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「ペトルーニャに祝福を」おっさんの撒き散らすゴミを誰が拾うのか(肩書き入り版)


 環境汚染だと言って国際会議を開いたら、一国の代表がセクシーセクシーと場違いに言った。

そのせいで、レジ袋の有料化が決まった。

こんなことですら誰も文句を言わない国にいて、この映画は非常にリアルである。



ペトルーニャが出会った集団リンチのような場面にわたしも人生で幾度か出会ったことがある。そのように表現してしまうと、きっと当時の加害者側は「それほどではない」というだろう。加害者はいつもそんなものである。きっとずっと自分の罪に対して軽薄なのだ。

この映画の登場人物はそれほど多くない。しかし、集団を形成する要素として不可欠なタイプをそれぞれキッチリ描き分けてある。母親もそうだし、警察官も、司祭もそうである。

友人とレポーター、母親が女性で他はみんな男性である。

宗教とムラ社会の親和性というのは一体なんなんだろうか。

その批判的な物言いの下卑たること、この上ない。

根拠なく拘束したり、罵ったり。そのような言葉を口にして罪悪感がないのも神という最強の後ろ盾があるからだと言えるのかもしれない。

しかし、その罵声がれっきとした「女性だから」という理由である時に、終盤で提示される「もし神が女性だったら?」という発想は(奇しくも男性の登場人物から発せられているのだけれど)ものすごい説得力を持つ。

一部のキリスト教において長らく「天の父」であった神が近年「父であり母である」神と言い直されてきているのだけど、言い換えればいいというものでもない。

男性優位の考え方というのは、本当に長い間、政治と文化、宗教にわたってあまりにも浸透してしまっている。この国においても。つくづく嫌になるほどに長い間社会として、おっさんを再生産しては甘やかしてきたのである。それをしやすいように社会が出来上がってしまっているのだ。おっさんは抜本的な解決より小手先の誤魔化ししかしないものであるから、日本の社会はいつも「古き悪き」日本でしかない。世界も根本では大きく変化しない。

そんなおっさんたちがどれほどの才能を差別と共に葬ってきたのかと思うとなんということなのかと呆れずにはおられない。

いつも思うのだけれど、人が他人のチャンスを奪う、可能性を削ることにおいてもう少し敏感であるべきである。根本的に人付き合いをするにあたって、最低限のルールである「自分がされて嫌なことは他人にしてはならない」さえ守れるならば、差別も戦争もなくなる気がする。

このところ、とにかく身近に差別にまつわることが多い。

よく電話がかかってくる知り合いの方は、わたしの意見は違うとわかっているのにあえて「差別が必要なこと」を理解できないものかと語りかける。

日常の生活を福祉サービスに頼るわたしではあるが、思い起こせば数年前にサービスを受け始めてその実態を現場で目の当たりにしてショックを受けたことを思い出す。

なんという世界かと。よりによって福祉業界の中ほど差別が蔓延しているところはない。わたしは障害者手帳の申請や障害年金の申請の手続き、生活保護の手続きをするたびに役所の対応、言葉遣いや物言いの変化を実感した。同じ人物が同じ人物への扱いを変えてしまうような根拠はなんなのかと疑問だった。それが差別というものなのだと気づくのに時間はかからなかった。ただ、ほんの少しわたしの中でそれを認めるのに時間が必要だっただけだ。

まさか市役所の公務員がそんなことを考えたり思うわけなんかないと信じたかっただけなのだけど。残念なことに今ではそう考える役所の職員の方がレアなのだと実感している。

例えばわたしの昨年までのケースワーカーは、生活保護に携わりたくて中途採用で職員になったかなりのレアキャラだった。法律的にも生活保護の意義を理解してくれて何かと心配したりしてくれていたものだ。つまりやる気満々の職員だった。

しかし、彼の上司が彼を追い込んで病ませて生活保護業務から離れさせてしまうことになった。後半の病んだ姿を見てわたしはとても辛く思っていた。何をもって上司ということなのかわからないけど、他人の心へこれほど容易く暴力的になれる組織とはなんなんだと。それが区役所だというなら、公僕という人たちは何を税金でやっているのかと。

