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日々の考察vol.9  それでも支援を受けるべきか、もう生きることを諦めるべきか ほんの少しのわたしの歴史について

 誰のせいでもないことを驚くほど簡単に人のせいにできる人というのがいる。

自分の怠惰を人のせいにできる人がいる。そういう人がなぜかこの福祉業界にいる。しかも多い。

こういう倫理的な常識がなくても態度が悪くても、福祉の世界の健常者には重宝がられる。もちろんその度に、いかにこちらが迷惑しているのかいちいちわたしは言ってきていた。

でもそんなことはまともに聞き入れられたことなどなかった。

いまだかつて、そんな事故や事件は「運が悪かった」ということで忘れる方がいいかのようにあえて見過ごされてきたのだ。

食い下がると生活保護はわたしに引っ越しを勧めた。毎回わたしの引っ越しは、怠惰な行政のために繰り返されてきたのだ。

いつの間にか、支援の中心は当事者じゃなくて支援する者次第に変わってしまっていたのだ。

気がつくとわたしの生活はそういうものでしかなかったのだ。

1.ほっとハウス

宇治市にいたときは、わたしの部屋を荒らしたほっとハウスという事業所が元に戻さなかったので、なんとかするように言い続けた結果、彼らは遺品整理の業者を寄越した。

その結果家にあるものを片っ端から処分してしまい、毎日の暮らしにも困るようになった。もちろんいちいちの場面でわたしは市役所に困っている旨を話してきたのだ。でも市役所は何もしなかった。あまりに困ったので急遽色々と買い揃えなければ生活できなくなったわたしはその費用をほっとハウスに請求した。当時の金銭管理をしていた社会福祉協議会{社協}にもその件を話して払うよう働きかけるようにいった。彼らはほっとハウスに支払うように言うだけで折り返しの電話すらなかったと言って放置した。実際に最後まで支払われなかった。その挙句、購入先の業者からの請求が裁判所にまでいくことになった。社協はいち早く「自分達は関係ない」と言って付き添いにもこなかった。

一人で裁判所に行き、相手に言い訳のようになるが、と前置きをした上で以上の事実を話した。相手が驚いて「金銭管理の方はどこにいるんですか」と言った。「関係ないのでこないと言われた」というと、そこにいた人たちがみんな驚いていた。そんなことがあるのかと。

その後しばらくして、市役所の障害福祉課と生活保護、金銭管理の社協とだけで話し合った。

その結果「宇治市であなたにできることは何もない」と電話で言われた。担当の職員にすら電話を繋がなくなった。

それからわたしは京都市に引っ越しを促され、宇治市を離れることとなった。

当時、ほっとハウスには、京都府と宇治市から多額の助成金を得て、ショートステイを作らないかと声をかけられたことで総額一億円の新事業所を建築する話があった。まさにそれが建築中に起こった出来事だった。しかも、その助成金には条件があって「今年中に建築を終わらないとならない」と言うものだった。だから、その年はあらゆる行政が助成金を出した事業のためにほっとハウスを優先しているのは明らかだった。ほっとハウスを「失敗」させるわけにいかなかった。そのためなら何があっても彼らのやることに市役所もどこもかしこも味方するしかなかったのだ。新事業所が無事にスタートするためなら、障害者の一人くらいなんとでもなるし自分たちがそうしてやる、そう言うことなのだろう。


こんなことがあってわたしは宇治市を離れた。京都市ならもう少しマシなのではないか、そう淡く思ったのだ。

2.生活保護

でも蓋を開けてみれば京都市には、宇治市ほど明確な別の目的などなかった。ただ、怠惰なだけだった。市職員が堕落し、業務を区に丸投げしたいだけで総じて無責任だった。

まともな対応とは何なのか、わたしにはいまだにわからない。彼らが示せないからだ。上京区では生活保護のケースワーカーが訪問をしたくないために「引っ越しして」と簡単にいった。わたしはまた引っ越した。右京区に来たら、激しく下品な区役所の職員が多くて驚いた。窓口で平気で怒鳴るような男ばかりだった。口をきくのも嫌だった。

