スキップしてメイン コンテンツに移動

「マルモイ ことばあつめ」 わたしの細胞は何でできているのだろうか





言葉というもののありがたみは、じわじわと気づいていくものだ。その的確さ、私たちの場合で言うところの日本語というものの素晴らしさ、そこから起こる日本人である自分へのアイデンティティー、それもこれも言葉から起こっている気がする。

そしてその言葉自体の意味は、使う人の価値観によってどのようにも変わる。

そんな曖昧なものを曖昧にすることなく解説した文章の集合体を辞典というのだと思う。

そして、忘れてはならないのはこの映画で、韓国の言葉を守る人たちと奪う人たちがいて、その後者が日本人だということである。

今の日本の政治がいわば腐りきってしまったことの大きな要因に、歴史認識の改竄と情けないほど幼稚化した政治の力があると思う。腐った鯛の成れの果て、である。

わたし自身いつも役所の人たちと話して思うのは、そのあまりに幼稚な論理とも言えないほどの屁理屈である。正直言ってこんな理屈でこの地区をなんとかできると思っているのかと嘆かわしく思うくらいしか後には残らない。


生活の中でたくさんの言葉が通り過ぎていくときに、どうしてもうまくやり過ごせない言葉が、心に引っかかる。つまりわたしも傷ついているのだ。一生のうちに癒せる量の傷ならいいんだけど。細胞まで破壊されてきたのかもしれない。

長い間、気にしないふりをしてきたこともあり、うまくやれていると思っていた。でも、気にしないふりをしても傷は治らない。じわじわと悪化することはあるけれど。

わたしは3歳の時から京都市の近郊にあるU市にそれはそれは長い間住んでいた。

そして福祉サービスの利用もそこでスタートした。

そこで、いくつかの関わりのあった団体との会話における言葉を通して、物理的にも金銭的にも精神的にも簡単には癒せるわけのないほどの傷を受けてきた。

わたしの部屋を散らかしたので片付けると言って遺品整理の業者をよこし、その多くを廃棄してしまった通所施設もあった。生活必需品の何もかもが無くなった。布団や衣類、日々の着替え、何もかもである。困って購入し補填に充てた費用も補償しなかった。そこの団体は地域行政や関係各所に厳重に守られたため、わたしがその被害をそのまま受けることになった。わたし自身では支払いができず結局裁判にまで話が進んだ。裁判所にはヘルパーさんだけが付き添ってくれた。

その後、役所の担当者たちがわたし本人不在で話し合い、ある日役所から電話がかかってきてきた。「あなたの今後について決めました。U市ではあなたにできることは何もありません、障害も重くなられそうですがここにはその支援のできるところもありません」と通告された。

そしてわたしは京都市に引っ越した。引っ越す時に金銭の管理をお願いしていた団体から「実は借金を作ってしまいました」と告白された。何をしていたのだと思った。

その一連の出来事にかかった数年弱の間、わたしがどれほど嫌な思いをして耐えたのか、誰がそれを助けてくれようとしたのか、でもどうしてそうなったのか、もうわたしにもわからない。ただその街が異常なところだということだけしかわからなかったが、引っ越し後、わたしは全く後ろ髪を引かれていない自分に少し驚いていた。これほど思い入れがなかったとは、という自分への驚きである。そこにいた数十年はわたしの人生の大半にも関わらず何にもなかったのと同じとは、と思うや否や何にもなかったんじゃなくて嫌なことがあまりに多すぎたこと、それが真実だからだと思ったのが結論になった。

他者の人生を奪うこと、それは言葉を冒涜することから始まる。相手の語る言葉を必要としない。

歴史を振り返っても、大国が他国を支配するときは土地と言葉を自国仕様に塗り替えるところから始まる。

日本もその一つで歴史的に非常に図々しい振る舞いで多くの国を冒涜してきた。

しかも最近そのこと自体を誤魔化そうとする動きまで起こっている。相手のあることに加害者側がシラを切るわけにはいかないにもかかわらず、である。

この映画のレビューを見ると「抗日」とかいう感想があったりする。そういう方々は人権というものの捉え方がおかしいことが多い。まず自分のアイデンティティーを主張するというなら一人ひとりの人権についてもセットで考えないと、きちんと理解したことにはならない。

以前から思っていたが、日本の文化とアイデンティティーという概念は非常に相性が悪い。

一歩外国へ行くと、日本代表だったかと勘違いするほど「一人の日本人」としての自分の意見を求められる機会が否応なく起こる。そういう価値観は日本にいるだけではなかなか意識することも少ない。そのせいか人権意識も真っ当に共有できない。共有ということそのものも下手くそである。家族だとか町内だとかいろんな小さなコミュニティにあまりに自分を蹂躙されすぎている。あちこちのムラ社会の理屈に翻弄されて疲弊しているのだ。そして知らない間に自分の大切なものを失っても平気なので、余計に人の大切なものに無頓着なのである。