確かにここの生活保護課の印象は、わたしにとって三カ所目であるのだけどそのあまりにもひどい実態に辟易した。窓口で怒鳴る職員が多く、電話もキレて一方的に切ることも多い。説明が必要になれば「市長に聞け」という。

理解不能なほどに異常である。

このところ、京都市はお金がないとか無駄使いだとか変なニュースをよく発信しているが、内実としてこんな仕事ぶりではそりゃあ無茶苦茶になるわなと納得もする。税金を扱うどころか給料として渡すに値しない仕事ぶりである。なぜこんなことになっているのかは、是非とも上司に聞いてみたいがとことん彼は逃げ続けている。

でもわたしは交渉は続けているのだけれど、課長は逃げ続けている。

わたしの日常の支援にも時として、いやもう少し高い確率で差別が当然のように持ち込まれる。

これもまた非常に不思議なことで、いまだに正直馬鹿げたことだと思っているのだけれど、つくづく残念な話である。日常的に失望し続けるような日々が割と多いことで、わたしはしばしば根本的な一つの疑問に立ち返る。

「そもそもわたしが支援を受けるからこんなひどい目に遭い、こんなひどい人に出会うのか、そうだとしたら支援を受けないことしかわたしの尊厳を保ちながら生きる道はないのか」という。まともに生きる選択をするなら当事者は基本的に支援を受けないという道に追い込まれるしかないのだ。

これはこの業界にいるまともな人にとっていかに異常な選択か、言わずもがなである。

そんなあり得ない根本的な問いかけを一年に何度当事者であるわたしは自分で反芻するしかないことか、数えきれないのだ。

これは地域的な問題に落とし込むよりも、せめて縮めたところで日本単位の価値観によるところが大きいのかも入れない。バケツリレーのように責任をよそへよそへと追いやるシステムや、善意を搾取する意識の低さ、上の責任を下に取らせる尻尾きりに納得してしまう忖度文化、そんな一々に、特にまともな羞恥心もない悪質な業界の餌が社会的弱者なら、それは無視するには「ちょうどいい」存在なのかもしれない。悪徳事業者ならではの、「サービス対象者をはじめから無視していい」という不文律にわたしはいつもぶち当たる。

バレないからいいと思っているだろうが、当事者にバレていないということはあまりない。

そして当事者が全て沈黙しているとは限らない。

どこででも見るような「平等な社会の実現」を貼り付けてアピールしているまちはきっとそうでもない街に違いないとわたしは思っている。

吉本新喜劇で「ここにはおらんで」と言いながら押入れの前で手を広げるネタがあるが、それと同じで「ここは平等やで、差別はないで」とジタバタしているのである。だからそれはつまりあるということなのだ。

標語というのは所詮ただの努力目標であり完成されたものではないから、決して威張れた話でもない。大抵のおっさんはその辺りを履き違えていたりするのだけれど。

一人の当事者として望むのは、おっさんの多くは非常な能力不足でもあるから、いくら人手不足でもそのような人を取り込まないでもらいたいのだ。

「わたしが言うのもなんなんですけど、他の仕事で箸にも棒にもかからない人が多いのもこの業界の特徴なのです」と言ったヘルパーさんがいた。同業者としての苦しみを感じると同時に、実際にそんな人が幾人かわたし自身も思い当たった。そんなおっさんはすぐに「この資格はツブシが効くんですわ」と言った。ふざけるな。

わたしはヘルパーさんではないが、この間ずっと思うのがヘルパーさんたちはもっとご自身の業種の評価を上げていかなくてはならない。ヘルパーという職種の然るべきアイデンティティーを確立して然るべきプライドを持っていただきたく思っている。その上でしょうもないおっさんのプライドを吹き飛ばしていただきたいのだ。できればわたしたち当事者に会わせるまでに。

ヘルパーさんだけでなく、適切なプライドではなく「独自の根拠のないプライド」を持ち込む支援者は他事業者にも多い。

なぜか金銭管理にまつわる団体に顕著であるのが特徴的である。

先ほど述べたような「能力不足」でありながら無駄に出世したような男性が非常に迷惑を撒き散らす。おっさん率がやけに高いのも特徴的である。

金銭管理をする事業というのは「権利擁護事業」というものの一部であるが、おっさんはまずそこから間違えている。間違えているというよりそもそも他者を自分と同じ人間として考えることのできない性分のようだ。だからまともな支援ができる理由が彼らにはないのだ。

