このところ、すっかりニュースを見なくなってしまっていた。
そうは言ってもいろんな事件やなんやかやが起こるたびに「一体どうしてこんな事件が起こったのだろう」「何があってこんな犯行を企ててしまったんだろう」と興味があるものだから、常々割といろんな考察をするYouTuber番組などを見ている。
大抵は過去の大事件にまつわるものであるが、今日のニュースはどうにもこうにも複雑な心情に陥ったので、ここで記録がてら整理していきたい。
特に最近のお気に入りは、「犯罪学教室のかなえ先生」という方。
この方は、デキる官僚というか、難しいことを非常にわかりやすく説明してくれる、生きにくいと思いながら暮らしている人たちの「よき理解者」である。
元少年院の教官であるという経験を非常に上手なお話ぶりで生かしながら、大きなニュースを理解しやすく教えてくれる。事実関係のリサーチもとても詳しくて、知識が少ない状態で聞けば聞くほど、その膨大な情報を、竹を割ったような解釈で語るお話しぶりは圧巻である。
しかし、わたしはご本人もたびたび言及されていることでもあるが、根本的に誰かの言い分が全てとは限らないと思っている。特に普段から、なんらかの事象の一つの解釈を鵜呑みにするのはかなり危険なことだと思っているからだ。しかも、先ほど「竹を割ったような」と言ったが、先生は、かなり断定的な表現が多いため、ともすれば自然と「そうだったのか」と思ってしまうような場面が多い。つまりそれが抜群の説得力をもったプレゼン力というものなのだ。
だからこそ、有益に思う部分、反面教師に聞く部分をいつもこちらが冷静に判断しながら聞かきゃならんなあと思っている。
【頂き女子りりちゃん】詐欺や脱税に手を染めたパパ活女子さん、殺人罪並みの求刑を言い渡される【Vtuber解説】
さてさて、そんな先生が、「頂き女子りりちゃん」という方の裁判について解説していた。お気に入りのホストに入れ込んで、貢ぐお金を稼ぐために、詐欺をおこなって懲役と罰金を求刑されていた裁判について。
この「頂きさん」に限らず、いわゆる「女子に嫌われやすい女子」というキャラは確かに女子に叩かれやすい。しかし、この件での求刑の重さに多くの人たちが反対の声が上がっている、という意見について先生は大層驚きながら、「パブリックエネミーだ」と反論していた。
この方は官僚出身でもあり、普段の発達障害に対する深い洞察と理解についてもいつもわたしは頭が下がる思いがしているのだが、こういう時の極端に限定的な認識に基づく解釈を聞くたびに少し心が痛む。
先生も、「頂きさん」の求刑が重いと言っている人も「社会的弱者」に寄り添おうとしているのには違いがない。なのに、その「法が無敵」であるかのような前提で違う意見を斬っていく情け容赦のなさに「親方日の丸」な匂いを感じてしまったのだった。
ちなみにこの「頂きさん」に救われた人もいる。ううむ、生きていく上で、彼女は犯した罪を想うときに思い出すであろう感謝をどうやって整理していけるのだろうか。
法律家でもある先生に、弱者にとって今の法というものがどれほど冷ややかなものか、守るどころか傷つけるものか、その前提が抜けがちになるのは仕方がないことなのかもしれない。
「男性は事件を見て女性は感情で話すからすれ違う」と先生は言っていた。
そうなのかなあ。
確かに多くの男性は「女はいつも感情的やし嫌やわ」などといいがちだけど、大体わたしはそういった男性の言い分ほど逆なものだと思っている。男の方が感情的だし、女々しいし、器は小さい。ま、なかなかそれを認める男性というのも少ないのだけど。
そういう意味において先ほどの「頂きさん」の件への感想を見てみると、こういうことに意見する女性の多くは「日本の法なんてそもそも男に甘く作られてるやん、ほらこれもそうやん」という根本的なところからむかついているのだ。
それをこの件のみを見て、ちまちましたことで「一人の女性」に対しての件だし、そもそも話が別なのだ、と言っているのがこの先生の意見なのだ。先生は「僕たち」という一人称でその辺りから語っていたが、この「僕たち」とは誰のことなのだろうか。
だからこれはすれ違っているようで実は全然違う話だと思っている。
