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「137発の弾丸」 決してこの憤りに慣れてはいけない 




クリーブランドで起こった警官による黒人の殺人事件についてのドキュメンタリー。
非常に、このクリーブランドというところはこのような事件が多いところであるが、この場合、一台の車を13人の警官が取り囲み、137発の弾丸を打ち込んだというから、一体全体どうなっているのだと立ち上がる地元の人たちと警官との緊張も深まった。

一事が万事、とにかくアホばっかりなのですかと言いたくなるような話である。
のちの裁判の時によく使われる表現である「拳銃を持っていると思った」などという勘違いなど十分訂正できるだけの時間もマンパワーもあった、にもかかわらず、途中から目的は「やつを殺せ」に変わってしまっていたんだなと思わせる展開であった。
取り調べで「味わったことがないほどの恐怖だった」と自白して「記憶がない」と涙ながらに言っていた白人警官(のちに彼のみが起訴されることになった)は、ボンネットに乗ってまで弾丸を打ち続けたという一つの事実まである。
流石に、どこがやねん、ふざけるんじゃない!と取り調べていた検察や裁判時にもにかなり呆れられていた。

現地ニュースより





日頃から、こういった事件を知るたびに、白人警官のあまりに攻撃的な振る舞いを思うと一体何がそこまでの行動をもたらすのだろうかと想像をして見ることが多いのだけれど、差別もさることながらきっととんでもない恐怖心もあるのだろうと薄々思っていた。
そうでなければ、あまりに凶悪な「仕事」のやり方への整合性がつかないからだ。
この映画でも、かなり弁護士からの指示もあろうかとは思うけれど、関わった多くの警官はのちに「味わったことのない恐怖だった」と口を合わせて言っている。
「軍隊以上だった」とまで言わせているので、もちろん殺した方が言うなよと思うが、あながちその気持ちが全くなかったわけではないとやはり思うのだ。

その恐怖の根拠はなんだろうかといつも思う。
「黒人と聞けば殺しておかないといけないような気持ちになってしまうほどの恐怖心の根拠」とは。

大体、好きとか嫌いとかで対象を殺してしまわないとならないほどの恐怖なんて根本的に人間に向けるものではないだろう。
そんなことばかりを言い逃れようと言う警官に黒人のラジオDJは「そんなに怖いならパトロール警官には向かないから転職しろ」と言っていたが同感である。
一体警察の採用基準はどうなっているのだろうか。なぜこんなにも黒人の多い地域で警官になることを選んだのか。
一体いつから彼らはそんなふうに「殺してやる」という気持ちがあったというのか。

翻ってここ日本のわたしの周りのお話。
差別をなくそうだとか標語だけはあちこちで見るけれど、日に日にその意識も薄れてしまっているなあというのが実際に暮らしていて思うことなのだが、残念なことにここ京都市ではその差別の実践の筆頭に役所の職員がいる。
この区は特に酷く会話もままならない。私たち当事者はとても生活していくのが難しくなっているなあと実感している。
会話、対話ができない職員を福祉関係の窓口や担当におくということは、もう市をあげてその分野はやりたくないという意思表示なのだと理解するしかない。
コミュニケーションを取る力のない市の職員という言葉の持つ矛盾に、「行政からの差別」という構造的で且つ致命的な欠陥を思った。

先日、支援者の集まる会議で、彼らが発した以前の「あなたが不自由なのは全てあなたのせいです」という発言について「わかりやすい差別発言だと思う」とわたしが言ったら
「なんでも差別、差別と言って…どこがなんですか、皆さんに聞いてみてくださいよ!!」と見事な逆ギレをしていた上役の姿を見て、出席していた他の支援者は
「あんな上司っているんだ、よかった、うちじゃなくて」と胸を撫で下ろしていた、というシュールな出来事があった。彼はその会議の場でも会話ができない状態だった。わたしが話し出すと重ねて彼も話し出す。聞くことが嫌なのだという意思表示だと思った。

リモートの会議というものの恐ろしいところは、お山の大将がよそ行きになることなくお山の大将の気持ちのままで参加してしまうこともあるという点である。
悠々と遅れて登場しても何にも言わず加わり、徹頭徹尾「生活保護の受給者になんてまともに相手する価値はない」という姿勢を貫いた彼らはある意味あっぱれだった。
おかげさまで、今までどんなに言葉を尽くしても「あれほどだとは思わなかった」という方たちがしっかりと呆れながら実情を把握し、結果的にわたし自身の発言の信用度がアップしたことは予想外の出来事だった。

いつもそんなふうに差別であるとか偏見であるとかが丸出しの彼らを見ていて思うのが、彼らはどういった根拠でそんな意識になっているのだろうということである。
わたしたちあなたに何かしましたか?
という根本的な疑問がずっとある。
できないことがあるということを役所が手助けしようという仕事をするのが嫌なら、転職しかないのでは?
彼らは公僕である。政治家でもないが税金から給料が出ている。給料がどんなに魅力的だとしても税金だけを貰うわけにはいかない。それに見合った仕事をしてもらわなければならないのである。それは当たり前の話である。
それを何を勘違いしているのか知らないが、とにかく仕事をすればものすごく恩着せがましく、しない時には怒鳴りつけてでもやらないと決めてしまう。
そこを注意されれば所構わずキレるのである。だからしょっちゅう職員が怒鳴っている今時珍しい福祉事務所なのである。そしてそういう指導を部下にしてしまうような上役なのである。

これだけのことが、今回の上役の振る舞いで一気に支援者の皆さんに伝わったのだ。

自分に自信を持つというと聞こえはいい。しかしオッサンはよく自信を持つべきでない、むしろ恥ずべきことを威張る節がある。あの姿ほど見ていて虚しいものはない。
あれはなんなんだろうか。何を見せられているんだろうか。
今回は彼の部下の女性の職員もいた。のちに彼女を心配する感想も聞いた。わかる気がする。普通なら居た堪れない。
また、目撃者でもあり、参加者でもある方達がいた。

先ほどのこの映画にあるような、アメリカでの人種差別を取り上げた映像を見ていて思う怒りと、わたしが日常的に役所などで受ける扱いに対する怒りは、わたしの中でいつもとてもリンクしやすい。それほどに理不尽でそれほどに根深い。
人間が生きる上で、誰かと比較して自分を上げていく作業が癖になってしまうことはあるようだ。でも、そのことはどこかでまた別のやりづらさ、不自由を生む。そしてその理不尽を組織外や下のものに当てつけるのだ。
そのような組織は、組織ごと改革すべきで維持することにメリットはないと思う。
結局、人が集まって組織が生まれたはずが、その組織を持て余すことになった挙句、人の心を失ってしまったのだから。空っぽの心の組織には意味はない。
組織というものの持つ「正当性」は、こんなにも有名無実化してしまったのだ。
中身がないならもう意味がないものにしがみつく姿は見苦しいだけである。
その見苦しさ、見苦しいものと対峙させられる嫌悪感がわたしを辟易させる。
簡単に言えば、
気持ち悪い。

だから人種差別のことを知ることは、わたしを取り巻く環境を知ることにつながると思うのだ。その時わたしにある、ある種の客観性がまだ救いだ。
そこから身近な問題へ投影してみたいと思っている。
そしたらこの偏見に満ちたオッサン気質の解体への道も見つかるのかもしれない。
非暴力で、キング牧師やガンジーの強さと忍耐強さにも学ぼう。
そしてまた生きる希望とできればいいのだけれど。
それまで生きていけるのかしらねえ。












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