スキップしてメイン コンテンツに移動

日々の考察 vol.20 かわいそうな弱者でいてくれ という難題


このところ、すっかりニュースを見なくなってしまっていた。

そうは言ってもいろんな事件やなんやかやが起こるたびに「一体どうしてこんな事件が起こったのだろう」「何があってこんな犯行を企ててしまったんだろう」と興味があるものだから、常々割といろんな考察をするYouTuber番組などを見ている。

大抵は過去の大事件にまつわるものであるが、今日のニュースはどうにもこうにも複雑な心情に陥ったので、ここで記録がてら整理していきたい。


特に最近のお気に入りは、「犯罪学教室のかなえ先生」という方。

この方は、デキる官僚というか、難しいことを非常にわかりやすく説明してくれる、生きにくいと思いながら暮らしている人たちの「よき理解者」である。

元少年院の教官であるという経験を非常に上手なお話ぶりで生かしながら、大きなニュースを理解しやすく教えてくれる。事実関係のリサーチもとても詳しくて、知識が少ない状態で聞けば聞くほど、その膨大な情報を、竹を割ったような解釈で語るお話しぶりは圧巻である。

しかし、わたしはご本人もたびたび言及されていることでもあるが、根本的に誰かの言い分が全てとは限らないと思っている。特に普段から、なんらかの事象の一つの解釈を鵜呑みにするのはかなり危険なことだと思っているからだ。しかも、先ほど「竹を割ったような」と言ったが、先生は、かなり断定的な表現が多いため、ともすれば自然と「そうだったのか」と思ってしまうような場面が多い。つまりそれが抜群の説得力をもったプレゼン力というものなのだ。

だからこそ、有益に思う部分、反面教師に聞く部分をいつもこちらが冷静に判断しながら聞かきゃならんなあと思っている。



【頂き女子りりちゃん】詐欺や脱税に手を染めたパパ活女子さん、殺人罪並みの求刑を言い渡される【Vtuber解説】







さてさて、そんな先生が、「頂き女子りりちゃん」という方の裁判について解説していた。お気に入りのホストに入れ込んで、貢ぐお金を稼ぐために、詐欺をおこなって懲役と罰金を求刑されていた裁判について。

この「頂きさん」に限らず、いわゆる「女子に嫌われやすい女子」というキャラは確かに女子に叩かれやすい。しかし、この件での求刑の重さに多くの人たちが反対の声が上がっている、という意見について先生は大層驚きながら、「パブリックエネミーだ」と反論していた。



この方は官僚出身でもあり、普段の発達障害に対する深い洞察と理解についてもいつもわたしは頭が下がる思いがしているのだが、こういう時の極端に限定的な認識に基づく解釈を聞くたびに少し心が痛む。

先生も、「頂きさん」の求刑が重いと言っている人も「社会的弱者」に寄り添おうとしているのには違いがない。なのに、その「法が無敵」であるかのような前提で違う意見を斬っていく情け容赦のなさに「親方日の丸」な匂いを感じてしまったのだった。


ちなみにこの「頂きさん」に救われた人もいる。ううむ、生きていく上で、彼女は犯した罪を想うときに思い出すであろう感謝をどうやって整理していけるのだろうか。

「頂き女子りりちゃん」のマニュアルを使い、男性2人から現金1000万円以上をだまし取った罪に問われている大学生の女の裁判で、検察側は女に懲役4年6か月を求刑しました。

起訴状などによりますと、名古屋市中区の大学生・家田美空(いえだ・みく)被告21歳はことし3月から5月にかけ、「頂き女子りりちゃん」こと渡邊真衣(わたなべ・まい)被告らが作ったマニュアルをもとに、マッチングアプリで知り合った男性2人から現金合わせて1065万円をだまし取った詐欺の罪に問われています。

これまでの裁判で家田被告は起訴内容を認め、「これが犯罪だと思わなかった」などと話していました。29日、名古屋地裁で開かれた裁判で、検察側は「人の気持ちにつけ込む卑劣な犯罪」として懲役4年6か月を求刑しました。

