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日々の考察vol.5 無知もしくは鈍感であるという暴力

 前項からの続きである。


一般的に著しく鈍感な人というのがいる。

あれはどういう感情なのだろうか。そもそもそのような人の場合、他者はなんのためにいるのであろうか。どういうふうに見えているのだろうか。

そもそも、鈍感な人にとってコミュニケーションとは必要なのだろうか。

そして支援とは…

活動を容易にするために支え助けることである。

どうにもこの言葉がなぜかごっつい独り歩きしてしまっているのだなあという出来事があった。言っておくがそういう独り歩きというのが当事者にとってはこれほど残酷なことはないのだ。


ぐっさんもじぶんで考えますけど


1.ある事業所との会話 反知性主義とはこれなのか

最近、というより2年ほどうちの支援に来ていた事業所との「意見の相違」があった。

週に6日、夕食を入浴などをお願いしているところであるが、来ていたヘルパーさんが軒並み止めることになったことから事業所が支援に入れないと言い出した。

ま、色々あるけれどここまではいいとして、そう言った場合次の事業所をそこが探して支援に滞りがないようにするものである。

それを踏まえて事業所の人に一度来てくれと言ったら「嫌だ」と言い出した。「電話で済む話だから」を繰り返す。しかしわたしはそれでは困るので来てくれと言った。ちなみにわたしは数字というものに学習障害があり、6日分の日程を電話で話すのは無理なのだった。でもその事業所は譲らなかった。しかもその理由を一度も話さなかった。全て「電話で済むのに」としか言わなかったのである。

所長である彼女は準備できたであろう1ヶ月という期間中、誰に言われてもそれを貫いていたが、突然、月末日に突然社長と二人でくると言ってきた。

月末になって何ができるというのかと思ったが、まあいいかときてもらった。

しかし、そこで展開された話はとても奇想天外な話だった。

社長「まず、明日から◉◉(事業所名)は毎日スケジュールに穴を開けますが理由があります。ですから了承いただけないかと思ったのですが」

わたし「スケジュールに穴を開けますとは普通あまり宣言しませんし、それを了解することはだれに聞いてもない話だと思う。意味がわからない」

社長「あなた(わたしのこと)はこの〇〇(社長)の気持ちをいつも考えなかっただろう」

わたし「それなりには考えるけど、この方があまりにも身勝手だからそれをやめてくれと言い続けているのだ、2年間折に触れて彼女の方がそれを解るべきではないかと言ってきた」

社長「そういうことじゃない、その時に〇〇にも気持ちがあるからそれを理解してあなたの方が考えるべきだった、あなたの希望などいうべきじゃない、あなたならそれができたはずだ」

わたし「いやしかし、7時半に帰るはずの人が10時まで居られたら帰って欲しいというではないか」

社長「いいえ、そこに〇〇の気持ちがあったのでそれを理解したら帰れなんているわけがない」

わたし「でもわたしの家だから」

社長「いやそれより〇〇の気持ちなんです」

こんな調子で会話を始めたのだ。

なんだこれは気持ち悪い、と思った。

わたし「あなたさっきからめちゃ〇〇の気持ちしか言いませんけど、わたしの気持ちはどうでもいいのですか」

社長「そうです、〇〇の気持ちがすべてなんです」

何を言っとるんだ。

そういえばこの所長の女性は常々

「障害者支援がしたくてやってるのに障害者の当事者の人にそれはこうしてとか言われたら支援なんてできない」

と言っていた。その度に「アホなことを言わんと。当事者の気持ちは大事でしょ」と言ってきたがこれほど社長からして筋金入りだったのかと驚いた。

わたし「いやしかし、そんなことを言っていたらヘルパーさんもいなくなってきたんでしょ、誰もついていけてないじゃないですか」

社長「それはあなたが操ったんでしょ?」とにやつきながら言った。

おっどろいた。まさかのここで陰謀論。

どうしてそうなった。

社長「僕にはわかっていますよ。みんなあなたが操ったんでしょ、だから辞めるんですよ」

わたし「嘘でしょ、マジでそんなことになってるんですか。どんだけご自身たちを振り返らないんですか、すごいな。大体、それでわたしが困ることになってるのに本気でそう信じてるんですか」

社長・所長「もちろんです」

カルトである。自分達の思いと違ったら洗脳されてるということになるらしい。

わたし「あなたがどう思っているか知りませんが、辞めたヘルパーさんたちはそれぞれ立派に自立した人たちでご自分の考えがあってだと思いますよ、さっきからかなり失礼なことを言ってますよ」

