えるものという新しい基軸で回る社会が現れてくる。

既存の法に則った人権意識ががただの理想でしかないと思い知らされるのはいつも貧しくなった時であり、切羽詰まった時であり、またそのような人にのみ開かれる人権のない社会というものが別個に存在することが、悲しいことに共有されているのもこの世界の常識なのかもしれない。

わたしは社会的弱者という表現を自分を形容するために使いたいとは思わないのだけれど、この世の中はあえていうなら「社会的強者のための社会」が「社会的弱者のための社会」を支配し差別する構造になっていて、かなりくっきりと二分化されてしまっている。しかも強者の社会にいる人は時に弱者の社会の出来事を知らない。その逆においてもそうではないだろうか。

では、金があることがとんでもなく素晴らしいことか、といえばこれまた恒常的な金持ちというものは特に金と家族が絡むと非常に浅ましくなる。まぜるな危険、である。

お家騒動みたいなものや後継的な問題は、金がなければ起こらない。

つまり、結局のところ、お金があってもなくても人やその関係をダメにするのではないかと思うに至った。

それで改めてお金って何なん????という迷路に落ち込んでしまったのだ。

便利なツールのはずがあまりにも翻弄されすぎではないのか、人間よ。

お金持ちじゃないわたしがいつも思うのは、そんなにお金は回っていないぞ、何やら上の方でしか回っていないぞ、ということ。少ないお金しかない弱者用の社会ではその取り合いで、椅子取り競争みたいな弱肉強食が展開されており、そこにわたしのような障がい者の身を置くところはないに等しい。結局いつもアウトサイダーだなあと思い知らされるのである。

妻で母親のアビーがヘルパーとして訪問するのは日本と変わらない人たちの家である。支援の制度的な行き届かなさも非常に似ている。雇用条件の特殊性もほぼ同じである。そのシーンのいちいちで、当事者がこうしてくれたらいいのに、ということをやんわりと断る姿はとても他人の家のシーンとは思えないリアルさがあった。そこの空間にもやはりそこにはいない強者の支配が見える。制度はどうしても社会的強者が作り、彼らの支配したいようにできている。そこに現場の弱者の声が届くには遠すぎるのだ。


話は変わるが、そもそもわたしは人生においてゴールをあまり重要視しない。そこへ至る道の「途中」という感覚がとても好きである。

いかにその途中でたくさんのことを知るか、感じるかが大切だと思っている。

この映画の途中、夫婦の会話で父親の「どうしてこうなったんだ?」という台詞がある。

一生懸命生きているだけなのに、どうしてこんなことになるのだということはわたしにもしょっちゅうある。どこで間違えたというのか?何がいけなかったのか?…

ただあまりにもいちいちの場面の知識のところで無防備すぎた。その知識を得る機会がなかったということなのだろう。その度学ぶしかないのだ。

知識は時にとても有効なツールになる。災いを避け、失敗を防ぐ。成功への勇気にもなる。

リッキーやアビーは日々の生活に必死でしかないのかもしれないけれど、知識を得ることは彼らには何より必要だ。子どもたちにももちろんのこととして。

そういう意味において、この家族もその悪運を乗り越えるパイオニアである。

その先にある幸せを絶対に掴み取るものたちであると信じて足掻くのだ。

その途中で漠然とした不安にも立ち向かえるものを今後身につけてほしいとおもった。

金と違う「知識や経験」を武器にして、いつも強くしなやかであってもらいたい。

だから彼らもきっときっと乗り越えると信じたいと強く思った。

そう信じなきゃやってられない映画だった。



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