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日々の考察 vol.4 支援を受けることが命取りになる危険性について《貧困ビジネスの点と線》

  
古くていいものは限られている


  
人というのは、自分で思うほど強くない。毎回そう思ってはいるけれど、それでもまた過信してまた倒れる。きっとそこまでがセットで途中で気づくこと自体無理なのかもしれないと最近思えてきた。

先日から後見人制度における補助人という人がやってきている。厳密にはわたしが制度の利用を申請したことにより裁判所から選定されてやってきた人である。
ところが、この人が圧倒的に会計に伴う倫理を知らない、コミュニケーションが取れない、福祉を誤解しているなどなどと問題が多かったので交代してもらうことにした。その際にわたしの主治医より書面が出ていて、それが届いたらすぐに交代の申請にいくという約束であったが、それすら1ヶ月後にこちらが気づくまで奪ったままでいたのだ。こちらから裁判所にいうのでもう構わない、と連絡したら彼は慌ててその日じゅうに提出したのであった。

それで裁判所にわたしは呼ばれていろいろ聞かれたりもしたが、一貫してわたしとわたしの支援者たちは、いかにコミュニケーションの取れない人か、またその人は金銭面でも全く明らかにしないのかできない主義のようで、そのくせ膨大な皺寄せが日常生活に響いて生活がより困難になっているのだと証言した。

交代するまでの今はツナギの時期。そんなうちに彼の「経済的虐待」というのは進み、行政に通報されるまでになった。
そんな中、彼の管轄でもある裁判所の担当調査官にわたしはどうにかしてくれと常々話をするのだが、ふと昨日「あの方は今通報されてますけどご存じでしたか?」と聞いたところ
「え? そんなん誰も教えてくれませんでしたわ、知らんかった!!!どこに通報されてるんですか?こっちから電話して聞きますわ!!」と大騒ぎし始めた。
なんなんだ、この人たちは。
その補助人もそうだが、おっさんというのは自称ベテランと言いながら知らないことを誇るかのような場面が多い。新人でもないのに知らないからと言って許されることはそうそう多くないのだ。
その点この裁判所に至っては、一市民としてなんというだらしなさだと情けなくなった。こんなところだからあんな補助人や去年捕まった後見人などが跋扈するのだと。しっかりしろよ。

そんなに仲は悪くないよ




昨日、どこまで本人にこの事態が理解できているのかが謎ではあるが、その補助人からのメールが来た。
あくまでも自分は正しいということ。
生活にお金が足りないというなら施設に入ることを検討したいことなどなど。

ああ、その辺りからわたしの中でもういろんなことが繋がっていったのだ。頭の中で今までのなぜ?の数々が。

ああ、改めてこれは人権の問題だったのだ。
根深く広い圧倒的な偏見と闘わないとならないような、わたしの人権の問題であった。

このような能力のない支援者を支えるものは、偏見で成り立つまた別の組織、そしてまた…。そうやってまだこの国にはいくらでも人権を無視できる土壌はある。古来の病院もある。彼らはお互いを修正することもアップデートすることもなく、こうやって「業務」をこなしてきたのだ。そういう連携しか必要なかったのだ。
彼らは自分以外の人に心があることを知らない。そこにやってくるお金しか見ないのだ。
これはあってはならない貧困ビジネスというものだ。
思わずしてわたしはその氷山の一角に出会ってしまったのだった。

いやいやちょっと待て。こうとなると区役所レベルの行政はこのおっさんに何もいえないものなのか?
誰が敵なんだ?味方はいるのか?どうなってるんだ?
やっぱりこのおっさんからなんとかしてくれよ。

闇金は取り締まるのに、こっちは野放しになる理由がわからない。
ああ、最初に友人が言っていた。
こいつは本当に低所得者から奪う目的の悪質な犯罪者やと。
すごいな、その通りだった。
今日の半日だけ、それに圧倒されることにしようか。

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