他人の大切にしているものを大切にするのは福祉の基本にも関わらず、人間関係の基本にも関わらず、である。

先ほどのU市にいるときにわたしが「そのようにされると人権侵害ですよ」と幾度かいう機会があったがその時の返事に驚いた。

「人権、人権って言いますけど僕の人権だってそんなにちゃんとしてないんですよ。あなただけそんなふうに言わないでください」

何を言っとるんだと思った。この程度の人権意識が蔓延していた。オッサンとは恐ろしいことを平気で口にする癖まであるから迷惑である。それが福祉サービスの上役がいう言葉かよ。

そういう意味で日本は社会的な進歩をいつからか放棄した挙句、立派なディストピアとして仕上がったのかもしれない。

そしてその設定は今後いつまでもわたしと折り合うことはない。政治というこの国の設定を考える人にわたしの言葉は届かない。聞かれもしない。

そうやってわたしのような当事者の声を届けるチャンスはいつの間にか無くなってきた。チャンスを奪われたわたしはいつもここでは大丈夫なんだろうかとどこでも不安になる。なぜなら障害者はだんだん生きることが難しくなりつつあり、それを実感するたびに「もうすでに排除されているのかもしれない」という大きな疑念に包まれるからである。

せめて生きる上で安心くらいさせてもらいたいと思うのだ。

この映画においてわたしは圧倒的なほどに加害者側の人間であるが、今の日本社会の設定においてはわたしも踏みつけられる被害者だと思うと恐怖である。

ここ京都はとりわけ保守的であり「排除」の理屈が優勢である。

何かと排除されないようにしがみついている気がするたびに、本当は当然の人権のもとでその一歩先に進みたいのに、と残念でたまらない。

いつまでも「健康的」で「最低限」以上へとステップアップできるような福祉サービスは作られないのだと思うと、わたし自身の可能性があまりにも矮小化されてしまって悲しくなるのだ。

色々とヘイトに騒がしい方々はあっちへ行けこっちへ行けと言いがちだけれど、我々障害者に対しては今度はどこへ行けと言うのだろうか。

行けと言われて行くところなんてわたしにもないし、他の障害者にも、当時の韓国の方たち、今の韓国の方たちにもないのだけれど。

やっぱり共有するという概念って平和のために不可欠だと思った。


コメント

このブログの人気の投稿

メディアの沈黙と、歪められた現実:ジェンダー問題報道の闇

  日本のメディアは、ジェンダー問題を歪曲し、隠蔽する役割を果たしている。 長年、男性中心の社会構造が根付いた結果、メディアもその構造を反映し、女性や、マイノリティの視点、そして、被害者の声を無視する報道が繰り返されている。 これは、単なる報道姿勢の問題ではなく、社会構造そのものの問題である。 特に、性犯罪や、セクハラといったジェンダー問題において、メディアの偏向報道は顕著である。 被害者の証言は軽視され、加害者の言い分が強調される。 被害者のプライバシーは、まるで公開処刑のように晒される一方、加害者のプライバシーは、徹底的に守られる。 この不均衡は、メディアが、男性中心的な価値観に染まっていることを示している。 例えば、中居 フジテレビ事件を報道したケースを考えてみよう。 報道は、加害者の地位や、権力に焦点が当てられ、被害者の苦痛や、損失は、ほとんど「人権への配慮」という言葉によって無視された。 加害者側の釈明は、詳細に報道された一方、被害者の証言は、断片的にしか伝えられなかった。 この報道は、視聴者の共感を、加害者へと誘導する効果があった。 結果として、被害者は、二次被害に苦しむことになった。この場合の二次被害ということについては前項を参照してほしい。 これは、単なるミスや、不注意ではない。 メディアは、意図的に、ジェンダー問題を歪曲し、隠蔽している。 視聴率を上げるため、あるいは、スポンサーの意向に沿うために、事実を操作したり、都合の悪い情報を隠蔽したりする。 女性や、マイノリティの視点、そして、被害者の声は、都合が悪いから、無視される。 この男性中心的な報道姿勢は、社会全体に悪影響を与えている。 女性や、マイノリティは、声を上げにくくなり、ジェンダー不平等は、ますます深刻化する。 メディアは、社会の鏡であるべきだが、日本のメディアは、その鏡を歪ませ、社会の病理を隠蔽する役割を果たしている。この場合のメディアというのはテレビや新聞のみならずネットメディアというものですらそうなのだ。 メディアの改革は、この社会全体の改革に不可欠である。 ジェンダー平等を実現するためには、メディアも、その責任を自覚し、女性や、マイノリティの視点を取り入れた、公平で、正確な報道を行う必要がある。 そして、私たち市民も、メディアの報道内容を批判的に吟味し、ジェンダー平等に対す...

