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日々の考察vol.21. オッサンとオバハンのバグについて

 




先日、京都市障害保健推進室と右京区役所障害保険福祉課、わたしの相談員やカウンセラー、補助人と一緒に初めてのスタイルでケース会議というものを経験した。

いかにわたしがこの数ヶ月に渡り、右京区役所と断絶するに至ったかの検証と、今後に向けて新たに改善すべき点を模索するために開かれたものだと思っていたし、実際の目的はそのはずだった。

が、実際に会議が進むにつれて、右京区役所がいかに差別的な、つまり間違った認識で物事を「理解」してきたかを実証するものとなった。
多少の言い訳ならまだしも、自分達は間違っていなかった、皆さんもそう思うでしょう?とドヤ顔で語る言葉の一々に全く信憑性がないままで噂や陰口のみを信じ、多くは自分たちの偏見丸出しでやってきたことだよ、それは当然ですよね?という内容だったのだ。
あれでは、京都市もドン引きである。
本当に右京区役所はかなりガラパゴス化しておる。ここまでとなると、いっぱしの非常事態ではないか。
きっと彼らは庁舎に戻る道すがら、さぞかし頭を抱えていたことだろう。
しかし福祉業界の多くの不都合なことというのは、大体そんな小さな偏見から生まれていてこのように肥大化する。


「この人とわたしは全く違う人間であり、この人が大変なのはこの人の問題にすぎない」

そんな価値観というのは残念ながらかなりの割合で、支援する側に存在する。
わたしは自慢じゃないが当事者なので、そんな感覚をこちらも感覚のアンテナでキャッチする。かなり早い段階で。
でも、それを一々出だしからわあわあいうことはない。
でも、時折それに気づいて欲しくて言葉にしてきているのだけど、段々とその壁が大きくなってしまい、関係が破綻するのだ。
絶対に自分はこんな人生になるわけない。
絶対に自分は障害者にならない。
絶対に自分は病気ではない。
絶対に自分は生活保護を受けたりしない。

あなたはどう思いますか?

出だしでは確かに小さな偏見だったかもしれない。でも、誰もが後々まで放っておいたら、大きな差別の壁になる。
そしてそんな意識のずれは修復しようのないものとなってしまうのだ。

同時にそのときに補助人の二人もそこにいた。一人はちゃらんぽらんなおっさんだが、もう一人、自分の感情に支配されやすい女性がいる。後者の女性の感情の起伏が激しくて、実際に支援を受けていたらとても困ることが多い。それで何度も注意してきたが、一向に良くならないので仕方なく「一度受診した方がいいのではないか」といった。わたしに取っては、その上でスムースな支援が受けられるならいうことはないからだ。
そしてわたしたちは、その次の訪問時には二人で来ることを確認した。

さて、昨日がその訪問の日であった。案の定その女性は来なかった。理由は「嫌だから」
そういうとこをなんとかしろと言っているのだと、わたしはムカっとした。しかもその「受診しろ」に腹を立てているらしい。
それを知ってわたしはさらに嫌になったのだった。

「この人とわたしは全く違う人間であり、この人が大変なのはこの人の問題にすぎない」

絶対に自分はこんな人生になるわけない。
絶対に自分は障害者にならない。
絶対に自分は病気ではない。
絶対に自分は生活保護を受けたりしない。

ほら〜、これなのよ。このわたしがこんな病人に病気じゃないかと言われる筋合いはない、という逆ギレ。これこれ。
またかよと思った。これでこの方の「単純な感情のコントロール」というような問題ではなくなったでしょ?
小さな偏見が大きな差別の問題に変化した時間だった。

この方は、常々わたしに対して、あなたはわたしと違って強い、という。
そうかなあ。
そうやって、感情のままに仕事を選んだり、サボったり、放棄したりするようないい加減なことができる人のような強さはわたしにはない。
つまり、わたしはそこまでわがままではないから、それほど強いわけではないと思っている。
きっとその人は嫌がるだろうけど、誰かに世話を焼いてもらわないといけない人なのだ。
それを自分が受け入れられないことだけを理由に、「まともに働けない」でいる。その結果、仕事の相手に迷惑をかけることを厭わない。結果としてこのような他害行為をほどできる人ほど強いものはない。

先日の会議では、区役所も「障害者は怖い」という「偏見」で仕事を選んだりやらなかったりした。
それを批判的に聞いていた補助人も同じだった。

どちらも「嫌だ」「好き」「嫌い」で仕事を選びたがる傾向がある。そのことで不利益を被るのはいつも当事者だ。しかもそんな価値観でありながら、自らの言動を適切に振り返れない。
自分で自分に言い訳をして勝手に許している。

結局そんな人たちは、一切の言動に自覚がない。
反省することもない。もしかしたらそのやり方も知らないのかもしれない。
誰に甘やかされたのかわからないが、自立していない人たちがやたらやってくる。
最近、そんなオッサンやオバハンがわたしの身の回りにとにかく多くて嫌になる。

そこで提案がある。
この業界は、一度40歳定年という制度を導入して、非常に民主的な形で再雇用を検討するようにするべきなのではないだろうか。
つまり、この社会に生きる人は、一旦40歳を超えると自分はとにかく一定の老害になると思わなくちゃいけないのだと思う。それくらいのブレーキを一斉にかけないと、こっちも生きていけない。
実際にこれほどオッサンとオバハンの勝手なバグばかり持ち込んでこられても困るのだ。正直言って、彼らはこちらには給料もないのに、仕事のできない自分への支援ばかり当然のように求めてくるのだ。

だから、昨日、そんな補助人を励ましてほしいともう一人のちゃらんぽらんなオッサンは言っていたが、もうわたしはしない。なぜなら今まで散々やってきたからだ。しかももうわたしとその女性との間の溝は、小さな偏見じゃなくて、明確な差別に変容している。
こうなると福祉業界にいるのは危険なのだと上司が話さないと困る。

そもそも自分のことくらい自分でしなさい、というのが我が家の掟で、ペットたちも守っているくらいなんだ。
彼らは、なんだかんだとゴネたところでプロのはずなのだ。
つくづくしっかりしてもらいたいものだ。こっちは疲れて仕方がない。




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