一方、弁護側は「生活費と学費を稼ぐために始めたこと。被害者と示談が成立し、被害金も弁済して慰謝料も支払った」として執行猶予付きの判決を求めました。

裁判官から「最後に述べたいことはありますか?」と聞かれた家田被告は「今回、私のようにりりちゃんに救われた女の子たちから、りりちゃんを奪ってしまった。公認会計士や弁護士になり、りりちゃんの子どもだましの魔法ではなく、正しいやり方で女の子たちを救いたい」と話しました。判決は12月15日に言い渡される予定です。11/29 12:28 CBCテレビ



法律家でもある先生に、弱者にとって今の法というものがどれほど冷ややかなものか、守るどころか傷つけるものか、その前提が抜けがちになるのは仕方がないことなのかもしれない。

「男性は事件を見て女性は感情で話すからすれ違う」と先生は言っていた。

そうなのかなあ。

確かに多くの男性は「女はいつも感情的やし嫌やわ」などといいがちだけど、大体わたしはそういった男性の言い分ほど逆なものだと思っている。男の方が感情的だし、女々しいし、器は小さい。ま、なかなかそれを認める男性というのも少ないのだけど。

そういう意味において先ほどの「頂きさん」の件への感想を見てみると、こういうことに意見する女性の多くは「日本の法なんてそもそも男に甘く作られてるやん、ほらこれもそうやん」という根本的なところからむかついているのだ。

それをこの件のみを見て、ちまちましたことで「一人の女性」に対しての件だし、そもそも話が別なのだ、と言っているのがこの先生の意見なのだ。先生は「僕たち」という一人称でその辺りから語っていたが、この「僕たち」とは誰のことなのだろうか。

だからこれはすれ違っているようで実は全然違う話だと思っている。

この件の話に限らない法や体制全般に怒る女性と、この件だけのことだから関係のない話だと言わんばかりに鼻息荒く社会の敵呼ばわりする先生の言説は、次元が違う。つまり事件の話が違うのではなく、よって立つ次元が違うのだ。もちろん社会全般は一つ一つの事件を包括するという次元において確かに比較の対象ではない。だからこれは、並べて語っているようで実際はそうじゃないという話なのではないだろうか。


でも、こういうズレはわたしのような支援を受ける暮らしの中でも、実際によくあることだ。

おっさんの小さな器のおかげで、生活全般が犠牲になることというのは残念ながらとってもよくある。それをどんなに訴えたところで、そのことだけは修正したとしても、似たような失敗は何度でも起こる。


社会的弱者の生きにくさを軽減することは社会的な責務であるというところは、先生も女性たちも当事者ももちろん同じく思っている。ただ、既存のものでは包括し得ない時が多いのではないか、という視点は実は先生にはあんまり感じない。その一方で既存のものはたくさんあるけれど周知されていないのだ、という話の展開がとても多い。確かにそんな部分も多いし、現にそうなのかと初めて知ることも多い。しかしそれが全てではないことも当事者は知っている。

今の社会が持っているセーフティネットというものの網はとても荒い。

たくさんの人たちがボロボロとこぼれ落ちていく。

そのような現状を先生はどう考えているんだろうか。

先生の友人である、京都市役所の職員が適切な支援を受けられるために精神科の受診を勧めたら当事者の人に暴れられたというエピソードをあるとき話していた。先生はその友人に対して「言い方が悪かったんじゃないか」と当事者がいかに助けを求めることが大変であるか、を深く理解された上で語っていたことがある。

きっとそんな対応によって犯罪の方向へ舵を切ってしまいそうになる当事者の気持ちもよくわかっているんだろうなと敬服した。

でもそこまでわかっていながらどうしてそんなにずれたことをいうんだろうか。わたしはそれがとても惜しくおもう。

しかし、その溝が、ただの男と女であることによるものかどうか、わたしには結論が出せずにいる。

もしかして先生には、社会的弱者とはこうであるという「定義」のような発想があるんじゃないだろうか。

支援を受けながら暮らしていると、そういった場面に非常によく出会う。わたしに必要な支援を求めたら、役所がそれを本当に必要かどうか勝手に決める。どんなに必要だと言っても「年齢」や「疾患」で区切って支援する。

