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日々の考察 vol.13 障害者の障害とは何か、動物園のフェンスのようではないか

 



わたしが人と接するときに守っていることというのが3つある。

先入観をなくすこと。

相手の存在を信じて人生を尊重すること。

そして謙虚に敬意を払いながら接すること。


それを踏まえていればそれほど大ごとは起こらない、そう思っていた。

しかし、なにぶん友人でもない相手とのコミュニケーションになることが多く、なかなかそうもいかないのが今のわたしの毎日の生活である。

だからそう言った問題を起こす人の大方の言動は、一方的なわたしの生活への侵入であり、そう言った侵略的な行為を平気でやるオッサンというのは意外と多い。

わたしはこのような事態に直面するたびに、一体そんな人がなぜこの福祉サービスという業界に存在するのか、と毎回頭を抱えるところから繰り返すのみなのだ。

そして、そんな時にいくら他事業所が入っていても、予防的なこともなければ、臨時の対策も講じられないのもこれまた現実なのだ。必要な積極性が時として失われてしまっているその事態もなかなか表面には出ないが、隠れた大きな問題ではないかとわたしは思っている。つまり、突然の事故などで危篤になったとして、そこにどれほど人道的なモラルが発揮できるかは、あまりにも不確定だ。わたしたち障害者という存在からみて、これほど身近で遠い存在もなかなかないだろう。

これではあまりに脆弱で、とても健康的に大きな問題を抱える人の支援としては危険すぎる現状ではないのかと思いが至ると、一人の当事者としてこの福祉の現状はただ悲しくてならない。

まるで当事者が作り上げた福祉サービスを、無神経な侵略者に乗っ取られたような気持ちである。それほどに支援を受けていることそのものの情けなさを実感させることもないのにと実感するしかできないのだ。現場としてはあまりに残酷な問題である。


こう言った一つ一つは「命に関わる」という意味で限りなく犯罪性の高いものであるが、なぜかこれまたそういう扱いにならない。いちいち当事者が裁判所に訴えないとならないほどに放置されたままなのだ。これが一番わたしが生活していてわからないポイントだ。支援といえば犯罪も許されて捜査もされない。それが日本の福祉の現実である。

そりゃ子どものいじめもなくならないはずだわ。

さらに正直に申し上げるなら、その捜査ができるであろう行政も見逃すし、なんならこれも一つの口減らしではないかと思っている。公に「お金のかかる社会的弱者が減ればいい」とは言えないので結局虐待的な人や団体に「支援」という理由をつけてそれをやらせる。これが行政の本音のところではないかと冷静に思うに至った。そして何かが起こっても「悪気はなかった」という「理由」で「仕方がなかった」ですむのである。結局福祉業界において、人の命ほど軽いものはないという逆説が成り立ってしまうのが現状である。

マイノリティはこの世に必要ないというマジョリティの勘違いに基づく理由があれば、なんでもありな出来事の多い、わたしの毎日にも辻褄が合う。しかし、これはわたしたち当事者にとっては異様なまでの脅威であり、日本の高齢化社会という将来への脅威でもあるのだ。

少なくとも、今の支援のあり方は将来への希望とは言えない。むしろ前進より後退でしかないのだ。

そもそも「障害者」という言葉にも障がい者とか障碍者とかいろんな表現がされているけれど、わたしに言わせてもらうなら、それも単なる表現という上澄みの議論でしかない。

根本的に誰の何が障害となっているのか、障害があるのは「障害者」本人の中なのか、はたまた社会の方なのか。障害を壁とするならその壁は一体どこにあるのか。わたしはこの議論が、根本的にモラルの問題として日本の社会に欠落しているので、このような迷走も許してしまっている気がするのだ。社会的に寛容さもなく責任感もなければ、福祉サービスは破綻するしかない。

今は、ただ、心ある事業所のただの善意に支えられているに過ぎないのだ。

そもそも福祉サービスというのは、なぜ法律で保障されているものなのか。その構造的な考察と理解が支援する側に知識として圧倒的に足らない。それもなぜか大学で福祉を学んだようなものに限って異様な勘違いを起こす。わたしは大学で一体何を教えているのかと毎度頭を抱えるしかない。

しかもそういった人は、無駄にプライドだけが高かったりするので、関わる人がみんなとても迷惑する。見苦しい振る舞いを見る限り、わたしは、そのような方々にインテリジェンスのかけらも見たことはない。彼らはただ根拠なく威張るためだけに大学に行ったというのか。実に授業料が勿体無い。そのアンバランスな姿はむしろ滑稽であるのに、彼らは猛烈な自己満足だけで推し進めてしまうのだ。

