じぶんと他者との間に起こることが、うまくいっていると思えるかどうか、人はそれのみに心を翻弄され続ける生き物なのかもしれない。
結局人という生き物の持つ「群れで生きていく」という特性と、「それぞれが考える」という場合の過程をどう折り合えるかを持て余すものなのだ。
そもそも個体が違えば価値観が違う。瞬間的に生じるその違和感の正体に混乱したままでいることを、人は「生きていくのが苦しい」というふうに感じるのではないかと思うのだ。
動物たちの中にも同じように群れで生きていく種は存在するけれど、基本的に弱肉強食で生きることを是としている以上、生きにくいと思う個体については検討の余地がないのが当然なのだ。
だから、ヒトも同じなのかという大きな宿命のような問いを抱えながら、いやそうではないはずでしょう?と長い間生きてきた中でヒトは社会的責任とか福祉とか、また教育とかいう文化を作り出してきたことの証でもあると言えるのではないだろうか。まあ、一つの悪あがきなのだろう。ヒトという種のプライドというものがあるとするなら、そういった「生きにくさを考える力」にかかっているのではないのかとわたしは思うのである。
さて、そんな考えることを誇るヒトという種はいまだに「正解」に辿り着いていないし、その悪あがきの先にはもしかしたら「正解」がないこともあるのだと薄々わかっているのではないか、そんな共通の認識がぼんやりと生まれてきているのではないかなあと、最近特に思う場面がある。
人と人、人と団体などの関係性に変化が生じる大きなうねりを感じるのだ。もっというなら毎日のニュースを見て、あらゆる暴力的な出来事をまるで膿を出すかのように溢れていることを見ていても思う。
特に日本という国においてのそういった関係性は割と特殊で、わたしはその根底に島国であるという事情による鎖国文化のようなものが、やたら肯定的に捉えられている事情があるのだろうと思っているのだけれど、それはつまり異常なほどの個々の人権意識の欠落を家族や地域というコミュニティが代わりとなって補完する制度で賄ってきたことにある。
この国のガラパゴス化した進化の先にある昨今、急に行政的な破綻やカルトの台頭、癒着が登場してきて、じわじわと、「うまくやってると言っていたくせに実はできてなかったんじゃないのか?わたしたちは騙されてきたのか?」と世論的に変わってきた。
一旦生じた疑念は、日常に張り巡らされたコミュニティや家族というところにまで向けられていくし、つまりは社会的な変革に結びついていくのだろうと思えるほどに、この頃のニュースを見ていると確かになんらかの意識改革はされてきていると思えてきたのだ。
ちなみにそう言った意識の変化の要因は、コロナによるパンデミックを社会的に経験したということがとても大きいと言える。圧倒的多数の人たちが奇しくも「明日は我が身」を実感したからだ。それは当事者意識ということなのだけど、そんな気持ちが社会的に必然として生まれてきたのだ。その上において、当事者じゃなかった頃は当然いけてると思えたものが、実は今までそんなに安心できる世の中じゃなかった、と気がついてきたのだ。しかも世論として。
今の昔も人権のためにと思ってきた人たちは、このような、いわゆる世論の変化に対してどう思っているのだろう。
これは新たな革命なのか
わたしは、そんな社会的な意識の変化はとても歓迎すべきものだと思っている。
実際に、既存の福祉において当事者であるということの持つ発言力は縮小されていくばかりで困った話だと毎日思っていたので、とても心強い。
コロナウィルスを発症したといえば差別されるらしいと聞けば、自分も罹る可能性があるからその時に排除はされたくない、そもそも排除することは絶対にダメ、という感覚が生まれてきたのだと思う。
正直言って、若干問題のある支援の方を多く見てきた時に、この人にほんの少しでも当事者の気持ちがわかればいいのだけれど、と思う場面は多々あったので、これほど社会的に変わることが起きるとは思っていなかった。そういう価値観を持たない人に新しく1から持ってもらうことが簡単ではないと長らく実感してきたのだ。だからこそ今の社会に起きている変化は、ある意味において画期的なものであるのだ。
歴史的な言い方をするなら、革命とか粛清とか戦争とかいうことを伴ってしか実現できなかったことなのではないか。
ただ、実はコロナがどうだという以前に少し前、つまり今の20代の青年の方たちの意識というのが、それ以前の方たちの感覚に比べて驚くほどボーダーレスであったり、かなり違う普遍的な基準を持ち合わせているなと思う部分もあり、より一気に社会的に進むこととなったのだと思っている。つまり、気をつけないと前時代的な人間と成り得る人たち=おっさんの若年化ということまで引き起こしているのだ。
つまり、気がつくかつかないかは関係なく、かなり今は意識の革命的な出来事の真っ最中にいるということだ。だから、あらゆることに対する認識を社会的に大幅に「イマドキ」としてアップデートしていかなくてはならなくなってきたのだ。