社長「いいえ、そうなんです、操られたんですよ、僕にはわかったんです」

いやあ、カルチャーショックだった。こんなことを言うトップがいるんだと。

悪夢のような現実離れした空間だった。なんという発想だ。

自分たちと意見の違う人たちは全てわたしに操られているという妄想のような思い込み。恐ろしいことを考えるものだと痛感したし、ここまで徹底すると異論の入る隙はもうないのだなと思った。

わたし「あなたたちがそんなんだからみんな辞めていったんですね。そんなに人がいなくなってる状態なのにまだそうやって威張るなんてすごいわね」

社長「あなたがそうさせたんです。今日は僕が一言言っておかないとと思って〇〇を連れてきたんです。それだけのために来たんです」

なかなかな人である。壮大なコントかよとも思ったが結構本気なのが怖い。

結局それだけを言い続けて彼らは帰っていった。

彼らの陰謀説はさておき、わたしたちは法律に則ったサービスを受けている。その中にこんな一文がある。

『地域での自立した生活を支援することを基本に、 障害者一人一人のニーズに対応してライフサイクル の全段階を通じ総合的かつ適切な支援を実施する。』(障害者基本計画)

わたしのニーズはどこへいった???

だから次の事業所も紹介しないことになったと言って帰って行った。

2.区役所との会話 違法ではないのか

しかしその怪奇体験の翌日、もう一つ驚く出来事があった。

区役所である。

何も知らないうちにわたしがその事業所に迷惑行為をしたかのような言い方で、やたらとなじられた。なぜかわからないうちに、である。課長まで出てきて訳のわからないことを言う。あなたのせいで、という言い方なのだ。でも何がどうわたしのせいかもわからないし、いつの間にそうなっていたのかもわからない。なんかわからないがその事業所の言い分を100%信じたのだ。しかも、言いなりになって電話ですませばおけばよかったと言うので、数字がわからないし、障害があるから無理だったことはご存知ですよね、というと区役所はなんと忘れていた。

その後、わたしは心底失望した。

区役所がなんの障害があるか忘れた上に法律をすっ飛ばすのだ。なんなら変えていた。

一事業所が奇妙な話に基づいて都合よく話を作り上げることは起こりうる。メンツもあるだろうし、昨日の様子からしても彼らに被害者感情は異様なほどあった。

しかし、区役所はそれを100%勝手に信じていた。そしてわたしは「支援をしない事業所に問題があるのでなく、支援をする・受けるに値しない人」になっていた。


わたしの毎日「支援を受けながら生きていく勇気」はそれで見事に砕け散った。

つまりそれは今後生きていく気持ちを失った、と言うことだ。残念というレベルではない。生きる気力は生きる希望で生み出されるとするなら、わたしは生きていたくもなかった。全てが嫌になった。できないのに無理やり家の中のことをやらなければならなくなった。そのいちいちの場面でまた打ちひしがれた。わたしはどれほどダメな人間なのか、何もできない人間なのか、だからあんなことを言われても耐えろと区役所に言われてる気分だった。いい気味だとその事業所の二人や区役所に言われ続けている気持ちだった。

実際の不自由よりずっと辛かった。どんどん生きる気持ちが薄れ、何をするのも嫌だった。息をするのさえ。

3.そして今

そんな中、こないだもうヘルパーという仕事自体を辞めようかなと言っていたヘルパーさんがまた続けていきそうだという話を聞いた。

自分でも不思議なくらいに嬉しかった。純粋にいいニュースを聞いた、そう思って心があったかくなった。どうしてだろうかと思ったけど、彼女もほんの少し勇気が出たのかなと思った。

そしたら少しわたしも頑張ってみようかなと思えるような気がした。

不思議なことに。そんなこともあるのかと思った。もう光なんてないのかと思ったけど、あと少しだけ前向きに考えてみようと思った。そんな色々もまた人の繋がりの中で起こったことだった。とんでもなく悲しい思いをすることもあるけれど、嬉しいことはほんの少しのスパイスぐらいでも効き目があるんだな。

そんな助け合いもまた支援なのかもしれない。その中で生きているじぶんのことが少し肯定的に考えられそうに思えた。それが昨日の話だった。まだまだ勇気のかけらでしかないのだけれど。


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