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「さがす」 こういうことなの? 社会の底辺と波瀾万丈は鶏と卵


 


腹が立つ。またこの手の話かとも思うし、そんな映画をAmazonにお薦めされてるじぶんに対してもだし、もちろんこの映画の中身に対してもだし、そんな中身の映画にいつも止まる日本映画の一種の限界に対してもだし、腹が立つ。

石ころをその数だけ並べて蹴飛ばしまくりたい。

はっきり言えば、何をどうしたいねんと。お金の問題なのか、福祉政策なのか、生死の倫理の問題なのか、犯罪か。政府か。

こねくり回しすぎて脳みそは今無茶苦茶である。

確かにいつもわたしも現実がカオスだとは痛感してるが、結局なんやねんとイライラしてることを思い出したでしょ。

ひどい映画だと言いたいわけじゃない。問題てんこ盛り、リスク死ぬほど、そんな環境はなぜに?ということなのだ。現実が。ラストで登場する『正義』だけど、それほど『正義』じゃないことはもう観客には伝わってる。

だからこれをお薦めされてAmazonの口車に乗ってみたことそのものに腹が立つのだ。わたしもそんなことでお薦めありがとうというようなチョロい人間じゃないよと。えらい見くびられたもんですな、と。寝ていた子をしっかり起こされた。そんな苛立ち。

あと、貧困や福祉は確かになぜか犯罪との親和性が高いのかもしれないけど、そこの丁寧さを欠けばこういう「どうせお金なんでしょ」みたいな『正義』になってしまう。それぐらいにたった一人の中での『正義』はショボい。


結局社会的に苦しみながら生きるわたしみたいな当事者の人たちはこういう映画をいつもどう思ってるんだろうか。

よく考えたら、そんなことを語り合うようなチャンスも今まであまりなかった。

我々当事者にとって、福祉も貧困も、障害も「ネタ」じゃない。生きる目的でもない。日常なのだ。日常であるからこそ辛いこともあるし、日常であるからこそ社会保障制度になっているのだ。これは、非常時でも異常時でもない。このことが、一般的にわかってもらえるならいいのだが。

えげつないストーリーだが確かに繋がりも変じゃないし、むしろスムーズだ。

「社会の底辺を苦しみながら生きる大阪の父と娘。彼ら人生をのジェットコースターサスペンスで」のような違和感。

あ、そうそう、大阪の下町にいきなりUSJができた時のような違和感。

USJは好きだけど、ここで?みたいな慣れなさと、違和感に基づく不思議さと。

でももう当たり前になった、ということは、本当にこれからはこんな映画の時代になるということなんだろうか。福祉や貧困は、USJほど注目されてないのに?


わたしは日本映画にはとにかく日本のモラルの意識を考えさせるものを求めたいなと思っている。福祉だろうが何だろうがそんなに完璧でもない法を、闇雲にありがたがる日本社会の気持ちもわからない。その前に人と人の間のマナーから倫理、モラル、そんなことをどう捉えるのかをいつも感じたく思っている。


ずっとわたしが生きる上で抱えてきた違和感、それに興味なんて誰が持ちますか、持たなくても支援したければできてしまうのに、と当事者なら思うことはよくある。でもそれすら当事者が「解説」しないといけないのだろうか。考察してもらうために?わたしが生きるために?


わたしたち当事者はサービスを受けるためには、そんなにサービスする側の人たちに「理解していただくための努力」が必要なんだろうか。疲れるんですけど。せめて毎日この身を削り続けてコミュニケーションしていることのリスクだけでも理解してほしいのだ。最近、以前から色々と考える機会があったこの問題を引っ張り出して気付けば、また考察している。

ああ、ほんとに。答えのないことを一人で考えるのはつくづく嫌になるなあ、とか思いながら。




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