ここ一年というもの、本当になかなか苦心したものだったと言えると我ながら思う。
何のために?というとそれは、ただ生きていくために、ということに過ぎない。
たくさんの一方的な、つまり暴力的な出来事をわたしの家で繰り広げて去っていった事業所と区役所の人たちの『仕業』についての事後処理に、まだまだとても新たな支援が追いつかないのである。
最終的に、右京区役所については京都市役所がやっと動いてくれるとい一報が入り、自分でも驚くほどの安堵をしていたのだった。
その安堵というものの実体として、その連絡をもらったのはお昼頃だったのだけど、夕方入浴した際にわたしの両腕のみに覚えのない湿疹がびっしり出ていたのだった。
痛くも痒くもない湿疹はストレスだった。自覚のない部分のストレスがやっと解放されて顕在化したもの。
今までいろんな症状を体験してきたのだけど、この体験は初めてだった。
ああ、わたしは思っていたより大変だったんだなあとわたしは初めてそのときに自分を褒めたくなったのだった。
何もまだ解決したというものでもないのに、それが形となったものではないのに、勝手に市役所の方の姿勢が変わったことで、安堵していた。それくらいわたしは嬉しかった。
支援にまつわるトラブルを経験していて、あるフェミニストの方が言った「それは性暴力の案件の取り扱いに似ている」という指摘の重さを毎回感じていた。
つまりこれは「支援という暴力」とも言える。
性暴力の問題の取り扱いにおいて、そもそも性行為というものの捉え方が違う際に、同意のあるなしが現実的な確認事項となりうるのだけれど、支援という言葉というものの受ける側とする側の捉え方が違うときに同意を得ずに一方的な支援を貫くことが、全く構図として同じなのではないか、また事後にこんなことをされたと言っても、やってくれたことについてそういうふうに取らなくてもいいのではないか、という言い聞かせのような弁解も聞くことになる。
本来、支援の時間というものは両者にとって有意義であることでもあり、決して我慢の時間ではないはずなのだ。だからその一方的になりやすいことの問題性について、もっと重要視すべきなのだ。そもそも、物理的に「力」のあるのは支援する側の方なのだ。その点について支援の場はそれほどイーブンな場ではない。そもそも支援者は、圧倒的に「力」がある存在でなければならないのだ。なぜなら彼らは「プロ」だからだ。
何となくそんな一つのイメージを支援を受け始める前に思っていたわたしは、徐々に「あれ?思っていたのと違うぞ」と思うに至る。
それはいまだに思う時はあるのだけれど、最近目立つのが「愚かな開き直りの挙句、違法なことに手を出す」パターンだ。
プロ意識というのは、プロの仕事をしているからこそ発揮されるべきものである。
つまり権利には義務がついてまわる。それはとても基本的なことなのだけれど、彼らは上っ面のプライドを守るために、あらゆるものを踏みつけながら権利を主張する。
例えばこういうことがあった。
ある事業所が「行きたくない」と言い出した。まず、訪問介護事業所が契約期間中に「訪問したくない」ということ自体あり得ないのだけれど、それを聞いた区役所の障害保健福祉課の課長は「訪問介護事業所だから訪問しろというのはわがままだ、訪問しなきゃならんということはない」と言い張った。その際彼らが来ないことを許可するべき根拠は示さなかった。
こんなことは成立し得ないことを両者ともに主張しているだけで、主張してはならないことだというに過ぎない。でも、中途半端に区役所が「許可した」という事実のみが残ったので、彼らは最後までやりたい放題、つまり訪問すべき点について一切やらず、最後の日にだけ「この日なのでわざときました」「困ればいいと一言言ってやりたかったのでそのためだけにきた」と言い、去っていった。
社長が困らせることを望む事業所というのが認可されており、それを「許可した」のはわたしではなく右京区役所であった。事業所として認可したのは京都市役所である。
もちろん彼らヘルパー事業所にそんな権利はないのだが、彼らはそうやって「行くかどうか、希望のことを支援するかどうかはこちら次第なのだ」という「力」を見せつけて自分たちのプライドを守ったと思っているのだろう。
区役所のモチベーションはいまだにわからないので、今回の市役所の介入により是非とも明らかにされてほしいと望んでいるのだけど、どの登場人物もずっと自分の欲ばかりで、誰一人わたしの生活がどうなっているのか、その先ひとりの命に関わることをやっている自覚がない。もっというならわたしが支援に求めることにすら興味がないにも関わらず。
本来そういう自分のことしか考えられない人に他者への「支援」ということはできない。
正直言って、今年中のどのタイミングでも、わたしは命を終えたとしてもおかしくなかった。
ずっとそんなことを考えてしまう毎日と格闘していた。
彼らはそんなに自分を守りたいのだろうか、仕事を本当に続けられると思っているのだろうか、人を殺しても続けられると思っているのだろうか。そんなことをずっと考えていた。
わたしは自分を守るために人を殺しても仕方ないとまで思ったことはない。だから彼らの気持ちについて体験として思い当たるものがあまりになかった。
非常に動物的というか、理性の喪失を感じた。こういうときに支援は人を殺してきたのだろうと実感したし、こういうことがどこまでデータに反映されているんだろうかと思ったりもした。腹いせにというのでなく、人間に絶望することへのトリガーになる可能性について、彼らは何も知らないのだと思っていた。彼らが自分についてを語れば語るほど、わたしは心の中でどうでもいいわと思っていたし、会話の終わりにはいつも、このような人に支援が必要だと訴えていたのだなあと思っていた。
実際に支援する側とされる側が紙一重なことというのも大いにある。つまり、支援される側の人が実は支援を必要としている人という場合。これも実はものすごく多い。そうなると、まるで老老介護のようなもたれあいすぎる関係を求められる。時にはそんなこともあったのかもしれない。
そんないちいちを通じて最初の問いに戻るのだ、あなたはプロじゃなかったか?と。
わたしは現状の支援というのは一種の無茶振りであると思っている。一言で言えば、実現不可能なことを行政が机上の空論にかなり近い形で提示して、わたしという一人の当事者の家で実践しているに過ぎない。つまり、確定的ではないものなのだ。ろくに知らない人間が何かを特定できるわけがない。
そもそもそれができるという前提で自分が作った規則にがんじがらめなのは行政の方なのだ。
だから、私たち現場のものとしては、ちょっとずつでもそれを取り戻していく作業が必要なのだ。現場主義でしかないものを、行政がやいやいいうことの意味のなさを、同時に一番よく知っているのも行政なのだ。
福祉について考えると制度的に行政が行き詰まっているのがよくわかる。あまりに矛盾だらけだからだ。
正直言ってかなり下手な言い訳みたいで、変な理屈ばかりなのだ。よくこれをどうにかしろと言ったものだと呆れる。だから今が大事なのだ。行政が自己矛盾をする時というのは再生すべきチャンスだからだ。
ただ、当事者の発言権となるととても怪しい。それが何より現状の福祉には丸見えで苦しい。
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