正しいと間違い、善と悪、そう言う対比を語るとするならば、よく映画やドラマのセリフで
「わたしは正しいことをした」ということをいうセリフがいつも引っかかっていた。
なんだその言い回しは?とニュアンスがわからなかった。
このドラマでもそのセリフは出てくる。
しかし、今回は納得した。わたしは彼女に共感していたのかもしれない。
大抵その「正しいこと」は大いなる葛藤の先に導き出されるものなのかもしれない。
やたらと女性問題の多い議員の妻、その裁判の検事、一般的にはそこの意識が必ず違うとは限らないが、このドラマでは夫が議員というのがミソなのかもしれない。そのせいで、議員の妻は受容し難いような屈辱にも耐えなければならなかったため、裁判にも出席し、イメージアップを信じて夫に協力しようとした。
現実的にはどうなのだろうか。彼女は夫の何を信じていたのだろうか。権力なのかお金なのか、はたまた芋蔓式に連なる自分の立場か。
夫の弁護士も女性だが、検事も女性である。
きっと裁判が始まる段階から妻も含めて3人からその夫への思いはある部分で共有されていたのだろうと思う。
しかし細やかな話である。男女の性暴力事件であるが、被害者の証言の「はじめは良かったが途中からやめて欲しかった」と言うことが争われた。
日本ではおおよそそこまで議論すらできないであろう、繊細な心の機微である。
しかも夫の暴力性も不愉快である。わたしでもただの勘として「こいつはあかんやつ」と頭の中で警告が鳴っていた。
「いやよいやよも好きのうち」という恐ろしい言葉がある。そしてアホな男はこれを信じている。
そもそも女性の気持ちについて週刊誌のような知識では頑張ったところでその程度である。
相手が自分と同じ人間であるという「事情」をどのくらい人が許容できるのか、それが人間関係の基本にもかかわらず、このえげつない爆弾のような誤解に基づく理屈を持ち込むことで全てが破壊される。他のことが対等であるのに、この件だけそんなに男性のわがままが通るわけがないでしょと言いたい。
相手を尊重すること、敬意を払うこと、多くを許容しながら理解し合うこと、それが心地いい関係の基本だと思う。
でも違う優先順位の軸で生きる人がいる。
その違う軸の人とわかりあうことを積極的に楽しみたいとわたしは思うのだけど、実はそのあたりから相手に拒絶される事も多い。
オッサンの社会はわたしが思うより他者との違いを認めない。
それが息苦しくてたまらない。
確かにジェンダーの問題ではある。
男性優位の歴史の上でオッサン気質はオッサンに多発している。たまに女性にも発症が見られるけど、権力との兼ね合いもあるのでわたしの身近にはあまりいない。国会あたりにはたまにちらほら。
アメリカの判事、ルース・ベイダー・ギンズバーグが朗読した一文「女性を優遇してくれとはいいません。男性の皆さん、私たちを踏みつけるその足をどけて」というそれだけのことがなかなか達成されない。
あなたわたしを踏んでますよ、と言われてもなお踏み続けるオッサンの傲慢さを、意図せずわたしはいつも刺激してしまうのでたいていとにかく嫌われる。
でも踏まれてる側としては仕方ない話である。踏んでる人に合わせることのバカらしさに辟易するけど、あまりにも怒るのでバレてるよとは指摘しないようには心がけている。
オッサンはとにかく気を遣われるのはいつも自分の方だと思っているので、付き合わされるわたしどもはとにかく疲れる。
だからオッサンたちよ、そんなことを続けているといずれ山ほどの藁人形を打たれることになるのではないだろうかねえ、とうっすら心で脅してみるのだった。
このドラマの彼女たちは、それなりの藁人形効果をもたらした。正直それなりに爽快だった。その点においては一種の予定調和とオッサンに揶揄されたとしても女性は観る甲斐があるかもしれない。次の藁人形打ちに向けて。
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