つまりオッサンはこの業界にも向いていない人間である。石ころでも拾う仕事の方が向いている。

でもそんな人が他人のお金を触れたらどうなるだろうか。そんなわけで結果的に支援どころか崩壊をもたらす。無意識に他人の生活を崩壊させるような人物というのはなかなか問題である。しかし団体によっては、そういう者ほど出世できたりする。非常に気持ちの悪い循環的な搾取の構図なのだけれど、これは一種の犯罪的な行為でもある。

なぜなら彼らのそんな振る舞いの一々に税金が支払われているからである。

何よりその組織の中で差別的な構造的欠陥を持ち、パワハラとモラハラを日常とするなら、繰り返すがサービス対象の社会的弱者なんぞのことまで考えられるわけがない。

女こどもも踏み倒すのに、障がい者ですって??てな具合である。

ま、でっかい組織の割に出世するのが男性のみ、女性のボランティアを使いまくる癖のある団体のやる「支援」とはなんなのか。そっちの中から改善して出直してもらいたいと正直思うが、もうその時にわたしの権利擁護事業は乗っ取られた状態なのである。

全くしっかりしてもらいたいものだ。どこからどうしたものかと呆れるばかりである。

他人のお金を触れるからといって何がえらのか、わたしには謎すぎてよくわからない。

この事業の場合、たまたま現場の方が上司に相談するとすぐにおっさん上司が出てくる。そういう人はとても困ったことに偉そうなわりに物を知らない。言ってはなんだが、わたしのDV父と似たタイプである。他人の家でその価値観を振りかざすのでわたしが断ると逆ギレする。

それで「支援を受けたかったらいうことを聞け」と言い出すのである。

ちなみにここ右京区の社会福祉協議会はそんな団体だった。長らくとても長らく付き合わされたが、最後はどうやって支援を受けられるだろうかとわたしが京都市社会福祉協議会と検討中に、右京区社協から「本人の希望により支援を終了する」という書類が送り付けられてきた。

覚えがないので抗議した際に話し合いがもたれたが、その時の言い分が驚きだった。

「あの時に多藝さんが支援をやめてほしいのだなと思ったのでこの書類を作った。間違いではなかった」

何を言っているのか、今見てもわからない文章である。少なくとも彼は現実とは全く違う夢の中にいながらその世界観を他人に押し付けるある種の妄想状態であると思った。

彼らの憶測は、事実を塗り替える力があるらしい。そんなのは当たり前なんだと思うと実に恐ろしい価値観である。わたしは「ヒトラーみたいな人」と以前トップの彼を表したことがあったのだけどその時に「仮にも福祉を仕事としてるのでそれはちょっと」と言われた。しかしやっぱりそうだったではないか。このような価値観が右京区の社協ではなぜかトップであり、公式書類に記載されても通っているのだ。書類の共有先である京都市社協もものも言わなかったし、むしろこちらに部長職の人が暴言を吐いた。管轄の京都府社協に至っては門前払いした。

不気味な話である。彼らは言い方を変えるのではなく、自分のやり方、あり方を変えるべきなのだ。

そういう意味において、彼らもまた支援という名目で他人の生活にゴミを撒き散らしてそれを拾いもせず去っていった。

右京区社協は結果的に誰よりも傲慢な態度であったとその時のわたしは思っていた。トップの考え方にある、自分の考え方が絶対であるという自信の根拠をわたしはいつも知りたかった。なぜなら彼はもう少し躊躇したらどうかと思うほどに問題の多い発言を息をするごとに吐くようなところがあったからである。

「こんな仕事にいちいち責任なんかあるわけないじゃないですか」

「こちらの言いたいことは伝えたのでもう相談は終わりました」

「多藝さんがハイと言いさえすればできるから、支援を受けたかったらはいと言ってください。そうしないと帰りません」


次回に続く






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