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科学はおっさんのものなのか 『キング・オブ・クローン』netfrix

https://www.netflix.com/jp/title/81516199


学者バカという言葉がある。
決して褒め言葉でもない、結局のところ、極めて既存の男性的な狭い了見で好きな分野だけしかものを知らない人のこととなるのだろう。研究対象のことしか知らないような人。
まあ、おっさんに多い。学者でもないのにそもそも狭い世界観でしかものを見れなくなるようなこと自体がおっさんの感覚でしかないから困ったものだ。しかもその狭い自分の世界に対して無駄に高すぎるプライドもあったりするから非常に迷惑なのだ。

このドキュメンタリーのおっさんもただの学者バカである。「科学者として当然のことです」と何度も彼は言うが、その前にあなたは人間でしょうが、と見ていて思った。勝手に「科学者」と言う言葉をカテゴライズして、印籠のように使う時点で彼は本来の意味での「科学者」としてダメなやつなのだ。だと言うのに、なんという傲慢さだろうか。

つくづくおっさんという人たちは折に触れて自分の言動の正体について考えてみるべきなのだ。日本は「専門家」ばかりで細分化した縦割り文化であるとわたしは思うのだけど、そうやってお互いの分野にあまりにも関与しないことばかりをやってきたから、他のおっさんの不正に甘い。「よそはよそ、うちはうち」とも言わんばかりに。社会的構造がそうなったまま結構長くなってきたことで、おっさんは連携することが非常に下手である。変にプライドばかりを刺激しあったりしてしまい喧嘩になるか、それが嫌すぎて関与しないという力が働いてしまうのだ。結局自分を守るために他者に関わらない、そういう内向きで狭いところで生きるしかないことを自ら強いるのがこの国でもいろんな団体のやり方になっている。

小さな組織になればなるほど、小さな権威しかないから無駄に大きく見られるためか、暴力的なおっさんがいたりする。
わたしが若い頃までは、当たり前に男性だけがリーダー役を買って出るものだった。優秀なのはいつも男性だと言う幻の歴史的な刷り込みによるものである。

そんな男性の生き方を見てみると、たいてい異常なほど生活にまつわる部分の能力が欠落していることが多いと思う。幼少の頃は母親が、大人になれば妻が、など過程の時点で既に主に女性の誰かがいないと生きることができない。「妻の支え」というが、それはつまりれっきとした支援とも言えるだろう。現実的な話、自分の生活を自分できちんとできる男性で、好きなことを好きなだけできている人うのは極端に少ないだろう。仕事を選ぶ時ですら、自分が生活していくということそのものと並行して考えてはいない。
将来の子どもが欲しいということを当然にいう男性もいるが、そこにまるで「ぽっと落ちてくる」かのような気楽さというのを感じるたびにわたしは「自分で産めばいい」という呆れる気持ちが混ざりながらつい聞いてしまう。子どもはAmazonで買えるようなものではないのに、時にはそんなふうに聞こえるから不思議だ。

いろんな人の中には、自分はよく知っているからよくわかるとよくいう人がいるが、それは違う。
どんなにわたしの抱える疾患が痛いものだと知っていても、その人が同じように痛くなるわけでもない。せめてそれくらいに違うものだということを知っていてほしい。
なぜならそれがきっと両者の間に一定の謙遜をもたらし、相手への尊重、そして敬意を持って接するという姿勢につながるからだ。

そんなことは人間として基礎的なことであるが、学者バカと言うおっさんにはそういう過程が欠落している。非常に他者(対象は広く女性に限らない)との関係を間違えている。このドキュメンタリーに出てくる人で「研究」を追求する側は大体おっさんである。
となると、クローン研究という分野そのものにどれほど女性の研究者がいるのだろうかという謎にぶち当たる。是非知りたい。

正直言って、わたしは一人の女性として、障がい者として、人間としてクローン研究に期待するものは何もない。今できないことが科学的に「修復」されることをそれほど理想的に思わない。100人の障がい者のうち何人が賛同するのかわからないが、わたしはお断りなのだ。
わたしは動けていた頃を覚えてはいるけれど、戻りたいとも思わない。今のわたしの方がいい。
そういうSFチックな話を、ものすごく「理想的」にこの研究者が語れば語るほど、一体この業界って誰のためになんのためにそこまで盛り上がれるのかと不思議で仕方なかった。
そもそもSFというジャンルの小説も、いまいち支配的すぎてわたしはあまり好まない。なんのためにいちいち宇宙を支配したがるのかわからない。科学全体を否定するにはわたしの好奇心がないわけじゃない。テクノロジーもありがたく思っている。数学も否定したいと思わない。今あることを解明する方の科学はまだ動機として納得できることが多い。
ただ、そのベクトルが、こうやって不可能にも理由があること、不可能に価値があることを雑に可能にするような考え方には賛同できない。
まあ、男性が子どもを自分も産みたかったというような理由で、女性のような過程を経て出産するシステムの構築、というなら動機に潜む「理解しようとする姿勢」も感じるかもしれないが、このおっさんにはそういう他者(この場合は犬までも含む)命への敬意を感じない。
なのにまあまあ一時は盛り上がり、もてはやされたというならそれの理由が不思議なのだ。
わたしはそんなに保守的な人間ではないと思っているのだけど、この話はキモい。
なんだかあらゆる命を道具にされているようで、とにかくキモいのだ。

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