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人格改造の告白

本当に幼い頃、わたしは今と全然違うタイプの性格だった。
わたしの家では強すぎる家父長制と宗教の色が強く出過ぎて何がなんやらわかりずらい両親が絶対的であったので、色々とぶつかることも多かったが、実際にはその前は非常に従順できっとそこそこいい子だったと思う。ユニークではあったと思うが。
わたしの親は、これをしろあれをしろという前になぜやらなかったのかという追求をよくしたのだが、今思うとそのようなスピリチュアルな要求にすらそこそこ対応できるほど、親から見た時に大きな問題を感じることもなかったのではと思ったりしている。年齢にしてはかなりヘビーな要求が次から次からあったのも事実だが、なんだかんだで一生懸命それをやろうとしていた。
しかし、中学校で私学に入った途端、授業料が高いことでそれを引き換えに何かをやれという親からの言い分が増えていった。
「もう授業料払わへんぞ」ということを二言目には言われたものだった。今思うとじゃあ払わなければよかったのにとも思えるがその頃のわたしは脅しに素直に怯え、なんとかしようと努力していたのだと思う、幼かったので。
そんなわけでだんだん親の言い分が奇妙に変化し始めた。無茶振りや理不尽なものも増えていった。

ところが、中学二年生の初めにちょっとしたいじめのような出来事があった。クラブ活動の中で、所属する同学年の人全てに嫌われていたということが発覚したのだった。その時までそんなに嫌われていたことをわたし自身が知らなかったことが一番びっくりだったが、その直後、これは困ったことになった、と思った。
なぜなら彼女たちはかなり人数が多く、今後の学生生活を脅かすほどあちこちにいたからだ。なんかやばいことになりそうな予感がして、どうしようかと思った時にまず決めたことは、
「とにかくこちらが誰一人も気にしないようにしよう。忘れたふりをできるほど気にしないでいたら、彼女たちはもうそれ以上言ってこないはず」ということだった。
そもそも大した理由もないのに多数決のような形で追い出されたから、その葛藤も強く、決断に悩みすごく辛かった。でもそうしないとここでは生きていけない、そう思ったのだった。だから単なるクラブ活動をやめたというだけのこととしてこの件を終えようとしたのだった。わたしの側が気にしなければなんとかなるということだけはわかっていた。それで本当に終われると思ったのだった。

その時に、わたしは自分の環境と今後をすごく考えた。
”わたしはきっと家族には頼れない人生になるだろう、だから社会の方に期待するしかない、世の中にはあんなに多くの人がいるんだからほんのちょっとぐらいは困った時にわたしの味方をしてくれる人も出てくるだろう。そのためにはより多くの人に嫌われないようにしないといけない。でも嫌われないためにはわたしの方が先に誰もを好きにならなければいけない、わたしは生きるためにそうしなければならないのだ、手始めにまだ会話したこともない同学年の人たちとも誰とも仲良くやっていこう”
大体そんなことを考え、実行することを決意した。これから始めて出会う他者とその時から自分自身が第一に考えることまでを決めてしまったのだった。
”必ず1番先にその人のいいところを見つけよう、そうしたらわたしはその人を嫌いにはなれないはずなのだ”
まずそれを癖づけることにしたのだ。
それはなんとなくそういう人になりたかったというわたしの一つの理想の人物像でもあった。わたしは愛情深い人でありたかった。

それからのわたしはいわば意図的に積極的な人になった。
それは実際のところ「嫌われない人でありたい」などという生やさしいものではなかった。もっと愛に溢れた人でなければいけないと真面目にそこを自分に求めたのだ。一方的な見返りを求めない好意を持って人と接すること。
あらゆる直感的な「危険」すら超えるいいところ探しと深い愛情を自分に義務付けたのだ。直感をコントロールすることは実際にはできない気がするので、きっとわたしはそれを見ない感じないふりをしてでも義務を徹底した。

そんなこんなでこの後数年間は、なんだかとにかく大変だった。元々そんなに陽気だったわけでもなかった。なぜか目立ってしまうかもしれないが、本人はいたって真面目なだけの子どもだった。しかもそんなに愛情を知っているわけでもなかったと思う。やさしくあれと自分に絶対条件として求めていったのだった。

その結果、今はその改造後の性格のままでいる。多分。元がわからなくなってしまったほどではあるが、決して成功したとは思っていない
もっと実際には経験や環境によって進化というか変化している部分はあるけど、ま、そもそも人というのはそれなりに緩やかに変容、成長していくものである。
本来そんな突貫工事のようなことをして変える方が異常なのだ。

でも、自分では割と今の性格の気楽さが好きだったりする。たくさんの好きに囲まれているような気もする。
自分が好きを撒き散らかすことで、単純に心地いい空間になるということも学んだし、何より実際に社会に味方を求めたことはわたしにとってやはり必然であった。
ま、いいっかと言える気楽さを手に入れたのは、そのおかげだと思っている。そういう自信はあるけれど、人には絶対にお勧めしない。実際には意図的にやることではないし、なんか大変だった。これがうまく言えないが大変であったということはわたしはやっぱりただの人間だったという証左でもあり、わたしはその点は強く強く自覚している。偽物臭いというか。ま、そんなもんである。
それでもまあいっかとは思っているが。
やはりあの時期あまりにもしんどかったので、絶対に薦めるわけにはいかない。

冷静に考えるなら、もっと環境を変えるとか他にやれる手段はあると思うし助け手も以前より増えている時代になった。だからそんなことはしなくていいと心から思っている。

やっぱり自然を捻じ曲げることをしてはいけない。
わたしの今抱える辛さのほんの少しは、きっとそういうものによることなのだと実感するから、やめた方がいいのだ。

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