最近、誰も彼も何かといえば 声高に自らのストレスを主張するようになった。
きっとよく知らないで言っていたりするんだろうなと思える場面も多い。つまり、だからなんやねんみたいな件でも主張すれば通るからだ。
そもそも、ストレスというのは誰にでも何にでもあるものなのだ。嫌だとかしんどいとかの合言葉ではない。物事や現象とのいい面でも悪い面でも起こる摩擦のようなものなのだ。
例えば旅行に行くと決めることで起こる期待と不安があるとしたら、その「どちらも」が心理的要因となるということだ。
だからそんなことがどうなのかともう一つ踏み込んだ上で起こる、心理的、身体的、そして行動面でも起こる反応が病的で
ある場合改めて旅行自体をどうするか、といった考察になる。その経緯があって初めてこの旅行がストレス要因なので旅行は取りやめたいなどとと主張するものではないか。そういった考察を経ないで、旅行が面倒だからとか違う次元のことを主張する際の表現として「ストレス」と言っているかのような誤用があまりに多い。言葉としては正確なのかもしれないけれど、他者に対応を求めて主張するようなほどのことではない。それはただの個人的感想にすぎないからである。つまり、そのことによって起こる問題はきちんと自分で対処することなのである
他者に対応を求めなきゃならないようなストレスというのは、一般的な暮らしや業務上起こりうる範囲ではないものを指す、ということくらいは知っていてほしいし、それを主張する際には然るべき客観的な診断というものが当然必要になる。
と、こんなことを言っている自分にすでに嫌気がしているのは、こうまで言わなきゃならなくなった背景と、もっともっと理解がなかった時代の苦難をわたしは体験的に知っているからである。
本当に辛い最中にいるものにとってストレスとは、気づけば重すぎるものとしてそこにあるものであり、なかなか簡単に武器と変えられるものではない。そういった気づきに自らが至るまでに、中には命を落としてしまう人も出るほどの重荷なのである。体験的に知らない人は、このことを無理やり矮小化せずそのまま心に入れてほしい。こういうことがあるのかと。無理やりわかったふりはしなくていいからそういうことそのものをインストールしてほしいのだ。
生きていく上で、自分の思うように行かないことの全てを目の前から排除していく考え方そのものが大いに問題なのであり、どうしてうまくいかないのかを深く考えながら試行錯誤し、常に共存していくための選択をしながらやっていくことそのものが、この頃とても貴重になってきてしまっている気がしてならない。
そんな中、前項でも述べたパワハラの加害者側にいる県知事が「県職員の皆さんにストレスケアの窓口を用意している」と言っている映像がなんの注釈もなくニュースで流れたりすることに、わたしは本当にジャーナリストの人たちの無知なのか無関心なのかよくわからない配慮のなさを感じ取っていた。
被害者が武器としてストレスと口にするならまだしも、あんたが口にするなよ、おこがましい、と言う知事と放送に携わる人たちの無神経さへの怒りである。
でも今の社会において、ストレスというものは、本当に加害者たちにもっと露骨に悪用されていて、このことに誰も対処できないでいる。
わたしが普段出会う福祉の場ですでにそうなのだから、一般的な社会の中ではもっとそうなのかもしれない。
わたしは、いくら無神経な文言を浴びせられたとしても、そのことをひとまず第三者に伝えることができるのだけど、現実ではそれができない当事者が本当に多い。そんな中で、ハラスメント的に支援者に「ストレス」という言葉を濫用されることというのは、筆舌に尽くし難い侮辱行為である。
この感覚を他の支援者や行政機関、捜査機関も理解して断罪してもらわないとお話にならない。
そのためにも、自らの健康被害をもたらすストレスという言葉の使い方をきちんと学んでもらいたいと心から思う。
本当に今辛い人にも、嫌なことを回避・排除するための手段としてのみ利用しようとしている人にも。そして自分はどうなのか、この意味できちんと言葉を使えているのか、また判断できているのか、根本からきちんと検証するしかないのだ。
