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日々の考察 vol.22 虐待って終わるのか。どうやったら終わるのか。




最近とてもえげつないニュースが多い。

どうやらあっちこっちの公務員の方々が無茶をしているようで、記者会見ばかりが目につく。

あっちでペコペコ、こっちでペコペコ、合間に開き直るやつやら、おっさんというのは本当に人の事情より自分の事情なんだなと思う。

ここのところ、虐待によって起きるニュースも多く、その度に児相だの施設管理者だののおっさんが似たようなことを言い訳しながら謝罪しているのだ。つくづく奇妙な時代である。虐待はかなり熟練の第三者によって判断されてしまうくせに、その判断の基準は被虐待者の気持ちによるという責任逃れな構図があるから、結果的になかなかいい加減なことになり、結局悲劇は起こるべくして起こる。こういった相談機関は、すぐに「業務としての関わりの限界」を言い訳にするが、そのような方は、そもそもそのような職業に向かない。自分の立場のために判断することを嫌うような大人が子供を助けることは無理なのだ。後から悔やむことは誰でもできるが、命を救うことの責任が取れないなら、そもそもいない方がいい。

業務の前に一人の人間であることを忘れてしまうような人は福祉業界にいてはいけないのだ。

これが公務員というものかと実に情けない。自分の愚かさを競い合ってどうする。なぜおっさんにはまともな羞恥心もないのか。


虐待事案において、正直言って自分で今虐待を受けていると自覚できる人は大人でも少ないのではないだろうか。やっている側もそうかもしれないけれど。

本人としては、ただそのようなものとひたすら教えられるとともに、圧倒的な受け身でしかないからだ。だいたいその空間には、真っ当な常識的モラルはないのだ。だから良識ある第三者がその常識的モラルにおいて介入して支援しなければ助けられないのだ。ややこしい理屈を捏ねていることと命を助けることはどちらが優先されるか、それこそ本来悩むまでもないことのはずなのだ。つまり根本的に命を助けない理由というのはありえないからだ。

さてわたしの育った環境は、その点においてとても酷かったみたいだ。

そんな過去の一コマを話すにしても、毎回毎回「実際あったよりひどく話していないだろうか?」とわたしは自問自答する。表現し難い暴露に伴う罪悪感や、この期に及んで事態を矮小化しなきゃという気持ちが瞬時に働き、それが実はとても疲れるのだ。自分の中の気持ちがとても巨大な綱引きをするみたいに。だからつい「大したことではないのだけどね」という話し方になってしまうのだ。というか、もはやわたしはそんな話し方しかできなくなってしまったようだ。

自分を疑うことは客観性をもつことにおいてとても重要だけど、いつもいつもこういうふうにやるとしんどくなってしまうし、結局疲れてしまって何もできなくなってしまうのだ。そういう意味において、やっぱりわたしにとって最終的に自分を信じ切ることは、とても難しい。自尊心だとかなんだとか、いつも結構苦心しながら話している気がしている。


よく被虐待児の後遺症として他人を信用できないと言われるが、わたしの感情はそんなに可愛いものではない。

誰より信じることができないのは、ずっとずっと自分だったし今でもきっとそうなのだ。

そして、実のところ他人に心をどうこうするほどの感情の余地がないというのが、正確なわたしの気持ちなのだ。だから他人の場合、信じるとか信じないとかの次元ではない、圧倒的に信じ難い自分よりは遥かにマシに違いないマシなはずなんだ、そういう発想で接している気がしている。

だいたいいつもそんな感じである。


この頃、カウンセリングでコアな自分の過去を話す機会が続いた。

いつも思うのだけど、わたしにとっての過去は、ずっと他人事みたいな記憶なのだ。当時の痛みや苦しさ、そんなことの一々は、あまり感情的に思い出すこともなく、ただただ普段開けない冷凍庫に入って在庫チェックをしているだけなのだ。

そしてやっぱり一つ一つが、カチンカチンコチンに凍っていてとても重いなと実感するだけなのだ。

ただ、自分でもこれはやばいのかなと思ったのが、実はそんな冷凍の荷物が想像以上に多かったということ。そんなわけでわたしは今結構くたびれている。



ここに心理的虐待の種類みたいなリストがある。

四 心理的虐待  ・ ことばによる脅かし、脅迫など。

         ・ 子どもを無視したり、拒否的な態度を示すことなど。 

        ・ 子どもの心を傷つけることを繰り返し言う。 

        ・ 子どもの自尊心を傷つけるような言動など。

         ・ 他のきょうだいとは著しく差別的な扱いをする。 

        ・ 配偶者やその他の家族などに対する暴力や暴言。

         ・ 子どものきょうだいに、一~四の行為を行う。 など

             (厚生労働省の児童家庭局資料による)


ちなみにわたしの親はこれを全部やっていた。

もちろん身体的にも、髪の毛はよく引っ張られたし、殴られる時も多かった。

そして、親は宗教家でもあった。

そしてその虐待行為は今、どうしたことか妹にも引き継がれ、さわれば再発するほどに繰り返している真っ最中なのだ。だからわたしは触らないでいる、それだけの状態である。

多分そんなふうに現在進行形であることが、今だってまだ冷凍になっているわたしの過去をどうにかしなければとわたし自身が思うことにならない、1番の理由かもしれないと思う。

そんな戦場のような地獄の中で解凍したところで、現状を持ち堪えられなくなるからだ。

わたしの周囲の方が現状は解決していると思ったとしても、少なくともわたしは違うと思うし、虐待は一度も終了したことがないままだと思いながら、どうにか気持ちだけ助かることはきっと起こらない。そう思うのだ。だからいつもいつも過去を解凍することもないのかもと少し思ったりしている。

これって本来の言葉通りのPTSDなのかなあ。終わっていない虐待行為と取るのか、もう終了した後に出るPTSDの症状に過ぎないと取るのか。

わたしにはわからない。あまりにも表面的ではないか、もしこれが安全な上にいますよというのなら、それはなんか違う気がするんだけどなあという気分なのだ。

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