もはや、社会の価値観は、多数決ですらないのだ。だって多様性って言ってるやんか、そういうふうに変えてきたのはおっさんではあるけれどやらなかっただけ。
だからついこないだまでの日本のガラパゴスな価値観が、急にアップデートしたことへの前時代的なこだわりを早く捨てたものが、一人の人間としての幸せを手にすることになるのだ。
それを「成功体験」として受け入れるような新しい価値観も一気に形成されてきている。
そんなわけで、わたしは前時代から生きてきた一人ではあるが、同時に一人の当事者となることで生きにくくなった当事者として、かなりこれからの人たちに期待をしている。
彼らの未熟なモラルの方が過去の異常な慣例に基づくモラルよりそれぞれが生きやすい社会になるに違いないと思えるからである。
未熟な彼らの価値観は未熟ではあるけれど、いわば潔癖なほどのストイックさに支えられている。つまりおっさんとかなり相性が悪い。だからわたしもおっさんの価値観を嫌うものの一人として、若い彼らに期待をするのだ。
彼らはあらゆる違和感を内包したまま進もうとしている。
だからとても摩擦も多いし、この先に不穏な部分もあるけれど、色々と体験を積む中でもっと強くなる頃という未来に期待をしているのだ。
生きにくさを解消しようとする真剣勝負をできるのは、おっさんではない。おっさんは「そもそも生きにくいと言うな、そんなふうに思う方が悪い」という論理だけれど、そうだからコロナを生き延びられなかった。
個人的にものを考えているときに、人間関係の違和感について違いを理解しようとすることはできても、それをいいか悪いかを判断すると言うことは違う。善悪を判断するということは、本来とても大きな責任を伴う。そもそも違うことは当然でもあるので一定の理解はできないと困る。しかし、そこであなたが間違っていると言う際には、それなりの根拠が必要になり、その発言には責任が伴うからだ。
本来、何かの意見を変えるように促すと言うことはそれほどに簡単ではないはずだとわたしは思うのだけれど、結局その躊躇が生きにくさを生むのではないだろうか。
生きにくさの正体はとても繊細な「気遣い」によることと、それが反映されないことへのストレスなのだろう。雑なおっさんのやり方では、踏み潰されてしまうようなものであるが、わたしはこれからはそういうことを尊重する人ほど求められるようになる社会になる気がしている。
そういった一連の人間関係における「努力」は、日々それなりのストレスを生むのだけれど、極力それを少なく暮らしていくこと、そんな一つのコツのようなものを個々で色々と考えるのがきっと哲学者でもあり、宗教家でもあるのかもしれない。
これからの福祉へ〜さよならおっさん〜
さて、これからの福祉の場にはきっと大きくモラルの意識が広がることとなるだろう。
それくらい現状の福祉にはモラルが「きっとあるに違いないと言う幻想」に今は支配されている。その「幻想」は多くの支配的な古い価値観とあいまって、とても問題の多いものとなっている現場との乖離が起こっているからだ。
つまり、「世間的に福祉に携わる人間だからモラルがあるに違いないイメージのある自分」だから何をやっても許される、と言う発想で現場に来るような支援者が結構いるからだ。彼らは自分のしていることを振り返らない。なぜなら、あらかじめ「何をしようと世間的に許されているから」だ。
これは当事者にとって害にはなるけれど、ありがたくもなんともない。なんなら迷惑でしかない。そう言う人たちの「幻想」を当事者だけでなく、支援者の中の若い人たちが「あれはただの幻想で業務のできない人たちの言い訳」だとストイックに気づいていくようになる。何にもモラルがないやんか、と裸の王様を指摘するのは新しい世代の同僚たちではないだろうか。
現状の取り扱いはどうなのかわたしにはわからないが、わたしの考えとしては、これは一つ一つの福祉に関わるプロたちの中に今までなかったが本来『必要な自浄作用』である。だから潔くおっさんはおっさんの考えをやめてアップデートするか、自分が辞めるかという岐路にいる。まさにさよなら、おっさんの時代がきたのだ。
だからわたしはこういった、これから社会的な世代交代をしていくことに大いに期待している。
それが「当事者と支援者という福祉の現場における人間関係の健全化」のために必要不可欠なものだと思うからなのだ。
そもそも、この社会がモラルをじっくり議論できるようになることほど健全なことはないとわたしは思っている。そして一般的にその価値に気づき始めていることをわたしは心から歓迎していくものである。
だからおっさんはさようならだし、若い人はめっちゃウエルカムなのだ。
そんな若い感性の人たちに支援を期待したいと本当に思っている。

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