スキップしてメイン コンテンツに移動

日々の考察vol.6 「善人であれ」という呪縛は善人によるとは限らない


レトロすぎるわたしなのだ



 環境ってなんなんだろう。

当たり前が当たり前じゃなかった、ということの衝撃。

よくそんなディストピア映画がある。

その時代には今ある「自由」が制限されていたり、そもそもそこの誰かに管理されていたりする。そういった作品を見て「ああいう世の中にしてはなりませんな」と思う人が多いのかもしれないが、わたしはいつもフラッシュバックを起こしてしまうのだ。既視感、それは「確実にわたしにはそこにいた経験がある」ということの恐怖を呼び戻すのだ。

そんな時期がわたしはとても長かったと思う。正直言って「バカみたいに」長い間そんな環境にいた。

逃げればいいのにといつもわたしは知っていたのに長く耐えることを選んだ。

「バカみたいに」耐えていた。

そんな時わたしにはいつも呪文のように自分に言い聞かせていた言葉があった。

ローマ人への手紙 5:3-5 JA1955

それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。 そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。


つくづくよくできていると感心する。なぜならわたしは、決して「このように考えて耐えろ」と言われたわけじゃなく、自らこの箇所を気に入って信じていたからだ。 

そう考えることがこの言葉どおりに「希望」だったからだけじゃなく、何よりクリスチャンの親にはウケが良かった。うまくそれなりに誤魔化せたのだ。わたしが本当はどう思っているかというわたしの気持ちを。わたしはずるく育ってしまった。

人から見ると本当に奇妙で情けないのかもしれないけど、親の感覚と子の感覚は全く別物で、これはきっと動物的本能として子は親を絶対視する。特に幼い時にはそれが全てだ。どんな親も変じゃないものなのだ。だから成長していく時に、親に対する批判的な心情が生まれると、罪悪感も抱く。特にわたしの育った家のような支配的な親子の間では、そういう親と違う意見を持つことそのものは、同時に死に値するほどの恐怖を伴うことだった。

非常な表裏のある親を見て知っていたし、正直に言えば自分がそうなりたいとは全く思わなかったが、段々と自らの本当の気持ちを隠すうちに、「取り繕うことが上手すぎる子ども」に仕上がっているのも感じていた。生きるためとはいえ、そんな選択をしている自分に吐き気がするほど嫌悪感を抱いていた。

もっと早く人生を諦めてしまうことは、当時のわたしにとってある意味でより簡単だったのかもしれない。

でもそんな時も先ほどの呪文に希望を託していたのも事実なのだ。あの文章をまた繰り返しながら耐えること、そこにだけ希望を持っていた。

筆舌に尽くしがたい、とはきっとこういうことだろうと自分でも思うくらいに毎日が辛かった。そんな時間について、今のわたしが感じるのは「奪われた」という感覚だ。

人生の40年以上を奪われたという残念な思いは、それに気づいた時から始まる。

そしてそのショックは、身近な人を亡くすほどにこれまた辛い。だって自分だもの。誰より近い存在である。少なくとも幼い時から長らくわたしは半分以上死んでいた。


これからのわたしは、自分が納得するものを並べた部屋で、自分が好きなことをして納得して楽しんで生きたい。そんな空間に住みたいし、時間を使いたい。そしてきっと自分でも見てこないままの傷をゆっくり癒やし労りたいのだ。わたしは今、自分のこれからにまずは、それだけを望んでいるだけなのだ。

いつも家族に関することはわたしにはあまりに複雑で、あまりに遠い。カオスだった。


コメント

このブログの人気の投稿

メディアの沈黙と、歪められた現実:ジェンダー問題報道の闇

  日本のメディアは、ジェンダー問題を歪曲し、隠蔽する役割を果たしている。 長年、男性中心の社会構造が根付いた結果、メディアもその構造を反映し、女性や、マイノリティの視点、そして、被害者の声を無視する報道が繰り返されている。 これは、単なる報道姿勢の問題ではなく、社会構造そのものの問題である。 特に、性犯罪や、セクハラといったジェンダー問題において、メディアの偏向報道は顕著である。 被害者の証言は軽視され、加害者の言い分が強調される。 被害者のプライバシーは、まるで公開処刑のように晒される一方、加害者のプライバシーは、徹底的に守られる。 この不均衡は、メディアが、男性中心的な価値観に染まっていることを示している。 例えば、中居 フジテレビ事件を報道したケースを考えてみよう。 報道は、加害者の地位や、権力に焦点が当てられ、被害者の苦痛や、損失は、ほとんど「人権への配慮」という言葉によって無視された。 加害者側の釈明は、詳細に報道された一方、被害者の証言は、断片的にしか伝えられなかった。 この報道は、視聴者の共感を、加害者へと誘導する効果があった。 結果として、被害者は、二次被害に苦しむことになった。この場合の二次被害ということについては前項を参照してほしい。 これは、単なるミスや、不注意ではない。 メディアは、意図的に、ジェンダー問題を歪曲し、隠蔽している。 視聴率を上げるため、あるいは、スポンサーの意向に沿うために、事実を操作したり、都合の悪い情報を隠蔽したりする。 女性や、マイノリティの視点、そして、被害者の声は、都合が悪いから、無視される。 この男性中心的な報道姿勢は、社会全体に悪影響を与えている。 女性や、マイノリティは、声を上げにくくなり、ジェンダー不平等は、ますます深刻化する。 メディアは、社会の鏡であるべきだが、日本のメディアは、その鏡を歪ませ、社会の病理を隠蔽する役割を果たしている。この場合のメディアというのはテレビや新聞のみならずネットメディアというものですらそうなのだ。 メディアの改革は、この社会全体の改革に不可欠である。 ジェンダー平等を実現するためには、メディアも、その責任を自覚し、女性や、マイノリティの視点を取り入れた、公平で、正確な報道を行う必要がある。 そして、私たち市民も、メディアの報道内容を批判的に吟味し、ジェンダー平等に対す...

