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日々の考察 「支援」vol.2

 

できないことは犯罪なのか。

『盗られた財布』は嘘ではない。

きちんと探さなければならない。

ぐうううう、愛するぐっさん



  障害者として生きていくにも、生活保護の受給者として生きていくとしても、わたしはいつもわたしの見識からでは想定外の障壁に出くわしてきた。
それはいつも偏見というあまりに大きな固定観念でもあった。

障害者の人といえば、この疾患の方は大体こういう感じだ、生活保護の受給者は大体こういうものだ、などなど。
そういう話は山ほどあるけれど、そこに何かしらポジティブなニュアンスはあるだろうか。
それをひっくるめてわたしはやはりそれはただの偏見ではないのか?と問いたい。

そんな必要以上の不自由が当たり前とされるには、それなりの理由がないといけない気がするが、実のところいつもそんなものは空気であるとか慣例であるとかいう一才の具体性を持たないもので説明をつけられてしまうのだ。


例えば、うちには今、成年後見人制度で言うところの補助人がいる。これがまた、支援という言葉とは程遠い価値観で回っている制度で、しれば知るほどザルであり、必要なスキルもおおよそ必要ないまま働けてしまうなんちゃらホイホイのような制度だったのである。
だから意識ある被支援者からすると恐ろしくてやってられないようなことになるのであり、犯罪と言ってもいいほどの怪しいこともできてしまうものであった。
わたしの補助人はとにかく彼の都合に合わせることをわたしに求めるが、あまりに無理があるので交代してもらうことにした。しかし、その手続きのために裁判所へきちんと書類を提出してくださいと言われても、ずっと無視することでその座に居座るとかそもそも提出しないで保管したいと言い出す始末であった。常に彼のやったことといえば、とにかく常にわたしの生活の妨害であった。

愛車とファニーな相棒の愛犬サク



結局彼は今、後任者が決まるまでの間、わたしの区役所のケースワーカーが取り次ぎながらわたしの生活がきちんと滞りなくやれるように調整するという事態になっている。それくらい彼の辞任が確定していてもまだ、わたしのお金そのものに対する彼の執着は異常なのである。
彼は銀行口座で管理しない。全額『お持ち帰り』したがる。余剰分も口座にも戻すことはしない。出納帳はつけないと公言している。手持ちにしかないのでその残額は当人には教えない…。決算は表として作ることはできない。時々お金があるにも関わらず、なぜか絶対に動かせない日がある。レシートは必要ない。
そんな人なのである。この人は何にも知らないままでこの仕事をやってるんだとつくづく思った。本来知らなくてはならない会計管理ということの常識を彼は知らない。
それでもできてしまうのだ。
そんな人でも裁判所さえ行ってきてくれと言えば、仕事だと言って他人の家計をなんとでもできるのだ。
結局彼はとにかく勝手な金遣いが荒いので困ったのもあった。誰にでもどんどん他人のお金を渡したがる。本人より他人に渡したがる。つくづく意味がわからないが、そんな人でも裁判所はお困りならどうぞとよこすのだ。

そんな時にわたしはいつも思う。
今なんの罰ゲームに参加させられているんだろうか、と。
困っている人間に、だったらこんな程度の支援でいいでしょ、どうせわからんでしょという考えそのものが著しい侮辱、差別ではないのか。
なんと失礼な。
そんな価値観が、裁判所のレベルから末端にまで受け継がれていて、一体わたしが何をしたからこんな羽目に合っているのかとつくづく馬鹿らしくなった。
彼らは『できないだけのこと』が犯罪のような、つまりわたしが罪人のような単純すぎる間違えた考え方をもとに歪んだ支援とやらを日常的に繰り返す。
組織的な、制度的にあまりに欠陥の多いものであり、抜本的に作り替えるべきである。
それにも関わらずわたしが裁判所の発言で驚いたのが、
わたし「わたしが今いくら持っているのか知る権利があるじゃないですか、ないんですか????」
裁判所「ん? 知る権利、、、と言いますと?
明らかに「考えたことがなかった」みたいだった。そのことがわたしには驚きであった。
思い込みというのはここまでヒトの判断を鈍らせるのかと。
認知症の方が「財布を盗られた」とかなくなったということがある。
そんな時は真剣に探すべきであり、どうせそんなことはないと思うのはむしろ危険である。
そのような状況を待っているものたちがいる。
不自由なことがあるひとの不自由につけ込む最低なものたちがいる。
堂々と犯罪を繰り広げながら「福祉」と言い逃れるクズどもである。


うちのアイドル ネモ



右も左も変なおっさんばかりでみんな他人の家で好き勝手したがる。
オッサンは本当に図々しい。そして次々生まれる。
オッサンはつまりエンドレスなのだ。
自分が一番可愛くて、次に自分のところの従業員のことしか考えない事業所というのも恐ろしいことではあるけれど実に多い。
そのようなことでは、他人の支援をしないでお互いをやっていればいいのだ。

また、男性の多いヘルパー事業所があるけれど、そこもなぜかわからないけど対応が遅いことがある。色々と理由はつけられるだろうけど、結局こちらは待つのだ。いつまでも。
そうすると単純なことが大きくなる。本当に嫌になる。
ああ、全部やめたい。うざいのもそうでないのも。


おっさんほどしつこく嫌な生き物はない。
さよならだってば。
相手構わずヒルのように生き血を吸うのだ。
さよならおっさんだってば。



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