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兵庫県知事問題:民主主義の限界と、それでも希望を捨てたくない私たち



斎藤元彦兵庫県知事 NHK出演も質疑かみ合わず 実績誇示にキャスターから制止 告発者捜しは「法の課題にも」ベストの対応主張

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デイリースポーツ


今日も兵庫県知事の問題である。この間とにかくわたしはずっとあまりにも興味深すぎて毎日ニュースに釘付けだった。


県職員に対するハラスメント、それを隠蔽しようとした事実、そして不信任案可決… まるでドラマのような展開だった。でもよくこれはわたしたちが生きている社会そのものの縮図なのかもしれない。だからこそわたしは毎日その問題から目が離せなかったのかもしれない。


あの知事は、自分の非を認めようとしない頑固さで、もはや新手のヒールとしてエンターテイメント性まであった。毎日増えていく、これだけで十分映画化できそうな程のエピソードの多さにも驚いた。 でも、彼の行動は、単に「面白い」だけじゃ済まされない。 彼の言動は、権力者の傲慢さ、そしてそれを取り巻く人間関係の歪みを露呈した。


議会側の対応も、正直、モヤモヤが残る。 確かに知事の行動は問題だけど、あの「集団による排除」のような様相は、見ていて気持ちのいいものではなかった。 まるで、学校で「変わり者」を仲間はずれにするような、どこか残酷な感じが漂っていた。


民主主義社会において、議論を尽くすことは重要だ。 でも、あの知事の場合、どんなに丁寧に説明しても理解できないんじゃないかと、正直思ってしまう。 彼は、自分の行動がなぜ問題なのか、理解できていないし、今後も理解する可能性はないのかもしれない。


でも、だからと言って、議会側が一方的に議論を放棄していいのだろうか?


あの知事の「鋼のメンタル」は、ある意味、彼の「頑固さ」の裏返しなのかもしれない。 彼は、自分の考えを変えることを拒否し、周囲の意見を聞き入れようとしなかった。


でも、もし、議会側がもっと粘り強く、知事が理解できるまで説明を続け、議論を深めていたら… もしかしたら、彼は自分の過ちに気づき、反省できたかもしれない。もう一歩踏み込んで彼の精神的なこだわりにまで踏み込むことがもしかしたら必要なのではなかったか。誰が何を言っても彼には届いていないほどの状態であるということがいまだに問題として残っているがために強くそう思う。


今回の事件は、民主主義の限界を私たちに突きつけた。 どんなに議論を重ねても、理解できない相手は存在する。時としてその人の異常性が大いに他害的である場合、そのことに触れずに済ませようとすると、こういった齟齬をどこまでも持ったまま進んでしまうのだ。 そして、時には、集団による圧力で、その相手を排除せざるを得ない状況も起こる。それでもなお彼は止まることを知らないまま暴走し続けている。
ここにわたしは非常に大きな違和感を覚える。
そんなことをしてしまうのか、こうせざるを得ないのかとため息が出るような…。


でも、それでも、わたしたちは希望を捨てたくない。この先があると信じたい。


この事件を教訓に、わたしたちは、より建設的な議論の場を創出し、お互いを理解し尊重する社会を目指していく必要がある。


あの知事の「頑固さ」は、私たちに、民主主義の脆さ、そして、それでも諦めずに、より良い社会を目指していくことの大切さを教えてくれた。


この事件は、私たちにとって、忘れられない教訓となるだろう。

議論と民主主義、民主主義と正義の話はいつもどこかにずれを生み出す。このことがある限り、民主主義はまだまだ未完成にも思える。
諦めることのない関係性を維持するためにできることを見つけたい。


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