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日々の考察 vol.3 わたしの暮らしはどうあるべきなのか



近所の神社前をサクと疾走中

「障害者ならこんな生活をするもの」

であるとか

「生活保護を受給するならこんなふうなヒトであるべき」


そんなこんながあんまりにも多いもので、時々わたしは耐えられなくなってしまう。

わたしの身体は「それなりに」不自由であるが、その失った機能以上の不自由をなぜ理由もなく受け入れなくてはならないのだろうか。

一体わたしは実際にどれほど不自由であるべきなのか。

それもまた支援を受けることにより実感することがあっちこっちにあるのだ。

あれをしたいと思ってもかなわない。

これをしたいと思っても実現しない。

たどり着かない。会えない。できない。できない。

中途半端な欲求不満は大きな固定観念をどうにもできず中途半端な妥協に終わることによって作られる。


こういうソファの座り方を最近覚えたのだ





支援する方々に聞いてみたい。あなたならどうする?

それほど気にしないで暮らせるのかと。本当にそれが大したことではないのだろうか。

以前

「わたしなら支援を受けるのだからそのようなものだと思います。そう思うと思います」と言い切った支援者の方がいた。「支援を受けるのだから」そんなもんだと諦めた理由がよくわからない。支援を受けるのは果たして何かを我慢するためだったか。だったらこれはなんの罰なのだろうか。わたしは、懲罰くらいでしかこんな発想になることがないのでわからない。

それを罰ではないと言うならお給料でも払っていただきたい。我慢することが完全にビジネスだと割り切るために。

わたしもこの関係性の歪な感じをいつもどうにかしたいと思っている。

わたしという当事者はどんな存在なのだろうか。マネキンみたいなものなのか。

うんとさえ言えればいいのか。

何を提供して何を得ているのか。またはさらに何を失うのか。


鈍感でなくちゃ支援を受ける生活はできない。それがリアルである。

歯を食いしばる姿もじっと耐える姿ももう見せたくないのだ、本心は。

わたしは確かに楽しく毎日を過ごしたい。

それが思った以上に苦しいと思うとき、その先に一体全体何を支えにしていくのかと思うと真っ暗な思いがする。

暗くてすごく空っぽだと思い至ってとてもとても悲しくなった。

もしかしたら元々なかったもの以上に空っぽになっていく。

結局何も残らない、そんなものかと。

そんな時にまた思うのだ。

わたしに今ある自由って一体どのくらいになっているのかと。

最低限の生活以下じゃないのか。それすら役所が具体的に言葉にすることはないけれど確実にそうだと思う。

こんなものだったか。こんだけしかなかったか。


多分最近久しぶりに想像以上のダメージが続き、その問題の方の支援の異常性が確認されて通報され、いつの間にかこれも当然のように役所の「判断」を「役所のペース」で待つ。そんなタイミングで今は一番きつい状態なのだ。

それも間抜けなことに役所というところは、現在進行形の時にいくらでも関われたことを散々後回しにしたので取り返しがつかないような事態に陥った。その今初耳かのように「対処」し始めている。呑気なものである。そんなことでは障害者や病人は間に合わない。

わたしから見ればその支援の方と役所は大いに五十歩百歩であるが結局そんなものなのかもしれない。

奪われたわたしの支援としてやることというより随分毛色が変わったことによるのかもしれない。

そしてわたしまでついでのようにさらにまだ耐える日々を過ごすことになる。

最近何を待っているのかわからないくらいにたくさんの出来事に出会い、もう何を夢見るのかすらわからなくなってしまった。


勝手にしたらいいやん、という捨て鉢な気分と

もう誰にも会いたくないというひりつく感情との混在。


そんなことが割としょっちゅうある。そして疲れているのだ。

耐えるべきでないことを耐えるのはとんでもなく疲れるのである。

ブラジルまで届くぐらいに、ベッドに突っ伏して減り込みたい気分なのである。

これは今後無事に生きていけるだろうか。結局いつも戻ってしまうこの大きな疑問と共に。




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