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日々の考察vol.7  怠惰と無気力・無関心=区役所の「お仕事」とはなんだ

右京区役所


今わたしは京都市右京区に住んでいる。

一人暮らしで引っ越しを何度かやったので、その間に出会った役所もこれで3つ目である。

右京区は引っ越した日から異常だった。

手続きに役所に行ったらいきなり窓口の男性職員が怒鳴った。

意味がわからないが、そんな人とは話せないので帰った。そんな態度の職員はこちらが相手にするべき人だとは思わなかった。

それ以降も、意欲的だった最初のケースワーカーは心を病んでケースワーカーになりたかった自分ということすらを諦めてしまった。漏れきく「上司」の異様な振る舞いは、こちらまで伝わるほどだったし、当時の係長はそれに準じてか知らないが、かなり高圧的、感情的にちょくちょく電話などに登場した。その異常性を隠すことなくカンファレンスでも披露して、今年度「移動」して行ったそうだ。

発言のいちいちが変な人だった。完璧な「さよならオッサン」案件だった。

で、その後改善されたかというと、そうでもない。障害保険福祉課の方も一貫してるのが、あまりに杜撰であるということに尽きる。極端なずさんをするために仕事をするかのような毎日を繰り返したせいか、責任感もないし、どんどん自己満足という目的のための勝手な理屈は膨張していく。そしてそれをこちらに強要する。その度に、「そもそもそれは法律違反であるから簡単にOKしてはならない」などとこちらから指摘しないと動かない。なぜ行政がこれほどに条例や法律を知らなくて間違うのか。

こんなに伝統的に怠慢とただの自己満足が蔓延している区役所をわたしは他に知らなかった。

これで仕事ができていると思っているのか、と呆れてしまう。

例えばどこかの福祉サービスが区役所に電話して「こんなことをしたくない」と『やってはならないこと』を主張する。

それを役所がテキトーにハイハイということで、後々大きなトラブルになり、役所じたいも仕事が増える。

それをいちいちこちらが伝えきいて、区役所にまた電話して「簡単にOKするな」と叱り、後始末を役所がすることになる。

こういうことをしておいて「私たちは忙しくて」という。

こんな凡庸なプレイに付き合わされる方はたまったものではない。こっちこそ暇ではないのだ。そして京都市の財政が危ないのかそうでないのかすらいまいちわからないのも、こんな仕事ぶりでは当然だし、このままではもれなく破綻するだろうと思う。

こういう「仕事」という言葉すら市民と共有できないだろう程度の人たちが恐ろしいことに京都市の会計をやっているのだ。だからもちろん無駄使いもするし、何が間違いかもわからない。自分達のやったことを修正する能力がないのだ。

元々京都人の特徴として、他人のことにあまり触りたがらない癖があるが、公務員が業務上そのノリで無関心を決め込んでどうする。

彼らの給料こそ無駄使いである。意識が低いという程度ではない。

一時非常に偉そうな職員たちが生活保護課にいて、すぐに怒鳴っていた。

「受給者がいちいち困ることには一切対応しない、言いたければ市長に言ってくれ」という言葉を誰が言い出したのかわからないが、勝手に課内で流行らせて言いまくっていた。それがいかに滑稽な言い分かもわからず、その度に相手が「こいつは何を言ってるんだ」と一瞬黙ると論破したかのように満足していたようでしつこかった。だけど、それをたまたま他の支援者が集まる場でも係長が堂々とやったので結果的に多くの証人を生んでしまった。彼らは口々になんだあの上司は???と呆れてしまった。当然である。

井の中の蛙のその後とも言えるような、とても間抜けな顛末である。

何度かその異常性を京都市にも訴えたが長い間まともな調査すらしなかったしこれからもだろう。責任感のなさだけは同じなのだ。「知らんし」とでも言いたげな口調である。

そんな程度の業務が、基準になるならもう京都市は破綻している。人として破綻し、人の集合体として破綻し堕落している。

ズボラ、とはこういうことなのかと毎回思うが、相手にするのも面倒である。横についていてリマインダーをしなければならないような頼りなさしかない人に、「行政」と呼ばなければならないことの矛盾。

これはデフォルトになって総入れ替えをするしか道はないのではないだろうかと最近思う。もしくは、政令指定都市であることをやめてはどうか。

彼らには京都市を守ることができなかったしこれからもできないのである。

最近「知らなかった」と威張る人がいるが、知らなくてはならないことを知らなかった場合、それはただの怠慢である。決して威張ることではない。そこからいちいち言わないとわからないのであれば、少なくともオリエンテーションで何を共有してきたのか。

「働くとは何か」から言わなければならない年上の人がいる、と嘆いていた若い方がいたが、本当にそんな人があまりに多い。どうしてなのか、本当にわたしにはわからない。

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