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10月, 2022の投稿を表示しています

『モーリタニアン 黒塗りの記録』 恐怖をも赦せたならヒトは進化するのかもしれない

毎日毎日、時間さえあれば映画や海外ドラマなどを見ているわたしであるが、見ていて辛くて泣けてくる映画というのはそうそうない。 主人公の境遇がいかに悲惨かをどんなに丁寧に描かれても、人間ってどうしてこんなに愚かなのかと深いため息をつきながら泣けてくる映画は一年にどのくらいあるのかと思い出すのも難しいほどになかなかないのだ。 しかしこの映画は辛かった。実話だからもちろんだけれど、単に被害者に同情するのみでなく、ヒトという生き物の限界を見せられているようにも思えた。えげつない描写が続くのだけれど、そのリアリティにこの映画の説得力があるので、わたしもヒトの端くれである以上どうしても苦しみながら見るべきなのだろうなと思いながら見ていた。 ほんの少し前、世界は収容所の悲劇を見て学んだはずなのだ。 「正義」というもののちっぽけさと、人の命の尊さについて、もっと真摯であるべきだったと学んだはずなのだ。 ドイツという国が第二次対戦後「贖罪」を国家として行うことを決めてきたのだけれど、それはいつ終わることではなく今後ずっとドイツ国民が背負うべきものとしてきたことにわたしは意義があると思ってきた。 過去の精算はドイツの今後ずっと担い続けることという考え方にいたく感銘を受けたのだ。 でも、敗戦国だからこそできることなのかもしれないと思えば、その戦勝国は同じ過ちを繰り返しかねないとも言える。 そもそも世界規模で、もちろん日本もであるが真っ当な戦後処理に取り組むことなどできようもなかった。それが現時点での事実なのかもしれない。 「わたしにはわたしにできることしかできないので」という奇妙な言い訳が最近巷に溢れているが、あなたが思うほどあなたのできることは小さくも少なくもない。 結局自信がないくせに大きなものには飲まれる。その大きなものをより大きくすることに自ら加担しながら、知らなかったことにする。それよりできることを少しでもしていればあなた自身を救うことになったかもしれないのにと思う場面もある。もちろんわたし自身についてもそうだけれど。 そんな場面は今の社会に山ほどある。 わたしはそれが失敗だった時に、ほんの少しでも加担したことに辛く思いたいとは思わないから、自分の考えを持とうと努力することにしている。 それがわたしのわたしに対する、社会に対する責任の捉え方なのだ。そうやって努力するのがわたしがヒ...

Nike / Dream Crazy (United States) コリン・キャパニックとは? ひとりの人生から大切なことを知る

アメリカンフットボールというスポーツはろくに知らないが、その選手が人種差別に抗議して国家への起立を拒否することの重大さはなんとなくわかる気がする。 それをやってのけたコリンキャパニックという選手の半生を描いたドラマをNetflixで公開している。 それがとても面白かったのでこのナイキのCMと合わせておすすめしたい。 コリン・イン・ブラック・アンド・ホワイト Netflix まず、何より彼にとって大きいことは、彼の両親が白人であったということではないだろうか。 そこではもちろん人種的な差別があるわけではなく、それなりに家族として仲良く暮らしているわけで、お互い勝手がわからないことももちろんあるには違いないが結局うまくやれる家族という空間が彼にはあったという大きな前提があった。 差別の元となる『人種的な分断』がない空間で育った彼には、社会で「黒人であることによる差別」に出会した時の理不尽な思いが、諦めきれなかったのだろうと思う。 若い時に彼の母親が、コリンをクールなヘアスタイルにさせてあげたく思い、その結果「コーンロウにしてくれるところ」を探してたどり着くエピソードはとてもうニークであるとともに素敵な話だと思う。こういうひとつ一つのエピソードがたくさん出てくる。 そういう彼の育った土壌は彼に独特の視点をもたらしたと思う。 彼にとってきっと白人は敵ではなかった。ただ他人との関係でわからないことがあってもそれをお互いに知ることで解決できるという実績があったのだ。 母親の一々の場面での戸惑いまできちんと描かれているけれど、それが「我が子の成長」に対するものなのか、「黒人である我が子」への戸惑いであるかは一々言及されないままである。 ただ、社会的に彼が生きにくい時には両親が影になり日向になり彼を支える。その丸ごとの抱えっぷりにはすごいなと素直に尊敬した。そういうのを親の愛情と言うのかもしれないなと思った。友人もとても素敵な人ばかりだった。 そして、よく学ぶ彼の姿勢ものちの活動家としての人生にもたらすものは大きかったと思う 。 本来社会のスタンダードはひとつであるはずである。そこにはあらゆる多様性を包括した大きなスタンダードが存在するべきなのである。 しかし、明文化されないような「分断」を持ってダブルスタンダードにする。トリプルでもなんでもいいが、それを超えて被筒にしようとするも...

「137発の弾丸」 決してこの憤りに慣れてはいけない 

クリーブランドで起こった警官による黒人の殺人事件についてのドキュメンタリー。 非常に、このクリーブランドというところはこのような事件が多いところであるが、この場合、一台の車を13人の警官が取り囲み、137発の弾丸を打ち込んだというから、一体全体どうなっているのだと立ち上がる地元の人たちと警官との緊張も深まった。 一事が万事、とにかくアホばっかりなのですかと言いたくなるような話である。 のちの裁判の時によく使われる表現である「拳銃を持っていると思った」などという勘違いなど十分訂正できるだけの時間もマンパワーもあった、にもかかわらず、途中から目的は「やつを殺せ」に変わってしまっていたんだなと思わせる展開であった。 取り調べで「味わったことがないほどの恐怖だった」と自白して「記憶がない」と涙ながらに言っていた白人警官(のちに彼のみが起訴されることになった)は、ボンネットに乗ってまで弾丸を打ち続けたという一つの事実まである。 流石に、どこがやねん、ふざけるんじゃない!と取り調べていた検察や裁判時にもにかなり呆れられていた。 現地ニュースより 日頃から、こういった事件を知るたびに、白人警官のあまりに攻撃的な振る舞いを思うと一体何がそこまでの行動をもたらすのだろうかと想像をして見ることが多いのだけれど、差別もさることながらきっととんでもない恐怖心もあるのだろうと薄々思っていた。 そうでなければ、あまりに凶悪な「仕事」のやり方への整合性がつかないからだ。 この映画でも、かなり弁護士からの指示もあろうかとは思うけれど、関わった多くの警官はのちに「味わったことのない恐怖だった」と口を合わせて言っている。 「軍隊以上だった」とまで言わせているので、もちろん殺した方が言うなよと思うが、あながちその気持ちが全くなかったわけではないとやはり思うのだ。 その恐怖の根拠はなんだろうかといつも思う。 「黒人と聞けば殺しておかないといけないような気持ちになってしまうほどの恐怖心の根拠」とは。 大体、好きとか嫌いとかで対象を殺してしまわないとならないほどの恐怖なんて根本的に人間に向けるものではないだろう。 そんなことばかりを言い逃れようと言う警官に黒人のラジオDJは「そんなに怖いならパトロール警官には向かないから転職しろ」と言っていたが同感である。 一体警察の採用基準はどうなっているのだろうか。なぜこ...