決めるのはいつも支援者側なんだという発想。

それがとてもわたしには辛い。役所の人たちは、こんなことばかりを繰り返していたら、しまいに当事者は心を病んでしまうと思わないのだろうか。

そうやって支援すると言って病ませるのなら、それは支援と言えるのだろうか。

こういう現実が、セーフティネットからこぼれ落ちた結果だというなら、やっぱり今の体制や法が充分イケてるとは言えないんじゃないかなあとわたしは思っている。

そして、そんな自分についても、いっつもいっつもいろんな枠から溢れて弾かれてしまうのはどうしてなんだろうかと途方に暮れてしまうのだ。

支援を受けるに値する人間というのがあるとするなら、それはわたしなんだろうなと時折思ってしまう。支援の人たちは、みんな口では「そんなことはあってはならないんですよ」というけれど、じゃあ今のこれはなんなんだろうとわたしは不思議で仕方ない。


ただ、念のために申し上げるが、わたしはかなえ先生という方を尊敬している。とってつけるために述べているんじゃない。わたしもいろんなことを知りたいし、知ることでさまざまな考察をできること自体をありがたく思っている。初めてVtuberという存在も知った。

だからいうわけじゃないが、今回どういうリンクを貼ろうかちょっと考えていた。

いつもみたいに予告編がないのでちょっと困った。

はじめてVtuber動画というのを貼ってみる。

なんだかその手筈に間違いがあれば申し訳ありません。




コメント

このブログの人気の投稿

メディアの沈黙と、歪められた現実:ジェンダー問題報道の闇

  日本のメディアは、ジェンダー問題を歪曲し、隠蔽する役割を果たしている。 長年、男性中心の社会構造が根付いた結果、メディアもその構造を反映し、女性や、マイノリティの視点、そして、被害者の声を無視する報道が繰り返されている。 これは、単なる報道姿勢の問題ではなく、社会構造そのものの問題である。 特に、性犯罪や、セクハラといったジェンダー問題において、メディアの偏向報道は顕著である。 被害者の証言は軽視され、加害者の言い分が強調される。 被害者のプライバシーは、まるで公開処刑のように晒される一方、加害者のプライバシーは、徹底的に守られる。 この不均衡は、メディアが、男性中心的な価値観に染まっていることを示している。 例えば、中居 フジテレビ事件を報道したケースを考えてみよう。 報道は、加害者の地位や、権力に焦点が当てられ、被害者の苦痛や、損失は、ほとんど「人権への配慮」という言葉によって無視された。 加害者側の釈明は、詳細に報道された一方、被害者の証言は、断片的にしか伝えられなかった。 この報道は、視聴者の共感を、加害者へと誘導する効果があった。 結果として、被害者は、二次被害に苦しむことになった。この場合の二次被害ということについては前項を参照してほしい。 これは、単なるミスや、不注意ではない。 メディアは、意図的に、ジェンダー問題を歪曲し、隠蔽している。 視聴率を上げるため、あるいは、スポンサーの意向に沿うために、事実を操作したり、都合の悪い情報を隠蔽したりする。 女性や、マイノリティの視点、そして、被害者の声は、都合が悪いから、無視される。 この男性中心的な報道姿勢は、社会全体に悪影響を与えている。 女性や、マイノリティは、声を上げにくくなり、ジェンダー不平等は、ますます深刻化する。 メディアは、社会の鏡であるべきだが、日本のメディアは、その鏡を歪ませ、社会の病理を隠蔽する役割を果たしている。この場合のメディアというのはテレビや新聞のみならずネットメディアというものですらそうなのだ。 メディアの改革は、この社会全体の改革に不可欠である。 ジェンダー平等を実現するためには、メディアも、その責任を自覚し、女性や、マイノリティの視点を取り入れた、公平で、正確な報道を行う必要がある。 そして、私たち市民も、メディアの報道内容を批判的に吟味し、ジェンダー平等に対す...

