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『正欲』 Netflix  正しくないという生きにくさ


このところ、何かと正しさとか正しくあることを求められすぎている気がして、正直言って非常に息苦しい。
何かを正しいと決めることは、本来とても労力の必要なことだと思うのだけど、このところはその正しさという紐で縛り合うのが文化みたいになっている。
わたしはこの点において正しいのであなたも正しくしてください、みたいな。

どうしてそうなったのか知らないが、奇妙なプレイである。
本来自分は他人の気持ちを理解することができないものである。そのことが怖いのか、せめて(勝手に)正しくあればいいという落とし所を作っているだけに思える。
よくいう、ポリティカルコレクトネスというものですら、その実態は、単に個人の感想を尤もらしく主張するという手段として意味だけが変化してきている気がするほどだ。
そう、日本語の社会では、「コレクトネスを達成するには」という課題に対して「尤もらしくいうこと」、という結果で済むような、言葉そのものの意味を変えてしまうことへの抵抗がなぜかあまりない。そんなあやふやさが割と罷り通ってしまう文化がある。
その果てに今どんな世の中か、というと誰もが生きにくく、誰もが適応できかねる社会になってしまった。
自分が「弱者」と思うのかどうかという違いだけで、一見強者に見えていても、その実は恐ろしく脆く儚いものである。
以前は、「明日は我が身」というような発想で取り組めばまだなんとかなったと思うが、今はそうじゃない。
本当に今の世の中は、既に生きにくいと感じる人ばかりではないだろうか。例えそうじゃないと思う人がいても、今の価値観においてはただの鈍感な人に過ぎなく、その人もまた実際には生きにくいはず、という社会である気がする。

しかし、社会のシステムはそんな人々の感情の変化についていけるわけもなく、あまりに敏感な今の世代ではそれを変革するだけの体力がない。誰もが生きづらくて我慢しているなら、お前も我慢しろというような。
これはとても困った話なのだ。
昭和か。水を飲めない部活のようなスパルタぶりだ。

その結果、世代間ギャップというより社会全体が社会的弱者であるという奇妙な事実。この現実をどうしたものか。鈍感な社会に対して敏感な人たち。みんな水に飢えてカラカラなのだ。

この映画において、中心にいるのは非常に生きづらい人たち。正直言ってその趣味嗜好は共感しにくいが、彼らの生きづらさは伝わる。そしてその優しく敏感な同盟関係の居心地の良さも感じることができる。いかにそんな時間が大切か、丁寧に描かれているからだ。
正しくないということの辛さ。
今の社会の側では、「社会的弱者」というのもなんやかやとカテゴライズされる。障害者はどうだ、生活困窮者はどうだというように。でも、それ以外にもたくさんいきづらさを感じる人はいるんだと。そんな人たちの声を俳優たちはとてもわかりやすく表現していた。

さて、昨晩、寝て起きたらどうやら一人の車椅子ユーザーの方が炎上していた。映画館の対応に悲しくなったという、彼女の一つのツイートが火元のようだ。そこに返された罵詈雑言というのはものすごかった。ずうずうしい、そんなこともわからんのか、から始まる人格攻撃まで。

ひどいことだと本当に見ていて辛かったが、同時にたくさんの人たちが「わたしだってこんなにしんどい思いをしているのに」というような転化した怒りを向けているのも感じた。
バリアフリーというのは、こんなバリアのみをフリーにしますというものではない。目指すべきは、限定的な誰かに優しい社会ではなく、あらゆる人に温かい社会ではないだろうか。
ベビー連れには不自由だとか高齢者にとってはどうだとか、いろんな経験を知った上で誰にとっても行きやすい場所であってほしいと願う方が理にかなっている。
そうやって弱者同士で叩き合うことで、共食いし共倒れしていくのが社会のあるべき姿なんだろうか。

そんなスパルタでは誰もに優しい社会が遠のいていく。
わたしが電車に乗るときに駅で用意してくれるスロープというのがある。電車とホームをつなげる鉄板のことだ。
それを使うときに実は多くのベビーカーを押したママさんや、キャリーバッグを転がす旅行客が「使っていいですか」とわたしに尋ねる時がある。もちろん、とわたしはいつも答えるのだけど、本当のバリアフリーとはそういうことではないのだろうか。
わたしの生きづらさを解消することであなたも少し楽になる。
そんなことがあちこちで起こる社会であってほしい。

この映画において最後のシーンである稲垣吾郎演じる検事と、新垣結衣演じる「奥さん」の会話が圧巻である。
弱者と強者の会話であったはずが、どっちも弱者だったとわかったときに、さて検事はどうするのだろうか。
ベテランの弱者か、新参者の弱者か、そこまで考えたら少し笑えてきた。



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