はっきりと後味悪い映画である。
大御所の男性作家と元助手、もう一人の作家、こちらは作家希望だった男性、この3人と周りの人たち。この3人の10年以上にわたる物語。
軸は家族の死である。
あと、復讐についてどう考えるか。
アルゼンチンの映画で始終聖書に基づく価値観が出てくる。特に旧約聖書の方が。
元助手ルチアナは、牧師の娘で真面目な女性。
まあまあな大家族で和気藹々と暮らしていた。
それに対して大作家クロウリーは妻と娘の核家族で、どうも妻が神経質すぎるなあというくらいから物語が始まる。
きっかけはセクハラで訴えたこと。それのせいで家族が一人ずつ殺されていったというのがルチアの主張である。
この大御所は困ったオッサンで、何を自慢したいのか聖書を自分の「復讐心」の当て馬のように使う。
わたしも牧師の娘で小さい頃からまあまあ聖書を読む機会は多かったし、その話はとても身近だった。
でも、あれほど都合よく読めてしまえる書物も他にないなあと今も思う。ある意味矛盾に満ちていて、TPOに合わせて何とでも使える。
しかもそこには、縋り付くような思いで信仰を求める多くの人たちがいた。
わたし個人は、聖書というかキリスト教のモットーは「赦し」というもので、とても好きな考え方だと思っているのだが、それに対して旧約聖書の主は神でありちょっとパワフルなキャラでありまあまあ矛盾するようなことになっている。
それが「復讐」なのかもしれない。
困ったことだ。
それでそのような本来非常に個人的な思いに過ぎない「復讐心」を、聖書という武器で裏付けようとするのだ。
つまり、「神がわたしにそうさせている」という理屈である。
わたしの生育環境がかなり暴力的であったが、そこにもいつも両親だけでなく「神」が存在した。
「お前がちゃんと育つようにする義務がある。なぜなら親は神から預ったんだから」
「神はいつも見ているんだぞ。何もバレないと思うな」
「うまく育たないと神に顔向けできない」
だから、先ほどの復讐についての件をこの映画で語られているのを見た時も、そうなんだよね、この手の人はそう思うんだよね、とある種の納得をしてしまったのだった。
たとえ神に託されたとしても、所詮親は人間だ。
にもかかわらず、神の制裁を実行することを躊躇しない人がいる。
何様なのか。もう一度いう。何様なのか。
それがいつも疑問だった。
そんな神だったっけといつも疑問だったが、口にすることはいつもできなかった。
ま、「自称神」のオッサンほどどうしようもないことはないのではないだろうか。
そんな気分でこの映画を観ていた。
そんなきっかけがこの映画では家族の喪失であった。
喪失の苦しみはいつも耐え難いものだ。
わたしは多くを失ってきているが、いつも喪失ははずば抜けて太刀打ちのしようもない落胆と後悔だったので本当に苦しかった。
今もその辛さは心にずっとある。
母が亡くなった時にわたしは家族も同じように失った。
わたしは母を失った気持ちを家族と共有できるかと若干不安であったが、やはりいつもよりさらに攻撃的になっていた他の家族は、わたしにその死の責任を負わせて非難し続けてきた。
喪失の苦しみはわたしも理解できたが、それを誰かのせいにしたくなかった。本当にそうしたくなかったから、彼らを遠ざけるしかなかった。そうやってわたしの家族は崩壊した。
だから母の死と家族の崩壊はわたしにとってセットである。
それを思うと今もとても辛いのだけど、わたしは神の力を駆使するつもりもないし、そんな力なんて持っていないただの人間でしかない。
でも、ルチアナはわたしだったかもしれないと思うと、この後味悪い映画はわたしにとって非常にリアルだった。
大御所作家は、まるであばれるオッサンだった。
オッサンは、そうっと遠ざけておくことで回避できる距離にせめて止まってほしい。
そうでないと、こちらが怪我をする。
体も心もバラバラになるのだ。
そういう意味において、この映画の結末が後味悪いことまでリアルだったのを納得してしまった。
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