おっさんと揉めながら生きる〜嫌になるけど楽しい毎日から〜

まず私はおっさんによく嫌われます。あらゆるところでおっさんに嫌われるんです。実はおっさんはあらゆるところにいるんです。 例えば私は嫌なことは嫌だと言います。 生活保護の窓口で、こう言うことを言われたことがありました。 「自己責任で全てやってください」 わたしはこう言いました 「生活保護というのは政策として重要な公助の部分をになっています。それをやっているあなたが自己責任で全てやれというのはあなたの業務そのものを冒涜していることになりますけどいいのですか」 意外と私、そういうことも言いますのよ。そんなアホみたいな話があるかと思ったんでムカついて言ったんです。黙ってられるかいな。アホくさい。 そうすると生活保護の上の方のおっさんに嫌われるのです。 こういうふうに言い返す生活保護受給者はいないと彼は思っているんです。なめたらあきません。そういう偏見のある職員のことをおっさんと私は呼ぶのです。いるでしょ?そういうおっさん、あちこちに。 もちろんその上の方のおっさんであるからと言って空気は読まないです。彼は私の上司ではありませんし。 私はいつも意味のないおっさんの意見に振り回されず、その説明もしっかりとしますし求めます。この時のように。 おっさんは私を馬鹿にしたいみたいですけど、私はおっさんを嫌いなだけで馬鹿にはしていません。アホみたいなことを言うなあと思っているだけです(笑) 私は障害者で生活保護を受けて生きていますが、結構そういう生活を工夫して楽しんでいます。お金がないなあということが多いのは事実です。だから野菜を育て始めました。そしたら面白くてハマっています。 こうやって面白そうに暮らしているのがおっさんには嫌みたいで嫌われやすいです。実際に近所の何かしら不自由が生まれてきたようなおっさん、例えば近所に住む、定年になってやることがなく怒ってばかりのおっさんにも嫌われましたし、支援を受けることなく糖尿で透析に通っているおっさんにも嫌われました。どっちもD Vっぽいおっさんでしたわ。 私はおっさんが何かを我慢しているから私にも同じく我慢して苦しめと言っているように思います。 でも私はそうしません。やることもいっぱいあるし、考えたいこともあるし、支援も受けています。そうやって楽しく暮らせるようにしているのです。全く我慢がないとは言わないけれどそれを少なくする努力をしているとい...

ヴィーガンに貧乏人はいない

  環境問題について、昔からずっと思っていることがある。 その理論の基本はわたしたちが住む地球のすぐ先のこれからについてのものであるから、あくまでも全人類が自覚的にしかも早急に取り組むべきなのだという、重大な問題であるという。 しかし、ここ日本だけでなく、どんなに自然災害を体験しても、目撃してもそれが普遍化することがなかなか起こらない。懲りたと言う人たちでこの世の中は溢れていくのに、なぜそういった感覚にならないのか。そういった運動につながらないのか。 特に日本において、自分の身に起こる不幸は、自分や身の回りの誰かのせい、と言う程度の認識に収める人がほとんどである。そのうちの特に多数の人たちは、たとえ自然災害ですら自分のせいのように考えてしまう。被害の跡をなんとかできない自分たちの資本力のなさのせいだと考えたり、時には先祖への弔いをきちんとももっとすべきだったなどと考える。場合によっては、自らがいかに悲惨な状況下にあっても、遠方の家族に世話になることを申し訳なく思って拒否する例もあるだろう。 そういった社会において、環境問題を普遍化することは、非常に困難である。 一つは今述べたような、さまざまな問題に出会った時に、それが環境に起因する問題であるという認識を一人ひとりが持つように社会的にできていない。これは構造的な問題だけでなく、文化的な背景も大きいとわたしは考えている。 ことに日本において、環境問題の被害者になることは、ただの運に過ぎないことの方が多い。 そしてその被害者は悉く社会的に貧困層として存在する。 たとえばドイツの財政難は、環境保護対策に様々な形で影響を与えている。 以下、簡単にその考察を述べる。  ドイツの財政難は、環境保護対策に深刻な影響を与えつつある。  再生可能エネルギーへの投資減少、原子力発電再稼働議論、環境規制緩和圧力など、様々な課題が浮き彫りになっている。  これらの課題に対処するためには、持続可能な経済モデルへの転換、国民への丁寧な説明と合意形成、国際協調の強化などが不可欠です。  短期的な経済的利益と長期的な環境保全のバランスをどのように取るかが、今後のドイツの環境政策の成否を左右する重要なポイントとなる。 もうこのように、環境問題というのは厳しすぎる現実にぶち当たっている。 現実といえば、貧困層の人は...