社会的な責任とはなんなのか、共助とは何か。その考え方も理解せずに、口だけ「支援といえばいい」というような枠に入り込むと、自覚なく支援する側のわがままを通すことで結局当事者の側に助けてもらうことになっている人というのが生まれることになるのではないか。

今時は何を教えているのか役所にも「自己責任でしょ」を連発するような公僕が割といる。

その発言ではその自己矛盾がひどい話になっているのだけれど、それには気づかない。聞いているわたしは威張る内容かと思うが、あまりに不勉強すぎる。そんな方々に「公助というのが何かご存じですか」といちいち教えてやらなければならないなら、いっそのこと採用のところからこちらにも見せてもらいたくなる。そうしないと馬鹿らしくてやっていられない。

そしてそれ以前に自分の言動に対しての客観的な振り返りもできない人が、わたしのいうオッサンに当てはまる。オッサンは本当の反省を知らない。だから修正もできない。

しかしこのようなタイプの人は、そうやってわがままに育ってきたりしているので、まともに振り返ったことがないのかもしれない。だから当然のように「振り返って何がいけなかったのか言いなさい」と言われてもやり方がわからないのだ。誤魔化し方ばかり覚えて自分を見失ったままでいる。自分の失敗をいつも他人のせいにして生きてこられたのだ。きっとそのような方が自らを振り返ることは、自らが絶対的な「正義」であることを否定することになるのであるからとても困難なことになる。良し悪しや自覚のあるなしは別としてそれはオッサンのアイデンティーの崩壊になるからだ。

というわけで、何度も申し上げてきているが、オッサン問題は社会の構造的な問題である。

そして今新たな概念が流行している。「多様性」である。

本来、多様性という課題が検討されるべき、弱者の側の論理ではなく、「どんなやり方でも支援は支援」というような形で誤解しているものたちの多いこと。いい加減にしろと思う。上っ面でわかったふりをされるのはただの迷惑である。役所が「個人情報」を本人にも連発する愚かさに似ている。一定以上の権力を有するものが多様に自由であるということになるのは、最悪なだけである。総理大臣がコロコロと人が変わってその度に話が変わり、言い訳として「多様性ということで」などということは許されないのと同じである。

いい大人が受験の勉強のせいなのか、答えのでないことや、他者の事情や希望を考え合わせる能力もない。想像力もなぜか欠落している。つくづく嘆かわしい。

そしてこの社会では、そんな全てを圧倒するように極めて「一方的な正義」が支配しているのだ。

本来「人の家で勝手なことをしてはならない」という多いに常識的な話が、このようなオッサンにはなぜ理解できないのかと思うと同時に、もしこれが施設だったらこれ以上どこまで勝手なことが罷り通っているのかと思うと、猛烈な恐怖に襲われる。

以前「オッサンは再生産される」とわたしは書いたが、我が家ではまた新しいオッサン問題が起こっていてその人はまだまだ若手の30代前半である。

わたしは、この問題は永遠なのかもしれないと深いため息をついた。

少なくとも支援する際にそのことで「自分ならどう思うか」というくらいの想像力をつけてほしい。

わたしは今まで幾度もそう言った疑問を支援をする側の方に直接投げかけてきたが、以前聞いた「もしわたしが支援を受けているなら黙って従う」というような返答には呆れた。なぜ「支援を受けるなら」という条件付けをするのか。なぜ「支援を受けること」が必要以上の「我慢」をする理由になるのかの根本的なわたしの疑問に答えていない。

わたしが聞いているのは、「今のあなたがそのような扱いを受けたらどう思うか」ということである。

例えば、「今のあなたは毎日入浴していますが、それを週に2回と言われたらどう思いますか」という疑問を「支援を受けるならわたしは週に2回にします」と答えても意味がない。

「支援を受けているならこれを我慢するものだ」という強迫観念にも似た思い込みをもう少し一般の常識に変更してくれる世の中であってほしい。

同じ人間ではないか。むしろこちらは病人でありさまざまな事情がそこにある。

もう少し敬意を払ってほしい。わたしはそれなりに頑張りながら生きている。だんだんとその頑張れるパワーも無くなってきている。そんなわけでわたしは生きていく自信をなくしつつある。

一体わたしは何を何のために、そして誰のために頑張っているのだろうか。




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