このところ、いわゆるフラッシュバックというもののあまりの連続に発狂しそうである。
わたしの部屋で夜を徹して行われた父と母からの折檻の光景、その後に必ず迎えた朝の光景、助けに階段を登ろうとしては止められてしまう祖母の存在、そんな毎日をただ耐えている時に感じた無力さと絶望。
繰り返された「お前は必ず他人に迷惑をかけるから何をするにも絶対に他人を巻き込むな」「どうせお前の考えることはろくなことじゃないから、好きに生きていけると思うな。そうしてもそう思うなら出ていけ」「授業料をこっちは払わなくてもいいんやぞ」
今もわたしはきっとあの絶望の空間にいる。あのいちいちの発言でわたしは毎回心を削り落とされたし、きっともう今はわたしの心というものは残っていない。結果的に破壊されても仕方がなかったと改めて思うのだ。そんな言葉を、わたしは本当にしょっちゅう夜から朝まで土下座をしながらきいていた。わたしと父との会話を全部足したところで、わたしが土下座をしないで話した時間の方がきっとすごく短いだろう。それくらいにいつも必ず長時間にわたってであった。
ずっと「じゃあなぜわたしはこうやって存在しているのか」と疑問だったが同時にその「答え」もその時両親は口にしていた。
「神様から預かったと思うから育ててやっているけどこんなんじゃどう顔向けできるのかわからん、こんな子で恥ずかしい」
自分でも不思議なのだが、この発言を当時(中学校から大学に入ってしばらく経つまで)何度も聞いているうちに「親としてなんと無責任な表現なのだろうか」とだけは思うようになってきた。口には出せなかったけれど。あ、一度高校生の時に担任の教師にあまりにも不思議だったので、その疑問をぶつけたことがあった。今思うと、その担任は、前提としての情報がない中で「神様」のくだりだけを突然言われても、きっとわけがわからなかっただろうと思う。でも掴める藁を探していたわたしとしては、また周囲の大人を諦めていくことになっていた。
そんな数えきれない体験を通していく中で、結果的にわたしはひとつの法則のようなものをゲットしてわたしの心の奥底に敷いておいた。
「人間と人間関係は信じるに値しない」「本人の都合でいつでも裏切る」「自分と接しているときに見えている人柄が全てではない」そして人間というのは「所詮その程度の動物である」
もはやそれは怖いという感情ですらない。いわゆる人間(希望的観測の元に語られる「人間」というものには特にだけれど)には興味も何もない。もちろんわたし自身に対しても同じだ。
そんな価値観がわたしの中でどうしても揺るぎない。
ここまでだと、わたしがただ冷たいだけの人でしかないが、わたしを形成するもうひとつの大きな軸はキリスト教の影響だ。価値観というのは意外と何かの選択の経験でできてきたものではなく、「こうすべき、こうあらねばならない」という強迫観念として現れる。特に宗教的なものはそれを煽ることで信じることそのものの影響力を持つ。
そういう物凄いパワーを持つパーソナリティへの「刷り込み」と先に述べた暴力的支配の複合した環境がわたしの育った家である。
両親は「神様のため」という大義名分があった。当時わたしはそこにいない「神様」は本当にこのことを望んでいるんだろうかといつも不思議だった。言わなかったけど。正直に言ってその「神様」とじっくり話したかったが、そうなるととにかく「祈れ」となるだけなのでその辺りがもどかしくて仕方がなかった。いつだったか、かなり初期の頃に「その神様ってそんなふうに本当に思っているんですか」と聞いたがその後えらい目にあった。根本的にまず口答えが許されなかったのを忘れていた。「疑問があるなら言え」というから言っただけなのだが。
とにかく当時、わたしは両親にたくさんの疑問があったにもかかわらずそれを言葉にすることを許されなかった。
実はこれも今思い返してものすごく辛かった点だ。実は今わたしの自覚している当時の状況への感情の一番は、このもどかしく発言を許されない理不尽な状況にいたということそのものだ。
つまり答えをもらえなかったクエスチョンマークがあまりに多いこと。それは怖いとかいう感情よりももっと今わたしの中で印象が強い。どうしてそういう順番になるのかはわからないけれど。
家族だからか、なんなのか。他人ならどうなのか。もっと冷たいものなのか。
きっとずっとそんなモヤッと感がいつもいつも人と接すると必ずある。
でも本質的にわたしはそんな時間が不思議なことに嫌いではない。ああだこうだと立体パズルをバラしてしまう前にひっくり返したりしながらこれはこういうことなのか、赤の裏はこんな色なのかと考えるような時間のことだ。そういう時間にいつも意味があると思っている。答えのないことをいかに考えてみることができるか、どれほど多くの視点からを想像しうるか、そういうことの先に人間ならではの成長や進化があるとなんとなく信じている。
だからわたしは人間という生き物をヒトとしては好きである。
でもそれ以上でもそれ以下でもない。犬や猫のそれぞれのポテンシャルのように人間にもポテンシャルがあると考えた上で、それをわたしというヒトも粛々と生きるだけである。それがきっと生物学的な部分においても、1匹の生き物の宿命のようなものなのかもしれない。
言ってはなんだが「所詮1匹のヒト」という考え方はその実態が分かりにくい「神様」よりもっとシンプルな存在なのもお気に入りポイントである。
ただ、過去についていうならば、答えのない一方的な時間があまりにも長すぎた。そして強烈すぎた。
そこで傷つきすぎたのだ。それだけ。
生育歴というものは、圧倒的なまでのただの「不運」でしかないというには、まだ傷が残りすぎている。その痛みに時としてあまりに耐えられなくなる。それもまた生物として当然なことなんだと思う。そしてそのことにはあくまでもじっとじっと耐えるだけしかないのかと、そのことにちょっとこんなふうに嘆いてみたりしているのだ。

4匹で生きていくという考えでしぶとく生き抜いていこう。
返信削除thanks, skop! 本当にそうですよ。あくまでもわたしは管理人でしかないといつも思っています。
削除