“完璧なケア”で裁判所からの信頼も厚い法定後見人のマーラ・グレイソン。だが、その正体は合法的に高齢者の資産を搾り取る悪徳後見人だった。そんなマーラが次の獲物に定めた資産家の老女ジェニファー。身寄りがなく格好の餌食となるはずが、なぜか彼女の背後からロシアン・マフィアが現れて――。
以上は公式HPからの引用。なかなかなブラックコメディである。
この映画を、実際に後見人ビジネスに搾取されながら見るというシュールすぎる体験をした。
こうなるととても笑ってはいられない。
わたしの場合はロザムンド・パイクではなく「福祉のよしみ」という一人のおっさんではあるのだけれど、そして彼はもっとコミュニケーションも取れないのだけれど、
そして何よりわたしにはロシアンマフィアという強い味方がいるわけでもないのだけれど、今まだ続いているからこそここにそのことを書いておきたかった。
パイク演じるマーラは後見人という仕事をビジネスとして大成させてこの分野において第一人者となっていく。
そもそも「後見人ビジネスとしての第一人者」とはなんだ?かなりイカれた匂いがぷんぷんするのだが。
それでも資本主義国家としてイチバーンなアメリカは、経済的な成功が社会的成功のバロメーターであるから、彼女のビジネスモデルを尊重してしまうのだろう。
ま、大体そういう利益を求める考え方と福祉という公助の概念とは非常に折り合いの悪いものである。だからこそ後見人ビジネスというハイエナのような職業にわたしは嫌悪感を覚えるものである。
正直にいうと、そんなことを本気でやる人が近くに現れるとは思っていなかった。
でも現れたのだ。それがわたしの前補助人自称「福祉のよしみ」である。マジでそれを職業とする人がいたのだ。最初に名刺をもらった時から「大きく出たな」というのがわたしの第一印象であった。あまり福祉関係の仕事をしていて自らを福祉といえば自分だというような人に会ったことがない。それほど福祉というのは奥深く重い言葉であるからだ。
ろくに考えてないか、無駄に誉められすぎておかしいのか、そんなものだろうと思っていた。そしてきっと彼が求めるのが「有識者」というポジションなのもすぐわかった。こういうわかりやすい名称であればあるほど、行政の目に留まりやすいものだからだ。ま、どっちもどっちであるが、そういう中身のないメンツで物事を決められて困るのが当事者だということだけは申し上げておきたい。
結局どうやらどっちも正解のようだった。一言で言えばこれはただ「福祉のよしみ」の自己満足を満たすためのネーミングであった。少なくともわたしは彼の姿勢は福祉の真逆のものであると痛感している。
何より後見人ビジネスという、高齢者、障害者から搾取する分野の第一人者であろうとすることそのものが意味不明である。本業はどうした?
そしてこれがわたしの「後見人ビジネス」というそもそもが歪んだ一つの「自立支援事業」について見て話して知る機会となった。
念のために言っておくがこれは現実ではわたしのための事業ではなかった。
そのためにわたしは当事者であり誰よりも詳しい現場の目撃者、当事者、観察者でもあったのだ。
補助人という業務については以下を参照してもらいたい。
被補助人を補助するものとして家庭裁判所により選任されたものを言います。 判断能力が不十分な人(被補助人、以下本人)の権利や財産を守るため、本人が財産上の重要な取引行為を行う際に、本人の利益に適うかどうか判断し同意を与えたり、同意を得ずに行ってしまった取引を後から取り消したりする人です。
まず、金銭の管理をするものとして常識的な「予算」「決算」という表を彼は作ることができない。というか「知らない」。同じ理由で出納帳をつけない。領収証がなぜ必要かわからない、というか「知らない」
次に、わたしのお金であることを忘れる。
「立替金」というものを勝手に導入して、収拾がつかなくなる。
ああ、ちなみにわたしの補助人は上の引用以上の権利をとにかく主張して行使する。
それもよくわからないのだけれど、とにかくすぐに「自分にはできる」とペラペラいうものだから多くの人たちが混乱する。
わたしからすると非常に滑稽な話だが、「わたしはそれをやっていいのです」と言われたという区役所の職員などは、なるほどそんな権利があるのかとすぐにいいなりになるのだけれど、実際には彼にそれほどの権利はないのだ。
その場合、わたしがそんな権利は彼にはないと言っても、区役所は信じない。それでとても困った事態になってくるのである。
人の心理というのはこうも脆いものなのかと痛感するが、ものの1ヶ月もしないうちに、区役所のケースワーカーなどの関係者が口々に「なぜこの状況に合わせられないのだ」「困る困るというけれど、そもそもお金をなぜ使うのか」などと言い始めるに至った。
いじめなどのケースと非常に同じものであり、一旦そうなると事実はこうだとか根本的に理不尽だとかは関係ない。事実なんて、その場の登場人物次第でいくらでも捻じ曲げられるのだ。親子にしろ教師と生徒にしろ、友人関係ですら多勢に無勢であるとかでいくらでも変えられてしまうのだ。
だからこそ、人を生かすのも殺すのも人間なのだ。
今回、そのおっさんに輪をかけて奇妙な理屈を展開する人たちにも遭遇した。
この詳しくは、次回以降に述べるけれどその二つの出来事にわたしは心底疲弊し、もう支援を受けて暮らしていくことに自信を失ってしまったのだった。
支援を受けて暮らすことは生きていくために必須にも関わらず、だ。
つまりわたしは自分が生きていこうとする気力を失っていた。
人というものは、それなりの生きる気力があるから生きていけるものだと常々わたしは思っている。でも、それを人から奪うことこそが、介護の世界に携わるものたちが絶対に犯してはならないことなのではないか。
でも現実にはその危険性がとても高いのも現場なのだ。どうしてこうなってしまったのかについてもわたしは日々考えを巡らせるけれど、そういったことを平気でできる人ほど「まさか自分はそんなことしないに決まってる」と思い込んで思考をストップしているのだ。その最たる出来事(と思っているがまだ先がもしあるならそれも怖い話だ)がこの補助人にまつわる出来事と出来事と日を開けずに起こった。
それについては次項へ続く。
コメント
コメントを投稿