彼らはどの課も業務を相当に間引きして「右京区ではしません」と言い張ってなんとかなると思っているようだった。障害保健福祉課も日々業務をできない人が増えており、今は会話もできない状態だ。異常だと思う。電話での会話も困難な状態の人が区職員としていることの理由が、「人手不足」だそうだ。そんなことならいない方がいいとは思わなかったのか。彼らにはその判断も出来ないようだ。

3.まごのて中京

そして、右京区に引っ越して始めにまず、すべての支援時間を担当していたヘルパー事業所「まごのて中京」が一方的に支援を半減させた。理由は気が荒すぎる社長の妻の逆ギレである。一人でキレて自分の事業所を「やめてくれればいい」と言う目的だった。そのための嫌がらせなのだ。他事業所に変えることはそんなに簡単なことではないとわかっていたので、来ていたヘルパーさんが、「こんなことをしていたら死んでしまいます」と何度も訴えたが無視されたそうだった。当時のヘルパーさんたちはその後みんなもうここを辞めている。

当時この最中もわたしはこの件も区役所に報告し続けていた。こう言う件の担当だという市役所の虐待通報の窓口にも相談していた。街中で車椅子のまま放置されたこと、車椅子を壊されtこと、玄関の鍵を紛失したままであること、支援時間が足りないことなどなど。でも市役所は「100%支援時間は来ている旨の書類がまごのて中京から出ている」と言って「あなたの勘違いでしつこくするな」と言われた。市役所は区役所にある証拠の数々すら調査しなかった。のちに区役所の係長が市役所に資料を出すから見てくれとずいぶん働きかけたが無理だったと謝罪の電話をくれた。

当時のヘルパーさんはわたしに「とにかく命だけはと思って来ています」と言った。

この結果、市役所は調査をしないままで「虐待行為はなかった」と決めた。理由は「言い分が違うのでそれはカウントしない」と言うことだったそうだ。

「和解の場を設けられるように調整します」と市役所が言ったが、それもまごのて中京に拒否されたそうだ。「強制力がないのですみません」と市役所は言った。一体彼らは何がしたかったのだろうか。市役所の判断とはこの程度なのである。

4.その他大勢

宇治のほっとハウスも、京都市のまごのて中京も、一度もまともな謝罪をしなかった。

こないだの補助人も、今回のDOORSもまともな謝罪をしなかった。

それでも支援を新しく受けざるをえないわたしの家には入れ替わり立ち替わり異常な人がやってくる。きっとこれからも。

そんなことがあるたびにわたしは水に流すかのようにまるで何もなかったみたいな顔をして、新しい人たちを受け入れていく。

わたしが何にも傷付かずにここまできたと本当に思っているのだろうか。なぜ、障害者は嫌な記憶も飲み込んで次に向かうことができると思っているのだろうか。

本当にこれらの出来事は、支援を受けるなら仕方がないと言うようなレベルの出来事だろうか。

しかも彼らはまだゾンビのようにあちこちで支援を続けている。決して潰れたわけじゃない。まともに叱られてもいないわけだから自信すらあるだろう。


でも彼らは、一体誰のための支援をしようとしているのか。

わたしのこれらの傷は、そんな事業所や人の支援を受ける中でできたものだ。もしこれが当たり前だと言うのなら、誰が望んで支援を受けると思う?

この結果、まだわたしが行政を信じなくてはならない理由はある?

どうして彼らの話をまともに聞くと思うのだ?図々しすぎないか?

こんなことばかり起こって、わたしは以前のPTSDの傷も傷んでいくし新たにまた病んでいく。傷は確実に増えていくのだ。それはむしろまともな話ではないのか?

今後どうしたらいいかわたしにはわからず途方に暮れて立ち尽くしている。この期に及んで誰を信用できると言うのか。

少なくとも今のわたしには、支援じゃなくて癒しが欲しい。こういった傷の数々を、を心の底から癒すことを求めているのだ。



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