おっさんと揉めながら生きる〜嫌になるけど楽しい毎日から〜

まず私はおっさんによく嫌われます。あらゆるところでおっさんに嫌われるんです。実はおっさんはあらゆるところにいるんです。 例えば私は嫌なことは嫌だと言います。 生活保護の窓口で、こう言うことを言われたことがありました。 「自己責任で全てやってください」 わたしはこう言いました 「生活保護というのは政策として重要な公助の部分をになっています。それをやっているあなたが自己責任で全てやれというのはあなたの業務そのものを冒涜していることになりますけどいいのですか」 意外と私、そういうことも言いますのよ。そんなアホみたいな話があるかと思ったんでムカついて言ったんです。黙ってられるかいな。アホくさい。 そうすると生活保護の上の方のおっさんに嫌われるのです。 こういうふうに言い返す生活保護受給者はいないと彼は思っているんです。なめたらあきません。そういう偏見のある職員のことをおっさんと私は呼ぶのです。いるでしょ?そういうおっさん、あちこちに。 もちろんその上の方のおっさんであるからと言って空気は読まないです。彼は私の上司ではありませんし。 私はいつも意味のないおっさんの意見に振り回されず、その説明もしっかりとしますし求めます。この時のように。 おっさんは私を馬鹿にしたいみたいですけど、私はおっさんを嫌いなだけで馬鹿にはしていません。アホみたいなことを言うなあと思っているだけです(笑) 私は障害者で生活保護を受けて生きていますが、結構そういう生活を工夫して楽しんでいます。お金がないなあということが多いのは事実です。だから野菜を育て始めました。そしたら面白くてハマっています。 こうやって面白そうに暮らしているのがおっさんには嫌みたいで嫌われやすいです。実際に近所の何かしら不自由が生まれてきたようなおっさん、例えば近所に住む、定年になってやることがなく怒ってばかりのおっさんにも嫌われましたし、支援を受けることなく糖尿で透析に通っているおっさんにも嫌われました。どっちもD Vっぽいおっさんでしたわ。 私はおっさんが何かを我慢しているから私にも同じく我慢して苦しめと言っているように思います。 でも私はそうしません。やることもいっぱいあるし、考えたいこともあるし、支援も受けています。そうやって楽しく暮らせるようにしているのです。全く我慢がないとは言わないけれどそれを少なくする努力をしているとい...

ヴィーガンに貧乏人はいない

  環境問題について、昔からずっと思っていることがある。 その理論の基本はわたしたちが住む地球のすぐ先のこれからについてのものであるから、あくまでも全人類が自覚的にしかも早急に取り組むべきなのだという、重大な問題であるという。 しかし、ここ日本だけでなく、どんなに自然災害を体験しても、目撃してもそれが普遍化することがなかなか起こらない。懲りたと言う人たちでこの世の中は溢れていくのに、なぜそういった感覚にならないのか。そういった運動につながらないのか。 特に日本において、自分の身に起こる不幸は、自分や身の回りの誰かのせい、と言う程度の認識に収める人がほとんどである。そのうちの特に多数の人たちは、たとえ自然災害ですら自分のせいのように考えてしまう。被害の跡をなんとかできない自分たちの資本力のなさのせいだと考えたり、時には先祖への弔いをきちんとももっとすべきだったなどと考える。場合によっては、自らがいかに悲惨な状況下にあっても、遠方の家族に世話になることを申し訳なく思って拒否する例もあるだろう。 そういった社会において、環境問題を普遍化することは、非常に困難である。 一つは今述べたような、さまざまな問題に出会った時に、それが環境に起因する問題であるという認識を一人ひとりが持つように社会的にできていない。これは構造的な問題だけでなく、文化的な背景も大きいとわたしは考えている。 ことに日本において、環境問題の被害者になることは、ただの運に過ぎないことの方が多い。 そしてその被害者は悉く社会的に貧困層として存在する。 たとえばドイツの財政難は、環境保護対策に様々な形で影響を与えている。 以下、簡単にその考察を述べる。  ドイツの財政難は、環境保護対策に深刻な影響を与えつつある。  再生可能エネルギーへの投資減少、原子力発電再稼働議論、環境規制緩和圧力など、様々な課題が浮き彫りになっている。  これらの課題に対処するためには、持続可能な経済モデルへの転換、国民への丁寧な説明と合意形成、国際協調の強化などが不可欠です。  短期的な経済的利益と長期的な環境保全のバランスをどのように取るかが、今後のドイツの環境政策の成否を左右する重要なポイントとなる。 もうこのように、環境問題というのは厳しすぎる現実にぶち当たっている。 現実といえば、貧困層の人は...