おっさんと揉めながら生きる〜嫌になるけど楽しい毎日から〜

まず私はおっさんによく嫌われます。あらゆるところでおっさんに嫌われるんです。実はおっさんはあらゆるところにいるんです。 例えば私は嫌なことは嫌だと言います。 生活保護の窓口で、こう言うことを言われたことがありました。 「自己責任で全てやってください」 わたしはこう言いました 「生活保護というのは政策として重要な公助の部分をになっています。それをやっているあなたが自己責任で全てやれというのはあなたの業務そのものを冒涜していることになりますけどいいのですか」 意外と私、そういうことも言いますのよ。そんなアホみたいな話があるかと思ったんでムカついて言ったんです。黙ってられるかいな。アホくさい。 そうすると生活保護の上の方のおっさんに嫌われるのです。 こういうふうに言い返す生活保護受給者はいないと彼は思っているんです。なめたらあきません。そういう偏見のある職員のことをおっさんと私は呼ぶのです。いるでしょ?そういうおっさん、あちこちに。 もちろんその上の方のおっさんであるからと言って空気は読まないです。彼は私の上司ではありませんし。 私はいつも意味のないおっさんの意見に振り回されず、その説明もしっかりとしますし求めます。この時のように。 おっさんは私を馬鹿にしたいみたいですけど、私はおっさんを嫌いなだけで馬鹿にはしていません。アホみたいなことを言うなあと思っているだけです(笑) 私は障害者で生活保護を受けて生きていますが、結構そういう生活を工夫して楽しんでいます。お金がないなあということが多いのは事実です。だから野菜を育て始めました。そしたら面白くてハマっています。 こうやって面白そうに暮らしているのがおっさんには嫌みたいで嫌われやすいです。実際に近所の何かしら不自由が生まれてきたようなおっさん、例えば近所に住む、定年になってやることがなく怒ってばかりのおっさんにも嫌われましたし、支援を受けることなく糖尿で透析に通っているおっさんにも嫌われました。どっちもD Vっぽいおっさんでしたわ。 私はおっさんが何かを我慢しているから私にも同じく我慢して苦しめと言っているように思います。 でも私はそうしません。やることもいっぱいあるし、考えたいこともあるし、支援も受けています。そうやって楽しく暮らせるようにしているのです。全く我慢がないとは言わないけれどそれを少なくする努力をしているとい...

ヴィーガンに貧乏人はいない

  環境問題について、昔からずっと思っていることがある。 その理論の基本はわたしたちが住む地球のすぐ先のこれからについてのものであるから、あくまでも全人類が自覚的にしかも早急に取り組むべきなのだという、重大な問題であるという。 しかし、ここ日本だけでなく、どんなに自然災害を体験しても、目撃してもそれが普遍化することがなかなか起こらない。懲りたと言う人たちでこの世の中は溢れていくのに、なぜそういった感覚にならないのか。そういった運動につながらないのか。 特に日本において、自分の身に起こる不幸は、自分や身の回りの誰かのせい、と言う程度の認識に収める人がほとんどである。そのうちの特に多数の人たちは、たとえ自然災害ですら自分のせいのように考えてしまう。被害の跡をなんとかできない自分たちの資本力のなさのせいだと考えたり、時には先祖への弔いをきちんとももっとすべきだったなどと考える。場合によっては、自らがいかに悲惨な状況下にあっても、遠方の家族に世話になることを申し訳なく思って拒否する例もあるだろう。 そういった社会において、環境問題を普遍化することは、非常に困難である。 一つは今述べたような、さまざまな問題に出会った時に、それが環境に起因する問題であるという認識を一人ひとりが持つように社会的にできていない。これは構造的な問題だけでなく、文化的な背景も大きいとわたしは考えている。 ことに日本において、環境問題の被害者になることは、ただの運に過ぎないことの方が多い。 そしてその被害者は悉く社会的に貧困層として存在する。 たとえばドイツの財政難は、環境保護対策に様々な形で影響を与えている。 以下、簡単にその考察を述べる。  ドイツの財政難は、環境保護対策に深刻な影響を与えつつある。  再生可能エネルギーへの投資減少、原子力発電再稼働議論、環境規制緩和圧力など、様々な課題が浮き彫りになっている。  これらの課題に対処するためには、持続可能な経済モデルへの転換、国民への丁寧な説明と合意形成、国際協調の強化などが不可欠です。  短期的な経済的利益と長期的な環境保全のバランスをどのように取るかが、今後のドイツの環境政策の成否を左右する重要なポイントとなる。 もうこのように、環境問題というのは厳しすぎる現実にぶち当たっている。 現実といえば、貧困層の人は...