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2月, 2024の投稿を表示しています

日々の考察 vol.19 嫌な予感が「正解」となる確率について

 ここ一年というもの、本当になかなか苦心したものだったと言えると我ながら思う。 何のために?というとそれは、ただ生きていくために、ということに過ぎない。 たくさんの一方的な、つまり暴力的な出来事をわたしの家で繰り広げて去っていった事業所と区役所の人たちの『仕業』についての事後処理に、まだまだとても新たな支援が追いつかないのである。 最終的に、右京区役所については京都市役所がやっと動いてくれるとい一報が入り、自分でも驚くほどの安堵をしていたのだった。 その安堵というものの実体として、その連絡をもらったのはお昼頃だったのだけど、夕方入浴した際にわたしの両腕のみに覚えのない湿疹がびっしり出ていたのだった。 痛くも痒くもない湿疹はストレスだった。自覚のない部分のストレスがやっと解放されて顕在化したもの。 今までいろんな症状を体験してきたのだけど、この体験は初めてだった。 ああ、わたしは思っていたより大変だったんだなあとわたしは初めてそのときに自分を褒めたくなったのだった。 何もまだ解決したというものでもないのに、それが形となったものではないのに、勝手に市役所の方の姿勢が変わったことで、安堵していた。それくらいわたしは嬉しかった。 支援にまつわるトラブルを経験していて、あるフェミニストの方が言った「それは性暴力の案件の取り扱いに似ている」という指摘の重さを毎回感じていた。 つまりこれは「支援という暴力」とも言える。 性暴力の問題の取り扱いにおいて、そもそも性行為というものの捉え方が違う際に、同意のあるなしが現実的な確認事項となりうるのだけれど、支援という言葉というものの受ける側とする側の捉え方が違うときに同意を得ずに一方的な支援を貫くことが、全く構図として同じなのではないか、また事後にこんなことをされたと言っても、やってくれたことについてそういうふうに取らなくてもいいのではないか、という言い聞かせのような弁解も聞くことになる。 本来、支援の時間というものは両者にとって有意義であることでもあり、決して我慢の時間ではないはずなのだ。だからその一方的になりやすいことの問題性について、もっと重要視すべきなのだ。そもそも、物理的に「力」のあるのは支援する側の方なのだ。その点について支援の場はそれほどイーブンな場ではない。そもそも支援者は、圧倒的に「力」がある存在でなければならな...

科学はおっさんのものなのか 『キング・オブ・クローン』netfrix

https://www.netflix.com/jp/title/81516199 学者バカという言葉がある。 決して褒め言葉でもない、結局のところ、極めて既存の男性的な狭い了見で好きな分野だけしかものを知らない人のこととなるのだろう。研究対象のことしか知らないような人。 まあ、おっさんに多い。学者でもないのにそもそも狭い世界観でしかものを見れなくなるようなこと自体がおっさんの感覚でしかないから困ったものだ。しかもその狭い自分の世界に対して無駄に高すぎるプライドもあったりするから非常に迷惑なのだ。 このドキュメンタリーのおっさんもただの学者バカである。「科学者として当然のことです」と何度も彼は言うが、その前にあなたは人間でしょうが、と見ていて思った。勝手に「科学者」と言う言葉をカテゴライズして、印籠のように使う時点で彼は本来の意味での「科学者」としてダメなやつなのだ。だと言うのに、なんという傲慢さだろうか。 つくづくおっさんという人たちは折に触れて自分の言動の正体について考えてみるべきなのだ。日本は「専門家」ばかりで細分化した縦割り文化であるとわたしは思うのだけど、そうやってお互いの分野にあまりにも関与しないことばかりをやってきたから、他のおっさんの不正に甘い。「よそはよそ、うちはうち」とも言わんばかりに。社会的構造がそうなったまま結構長くなってきたことで、おっさんは連携することが非常に下手である。変にプライドばかりを刺激しあったりしてしまい喧嘩になるか、それが嫌すぎて関与しないという力が働いてしまうのだ。結局自分を守るために他者に関わらない、そういう内向きで狭いところで生きるしかないことを自ら強いるのがこの国でもいろんな団体のやり方になっている。 小さな組織になればなるほど、小さな権威しかないから無駄に大きく見られるためか、暴力的なおっさんがいたりする。 わたしが若い頃までは、当たり前に男性だけがリーダー役を買って出るものだった。優秀なのはいつも男性だと言う幻の歴史的な刷り込みによるものである。 そんな男性の生き方を見てみると、たいてい異常なほど生活にまつわる部分の能力が欠落していることが多いと思う。幼少の頃は母親が、大人になれば妻が、など過程の時点で既に主に女性の誰かがいないと生きることができない。「妻の支え」というが、それはつまりれっきとした支援とも言えるだろ...

日々の考察 vol.18 違和感の正体

  違和感について じぶんと他者との間に起こることが、うまくいっていると思えるかどうか、人はそれのみに心を翻弄され続ける生き物なのかもしれない。 結局人という生き物の持つ「群れで生きていく」という特性と、「それぞれが考える」という場合の過程をどう折り合えるかを持て余すものなのだ。 そもそも個体が違えば価値観が違う。瞬間的に生じるその違和感の正体に混乱したままでいることを、人は「生きていくのが苦しい」というふうに感じるのではないかと思うのだ。 動物たちの中にも同じように群れで生きていく種は存在するけれど、基本的に弱肉強食で生きることを是としている以上、生きにくいと思う個体については検討の余地がないのが当然なのだ。 だから、ヒトも同じなのかという大きな宿命のような問いを抱えながら、いやそうではないはずでしょう?と長い間生きてきた中でヒトは社会的責任とか福祉とか、また教育とかいう文化を作り出してきたことの証でもあると言えるのではないだろうか。まあ、一つの悪あがきなのだろう。ヒトという種のプライドというものがあるとするなら、そういった「生きにくさを考える力」にかかっているのではないのかとわたしは思うのである。 さて、そんな考えることを誇るヒトという種はいまだに「正解」に辿り着いていないし、その悪あがきの先にはもしかしたら「正解」がないこともあるのだと薄々わかっているのではないか、そんな共通の認識がぼんやりと生まれてきているのではないかなあと、最近特に思う場面がある。 人と人、人と団体などの関係性に変化が生じる大きなうねりを感じるのだ。もっというなら毎日のニュースを見て、あらゆる暴力的な出来事をまるで膿を出すかのように溢れていることを見ていても思う。 特に日本という国においてのそういった関係性は割と特殊で、わたしはその根底に島国であるという事情による鎖国文化のようなものが、やたら肯定的に捉えられている事情があるのだろうと思っているのだけれど、それはつまり異常なほどの個々の人権意識の欠落を家族や地域というコミュニティが代わりとなって補完する制度で賄ってきたことにある。 この国のガラパゴス化した進化の先にある昨今、急に行政的な破綻やカルトの台頭、癒着が登場してきて、じわじわと、「うまくやってると言っていたくせに実はできてなかったんじゃないのか?わたしたちは騙されてきたのか...