すごく残念ではあるのだけれど、昨今の濫用されている様子を見るにつけ、わたしはこのように入り口から限定していくしかないのかなと思ったりしている。
医療がきちんと関わっているとも限らない事情の人もいれば、その医療ですら拝金主義の医者なんぞがいて、簡単に診断書を作成してしまうようなご時世なのだ。
こんな時代において「客観性」と良心が社会的な同意の中でどれほど共有できるか、ということよりも「誤魔化せるか」で動いているような気がしてならない。
これでもわたしは、極力、本当に二進も三進も行かないで困っている人たちの声がきちんと届くために、と思っているのだけれど、その入り口で絞るようなやり方が適切なのかは、提唱しておいてなんなのだが、まだクエスチョンのままではある。
この間ずっとわたしは今の精神医学とその社会性ということにおいては、かなり未熟だと思っている。医療なんぞ半ば崩壊しているようなものだと言ってもいい。非常に情けない事態であるといえる中で、それでも社会的な役割と責任はとても重いと思っている。なぜなら福祉の現場での医療の存在は必要不可欠でその発言力は実情以上に大きいからだ。たまに間違えて当事者の声より重要視する支援者まで出てくるほどだから始末に追えないのだけれど。
そのくせ「ストレス」案件の大元である精神医療側は何一つそう言った無茶苦茶な世の中へ警告も発しないどころか乱発する無責任な診断書によってもたらされる利潤に目が眩んでいるのではないか、とさえ思えるのだ。つくづくしっかりしてもらいたい。せめてその診断書がどのような目的で使われるのかぐらいはしっかり理解してほしいと思う。
そしてまたしても行政である。「診断はお医者様へ」みたいに完全分業なのをいいことに素人判断で適当なことを言ったりしながら数々の虐待案件や握り潰してきたし不当な主張やでっち上げを通してきたしこれからもそうだろう。なんと無責任なことか。
なぜなら社会的に今「なんに対してもストレスを主張するだけで自分は守られる」というスキームがほぼ達成できてきているからだ。これを否定してしまうと、自らの保障にも関わるとでも言いたいみたいに。
その結果、「やりたくないなあ」と思ったら「ストレス」を主張して断る支援者がうじゃうじゃ出てくることになった。
ああ考えるだけで腹が立つ。
ああ腹がたつ。弱者がやっと手にした権利を強者が踏み荒らしていくようでつくづく怒りを覚える。
今までそんなことになんの配慮もされてこず、圧倒的な差別に苦しんできた当事者にとって、これほど失礼なことはないのだ。これは多くの当事者が、苦しみながら、多くを失いながら、やっと手にしてきた権利なのだ。
そして、そのふざけすぎたスキームというものに、なぜか精神障害当事者は除外されている。
もう一度いう。
「ストレスさえ主張すればどんな要求も通る」という新しい社会が獲得したスキームの中に、精神障害者は「入らない」
わたしはこの事実を何度も体験した。見たし聞いたし経験もした。
嘘でしょ?と思って行政に何度も確認したし、何度も交渉もした。
でもこれが現時点の結論である。
お役所の出している結論である。
今、わたしはこの一定の結果に全く納得できないでいる。
これを「強いこだわりですねえ」と言いたいなら言えばいい。
実際に強い自覚を持ってこだわっているからだ。
こんなことを許したら、精神障害者への支援というものはきちんと機能できていないということと同じである。
ただ支援者が、あの人は嫌だこの人の方が楽と行き先を選ぶことのために悪用されるだけの理由に成り果ててしまっているからだ。こうやって強者側がストレスを主張することが、弱者へのハラスメントとなる。
正直言って、久しぶりにこのことのもたらす精神的ダメージに打ちのめされそうになっているが、でもここで倒れていてはいけないのだ。ここからどうこの問題にカタをつけるのか。
そんなことをずっと考えている。
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