この件の話に限らない法や体制全般に怒る女性と、この件だけのことだから関係のない話だと言わんばかりに鼻息荒く社会の敵呼ばわりする先生の言説は、次元が違う。つまり事件の話が違うのではなく、よって立つ次元が違うのだ。もちろん社会全般は一つ一つの事件を包括するという次元において確かに比較の対象ではない。だからこれは、並べて語っているようで実際はそうじゃないという話なのではないだろうか。
でも、こういうズレはわたしのような支援を受ける暮らしの中でも、実際によくあることだ。
おっさんの小さな器のおかげで、生活全般が犠牲になることというのは残念ながらとってもよくある。それをどんなに訴えたところで、そのことだけは修正したとしても、似たような失敗は何度でも起こる。
社会的弱者の生きにくさを軽減することは社会的な責務であるというところは、先生も女性たちも当事者ももちろん同じく思っている。ただ、既存のものでは包括し得ない時が多いのではないか、という視点は実は先生にはあんまり感じない。その一方で既存のものはたくさんあるけれど周知されていないのだ、という話の展開がとても多い。確かにそんな部分も多いし、現にそうなのかと初めて知ることも多い。しかしそれが全てではないことも当事者は知っている。
今の社会が持っているセーフティネットというものの網はとても荒い。
たくさんの人たちがボロボロとこぼれ落ちていく。
そのような現状を先生はどう考えているんだろうか。
先生の友人である、京都市役所の職員が適切な支援を受けられるために精神科の受診を勧めたら当事者の人に暴れられたというエピソードをあるとき話していた。先生はその友人に対して「言い方が悪かったんじゃないか」と当事者がいかに助けを求めることが大変であるか、を深く理解された上で語っていたことがある。
きっとそんな対応によって犯罪の方向へ舵を切ってしまいそうになる当事者の気持ちもよくわかっているんだろうなと敬服した。
でもそこまでわかっていながらどうしてそんなにずれたことをいうんだろうか。わたしはそれがとても惜しくおもう。
しかし、その溝が、ただの男と女であることによるものかどうか、わたしには結論が出せずにいる。
もしかして先生には、社会的弱者とはこうであるという「定義」のような発想があるんじゃないだろうか。
支援を受けながら暮らしていると、そういった場面に非常によく出会う。わたしに必要な支援を求めたら、役所がそれを本当に必要かどうか勝手に決める。どんなに必要だと言っても「年齢」や「疾患」で区切って支援する。
決めるのはいつも支援者側なんだという発想。
それがとてもわたしには辛い。役所の人たちは、こんなことばかりを繰り返していたら、しまいに当事者は心を病んでしまうと思わないのだろうか。
そうやって支援すると言って病ませるのなら、それは支援と言えるのだろうか。
こういう現実が、セーフティネットからこぼれ落ちた結果だというなら、やっぱり今の体制や法が充分イケてるとは言えないんじゃないかなあとわたしは思っている。
そして、そんな自分についても、いっつもいっつもいろんな枠から溢れて弾かれてしまうのはどうしてなんだろうかと途方に暮れてしまうのだ。
支援を受けるに値する人間というのがあるとするなら、それはわたしなんだろうなと時折思ってしまう。支援の人たちは、みんな口では「そんなことはあってはならないんですよ」というけれど、じゃあ今のこれはなんなんだろうとわたしは不思議で仕方ない。
ただ、念のために申し上げるが、わたしはかなえ先生という方を尊敬している。とってつけるために述べているんじゃない。わたしもいろんなことを知りたいし、知ることでさまざまな考察をできること自体をありがたく思っている。初めてVtuberという存在も知った。
だからいうわけじゃないが、今回どういうリンクを貼ろうかちょっと考えていた。
いつもみたいに予告編がないのでちょっと困った。
はじめてVtuber動画というのを貼ってみる。
なんだかその手筈に間違いがあれば申し訳ありません。
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