できないことは犯罪なのか。 『盗られた財布』は嘘ではない。 きちんと探さなければならない。 ぐうううう、愛するぐっさん 障害者として生きていくにも、生活保護の受給者として生きていくとしても、わたしはいつもわたしの見識からでは想定外の障壁に出くわしてきた。 それはいつも偏見というあまりに大きな固定観念でもあった。 障害者の人といえば、この疾患の方は大体こういう感じだ、生活保護の受給者は大体こういうものだ、などなど。 そういう話は山ほどあるけれど、そこに何かしらポジティブなニュアンスはあるだろうか。 それをひっくるめてわたしはやはりそれはただの偏見ではないのか?と問いたい。 そんな必要以上の不自由が当たり前とされるには、それなりの理由がないといけない気がするが、実のところいつもそんなものは空気であるとか慣例であるとかいう一才の具体性を持たないもので説明をつけられてしまうのだ。 例えば、うちには今、成年後見人制度で言うところの補助人がいる。これがまた、 支援という言葉とは程遠い価値観で回っている制度で、しれば知るほどザルであり、必要なスキルもおおよそ必要ないまま働けてしまうなんちゃらホイホイのような制度だったのである。 だから意識ある被支援者からすると恐ろしくてやってられないようなことになるのであり、犯罪と言ってもいいほどの怪しいこともできてしまうものであった。 わたしの補助人はとにかく彼の都合に合わせることをわたしに求めるが、あまりに無理があるので交代してもらうことにした。しかし、その手続きのために裁判所へきちんと書類を提出してくださいと言われても、ずっと無視することでその座に居座るとかそもそも提出しないで保管したいと言い出す始末であった。常に彼のやったことといえば、とにかく常にわたしの生活の妨害であった。 愛車とファニーな相棒の愛犬サク 結局彼は今、後任者が決まるまでの間、わたしの区役所のケースワーカーが取り次ぎながらわたしの生活がきちんと滞りなくやれるように調整するという事態になっている。それくらい彼の辞任が確定していてもまだ、わたしのお金そのものに対する彼の執着は異常なのである。 彼は銀行口座で管理しない。全額『お持ち帰り』したがる。余剰分も口座にも戻すことはしない。出納帳はつけないと公言している。手持ちにしかないのでその残額は当人には教えない…...
バイバイ、いやなオッサン、バイバイおっさんみたいな文化 そんな決別宣言