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3月, 2024の投稿を表示しています

『正欲』 Netflix  正しくないという生きにくさ

このところ、何かと正しさとか正しくあることを求められすぎている気がして、正直言って非常に息苦しい。 何かを正しいと決めることは、本来とても労力の必要なことだと思うのだけど、このところはその正しさという紐で縛り合うのが文化みたいになっている。 わたしはこの点において正しいのであなたも正しくしてください、みたいな。 どうしてそうなったのか知らないが、奇妙なプレイである。 本来自分は他人の気持ちを理解することができないものである。そのことが怖いのか、せめて(勝手に)正しくあればいいという落とし所を作っているだけに思える。 よくいう、ポリティカルコレクトネスというものですら、その実態は、単に個人の感想を尤もらしく主張するという手段として意味だけが変化してきている気がするほどだ。 そう、日本語の社会では、「コレクトネスを達成するには」という課題に対して「尤もらしくいうこと」、という結果で済むような、言葉そのものの意味を変えてしまうことへの抵抗がなぜかあまりない。そんなあやふやさが割と罷り通ってしまう文化がある。 その果てに今どんな世の中か、というと誰もが生きにくく、誰もが適応できかねる社会になってしまった。 自分が「弱者」と思うのかどうかという違いだけで、一見強者に見えていても、その実は恐ろしく脆く儚いものである。 以前は、「明日は我が身」というような発想で取り組めばまだなんとかなったと思うが、今はそうじゃない。 本当に今の世の中は、既に生きにくいと感じる人ばかりではないだろうか。例えそうじゃないと思う人がいても、今の価値観においてはただの鈍感な人に過ぎなく、その人もまた実際には生きにくいはず、という社会である気がする。 しかし、社会のシステムはそんな人々の感情の変化についていけるわけもなく、あまりに敏感な今の世代ではそれを変革するだけの体力がない。誰もが生きづらくて我慢しているなら、お前も我慢しろというような。 これはとても困った話なのだ。 昭和か。水を飲めない部活のようなスパルタぶりだ。 その結果、世代間ギャップというより社会全体が社会的弱者であるという奇妙な事実。この現実をどうしたものか。鈍感な社会に対して敏感な人たち。みんな水に飢えてカラカラなのだ。 この映画において、中心にいるのは非常に生きづらい人たち。正直言ってその趣味嗜好は共感しにくいが、彼らの生きづらさは伝わ...

日々の考察 vol.20 かわいそうな弱者でいてくれ という難題

このところ、すっかりニュースを見なくなってしまっていた。 そうは言ってもいろんな事件やなんやかやが起こるたびに「一体どうしてこんな事件が起こったのだろう」「何があってこんな犯行を企ててしまったんだろう」と興味があるものだから、常々割といろんな考察をするYouTuber番組などを見ている。 大抵は過去の大事件にまつわるものであるが、今日のニュースはどうにもこうにも複雑な心情に陥ったので、ここで記録がてら整理していきたい。 特に最近のお気に入りは、「犯罪学教室のかなえ先生」という方。 この方は、デキる官僚というか、難しいことを非常にわかりやすく説明してくれる、生きにくいと思いながら暮らしている人たちの「よき理解者」である。 元少年院の教官であるという経験を非常に上手なお話ぶりで生かしながら、大きなニュースを理解しやすく教えてくれる。事実関係のリサーチもとても詳しくて、知識が少ない状態で聞けば聞くほど、その膨大な情報を、竹を割ったような解釈で語るお話しぶりは圧巻である。 しかし、わたしはご本人もたびたび言及されていることでもあるが、根本的に誰かの言い分が全てとは限らないと思っている。特に普段から、なんらかの事象の一つの解釈を鵜呑みにするのはかなり危険なことだと思っているからだ。しかも、先ほど「竹を割ったような」と言ったが、先生は、かなり断定的な表現が多いため、ともすれば自然と「そうだったのか」と思ってしまうような場面が多い。つまりそれが抜群の説得力をもったプレゼン力というものなのだ。 だからこそ、有益に思う部分、反面教師に聞く部分をいつもこちらが冷静に判断しながら聞かきゃならんなあと思っている。 【頂き女子りりちゃん】詐欺や脱税に手を染めたパパ活女子さん、殺人罪並みの求刑を言い渡される【Vtuber解説】 さてさて、そんな先生が、「頂き女子りりちゃん」という方の裁判について解説していた。お気に入りのホストに入れ込んで、貢ぐお金を稼ぐために、詐欺をおこなって懲役と罰金を求刑されていた裁判について。 この「頂きさん」に限らず、いわゆる「女子に嫌われやすい女子」というキャラは確かに女子に叩かれやすい。しかし、この件での求刑の重さに多くの人たちが反対の声が上がっている、という意見について先生は大層驚きながら、「パブリックエネミーだ」と反論していた。 この方は官僚出身でもあり、普段...

グッド・シリアルキラー ホラー映画なのに笑えてくる来るべき未来の映画

わたしの実家では  欲しいものがあれば、どうしてそれが欲しいのか、なぜそれが必要なのか、購入のための趣意書を作成して親の許可をもらわなきゃならなかった。 当時はネットもなかったのでそのやり方か、もしくは自分で稼いで買うように、と言われたからわたしは高校生の時からとにかく必死でアルバイトをしていた。 そんなこんなで年齢を重ねるにつれ、自分の都合で楽しみたい趣味もできたし、それを満喫できる空間も欲しかったのだと思う。思う、というのはいまだにわたしには、プライベートというものの線引きによる実感がピンとこない。実家では、わたしの部屋に内鍵をつけることは許されなかった。一回、わたしが相当な年齢になってから部屋を改築したときに、扉を付け替えることになってたまたまそこに内鍵がついていることを知った母が、あられもなく発狂しそうになったのを見て、わたしは本当にこの人はわたしがそういう空間を持つことを許せないのだと不思議に思った。変な感想ではあるけれど、その執念を思うと逆にわたしはそれまでのことが腑に落ちたし、心から奇妙にも感心したのだった。 中学生の初め頃、当時駅で気に入ったポスター(なぜか「いいちこのポスター」とかが好きだった)を駅員さんにお願いして取っておいてもらってそれを持って帰ったりしていたのをアート気分で部屋に貼っていた。わたしはいつもそれを気に入って眺めて過ごしていたのだが、ある日帰ったら全てなくなっていた。その光景はとても衝撃的だった。 わたしはなんとなく父によるものかなあと思っていた。またなんか気に障ったんだろうと思った。でも確かめなかった。 随分経ったある日、いつものように母があれしろこれしろ、あれはするなこれはするなと色々話していた時に、「あんなしょうもないもんを壁に貼る暇があったら」と言った。ん?「お母さんやったの」「そうだけど?」「お母さんやったのか」 「破って捨てたわ」 「なんでそんなことをできるの」 「なんなん?そんなにいうほどのもんでもないやん。欲しかったら買ってきたらしいやん。ほら、財布渡すわ」 そう言って母は財布を投げた。まるで母が被害者みたいだなあと思った。 「もういいわ」 「早く買ってきなさいよ。そんなにぶつぶついうなら出ていって好きに暮らしたらいいやん」 そんな母の言葉を背にわたしは部屋に戻った。 そうだったのか、母だったのか。そんなふ...