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『モーリタニアン 黒塗りの記録』 恐怖をも赦せたならヒトは進化するのかもしれない



毎日毎日、時間さえあれば映画や海外ドラマなどを見ているわたしであるが、見ていて辛くて泣けてくる映画というのはそうそうない。
主人公の境遇がいかに悲惨かをどんなに丁寧に描かれても、人間ってどうしてこんなに愚かなのかと深いため息をつきながら泣けてくる映画は一年にどのくらいあるのかと思い出すのも難しいほどになかなかないのだ。
しかしこの映画は辛かった。実話だからもちろんだけれど、単に被害者に同情するのみでなく、ヒトという生き物の限界を見せられているようにも思えた。えげつない描写が続くのだけれど、そのリアリティにこの映画の説得力があるので、わたしもヒトの端くれである以上どうしても苦しみながら見るべきなのだろうなと思いながら見ていた。

ほんの少し前、世界は収容所の悲劇を見て学んだはずなのだ。
「正義」というもののちっぽけさと、人の命の尊さについて、もっと真摯であるべきだったと学んだはずなのだ。
ドイツという国が第二次対戦後「贖罪」を国家として行うことを決めてきたのだけれど、それはいつ終わることではなく今後ずっとドイツ国民が背負うべきものとしてきたことにわたしは意義があると思ってきた。
過去の精算はドイツの今後ずっと担い続けることという考え方にいたく感銘を受けたのだ。
でも、敗戦国だからこそできることなのかもしれないと思えば、その戦勝国は同じ過ちを繰り返しかねないとも言える。
そもそも世界規模で、もちろん日本もであるが真っ当な戦後処理に取り組むことなどできようもなかった。それが現時点での事実なのかもしれない。

「わたしにはわたしにできることしかできないので」という奇妙な言い訳が最近巷に溢れているが、あなたが思うほどあなたのできることは小さくも少なくもない。
結局自信がないくせに大きなものには飲まれる。その大きなものをより大きくすることに自ら加担しながら、知らなかったことにする。それよりできることを少しでもしていればあなた自身を救うことになったかもしれないのにと思う場面もある。もちろんわたし自身についてもそうだけれど。
そんな場面は今の社会に山ほどある。
わたしはそれが失敗だった時に、ほんの少しでも加担したことに辛く思いたいとは思わないから、自分の考えを持とうと努力することにしている。
それがわたしのわたしに対する、社会に対する責任の捉え方なのだ。そうやって努力するのがわたしがヒトであることでの社会への責任だと思っているのだ。

この映画に関してわたしが論じたいことは山ほどあり、整理しきれるものではないのだけれど、ひとまず述べてくことにする。

正義という言葉は諸刃の刃である。扱いに注意しなければならない。
誰にとっての正義かが問題であり、特に他者がそこに存在するときは、いつも適切な配慮とその敬意は絶対的なものなのである。つまり優先事項のはずなのだ。
それをこの映画では「法や秩序」と呼んでいるのだと思う。
しかし、アメリカに限らず、ヒトというのは嘆かわしいことにそれをすぐ忘れる。
他者の存在を重んじてから喋れといわなきゃならないような場面の多いことたるや…。
それを実践していれば拷問だの虐待だのは起こりようもないのに、こと正義とセットになるとすぐ暴走する。
モハメドゥ・スラヒという青年はそもそも当たりをつけた罪を犯していないと言い続けた。
彼へのほんの少しの敬意があればこうはならなかったのであろうが、それが一切ないからこうなった。しかも「上からの指令」というこれまた弱いようで強いものに思い切り加担したのだ。彼らは命令に従ったと言いたいだろうが、ここは加担したとあえて言いたい。
他者をヒトと思わぬ行為というのはしばしば犯罪的な言動の場面で用いられるが、わたしはそれを行う方もそのときはヒトではなくなっているものと思っている。
その点、彼らはトップダウンで押し並べてヒトではないものどもの集合体であったと言えるのかもしれない。

彼らをなりふり構わず突き進ませた原因は恐怖である。
きっと彼らにはスラヒ青年がとても恐ろしいモンスターに見えたのだろう。変な話ではあるけれど、恐怖というのはそんなことももたらす。暗いところが怖いときに、そこでほんの少しの地震が起きても大地震に思えたりするものである。どっちがやねんということになっていても一旦走り出すと気がつかないのだ。
それほどに恐怖というのは人間の感情を支配する。どんな優先事項もぶっ飛ぶほどに。
アメリカが変とかそういう問題ではなく、ヒトってそういうところがあるとわたしは思っている。だからわたしもヒトである以上学ばなきゃとも思ったわけなのだ。

アメリカが彼にやった行為の数々は、その恐怖心を払拭するための排除行為であるから彼らは必死である。
正義とかいう言葉も空々しいほどの残虐行為をしてしまったのだが、それがまた起訴をしようとしてリサーチしていたカウチ中佐の知るところとなり「自分はクリスチャンで法律家だから(これを認めるわけにはいかない)」と強く咎められた際に「自分と中佐の何が違うというのか」とくってかかる軍仲間の場面がある。
これはわからなくもない怒りだ。現場の恐怖に支配されていないものに何がわかるのかと言いたいのだろう。
確かに中佐はいつも冷静ではあるが、グアンタナモ収容所から距離があった。そこにいたなら同じことをしたのかもしれない。
自分なら絶対やらないと思っていてももしかしたらするかもしれない間違いをどうしたら予防できるのだろうか。誰もが思う疑問だと思うけれど、それには常に自らの言動を確かめる癖をつけるしかない。そうして間違ったときに検証して再び同じ間違いをしないこと、その程度しかヒトは予防策を身につけてこなかったのだった。ヒトは進化しているようでそれほどでもないというのがわたしの考えである。同じことをきちんとできる能力については、よっぽど犬の方がしっかりできるものだと日頃わたしは自宅の犬を見ていて思っているくらいなのだから。

この映画の独特な後味の悪さは、今もまだ続いている問題であるということと、この経験を今後どう活かせるかがあまりに世界の現状に照らし合わせ、卑近な社会生活に照らし合わせても難しいであろう点である。戦争はのべつ隈なく世界のあちこちで起こり、一つ屋根の下では暴力や虐待も起こっている。

次に宗教については、スラヒ青年にとってはものすごく助けになったと思うだけでなく、彼の言葉の説得力を補って余りあった。
裁判での言葉の数々には、心底感銘を受けた。宗教の根幹であろう「赦し」が語られていたからである。
「アラビア語では自由と赦しが同じ言葉である」というのは素晴らしい言葉であった。それだけでもわたしが救われる思いがしたのだ。そして彼を救ったのも彼の良心のもとにある宗教だったのではないだろうか。信じてこその宗教であるが、明確なのはその信仰心によってヒトは持てる以上の力を出せることもあるという一つの事実もある。彼の場合は信仰のとりわけ「自由と赦し」の思いの強さによったのではないかとおもっている。
根本的にわたしは常々怒りや憎しみより、赦しと理解の持つ力の方が大きいと思っている。その点で、彼の話を聞いたときにホッとするような思いがした。

いつにも増してこの映画は強くお勧めしたい。一度見た方が良いのでは、という映画である。
そして自らの良心と深く深く対話したいとわたしは思っている。その価値のある貴重な体験の証言だ。





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