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セカンドレイプ、その誤用について


 

最近、報道の中心にあるのは、有名男性司会者が出演するテレビ局が関係した女性アナウンサーへの性暴力事件と、その隠蔽が発覚した大スキャンダルだ。広告は軒並み引き揚げられ、CM もまともに流れない。世界中で報道され、収拾がつかない状態のテレビ局に対し、司会者は速やかに引退を表明。被害女性は PTSD を発症し、既に退社している。

この事件に関して、多くの批判が寄せられているが、その中で特に問題なのは、一部のインフルエンサーによる発言だ。彼らは「女性と司会者、テレビ局の問題は別物だ」と主張し、司会者と女性の問題を持ち出す人を「理性的じゃない」「そんな話を持ち出すことはセカンドレイプにあたる」「そんなこともわからないのか」と非難する。

しかし、私は、これらのインフルエンサーの発言が、事件の本質を理解していないどころか、結果的にテレビ局の隠蔽行為に加担していると考える。彼らは「セカンドレイプ」という言葉を用いることで、問題の本質をすり替え、議論を矮小化しようとしている。本来、セカンドレイプとは、性暴力被害者が事件について話したり、助けを求めたりする際に、周囲の人々から二次的な被害を受けることを指す。しかし、インフルエンサーの発言は、被害者の発言を直接的に阻害するものではない。

インフルエンサーたちの発言の真の問題点は、事件の根源である性暴力と、テレビ局による隠蔽行為という二つの重大な問題を、意図的に切り離そうとする点にある。これによって、真相究明が妨げられ、テレビ局の責任が曖昧になり、事件の全容解明が困難になっている。「セカンドレイプ」という言葉を使うことで、まるで批判する側が二次被害を助長しているかのような印象操作を行い、批判を封じ込める意図が見え隠れする。

この事件の根底にあるのは、司会者の性暴力だ。「飲みに来い」といった程度のことで、これほど大きな社会問題にはならない。社会がおかしいと言っているのは、パワハラだけではない。テレビ局は、社員が上司に呼ばれた先で性暴力の可能性を知っていたのか、という点だ。テレビ局、そしてマスコミは、事件の出発点をずらし続け、本質を見失わせようとしている。

この問題は、最初の性暴力抜きには語れない。それは大きな犯罪だ。テレビ局は記者会見で「人権への配慮」を理由に、司会者と女性の問題を扱うことを拒否した。一体誰への配慮なのか?普段人権を語らない連中が、都合よく人権を持ち出す図々しさ。自分たちが人権に配慮してきたなら、なぜ今、辞任に追い込まれているのか?なぜ司会者は引退し、広告はなくなったのか?謝罪会見なのに、記者に不適切な条件を突きつける立場なのか?人権を踏みにじってきたことがバレたくなかっただけだろう。まともな人権感覚があれば、あんな会見もしないし、報道を拒むこともないはずだ。彼らは事件を知らなかった、知ろうともしなかった。呆れるばかりだ。

偏ったガバナンス、そしてそのような日本社会に女性たちが怒り、国民、世界が怒っているのに、なぜ彼らはわからないのか。一部のインフルエンサーも、「人権への配慮」「二次被害を避けるため」と、出発点に触れず、隠蔽工作に加担している。出発点をずらせば終着点も変わる。それが今の日本社会の歪みだ。私はそれに怒りを覚える。

この事件の被害者は、司会者の家に送られた女性一人だ。根本を見ないふりをしながら解決などできるはずがない。私は、この事件の本質を訴え続けなければならない。さもなければ、日本のジェンダーバイアスはいつまでも最下位争いをするだろう。言葉の意味を都合よく変えることは許されない。事件を事件としてきちんと認識し、見ないふりをしないこと。さもなければ、この国では同じことが繰り返されるだろう。彼らのやらなかったことに思いを馳せ、怒るべきだ。

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