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兵庫県知事問題:民主主義の限界と、それでも希望を捨てたくない私たち

斎藤元彦兵庫県知事 NHK出演も質疑かみ合わず 実績誇示にキャスターから制止 告発者捜しは「法の課題にも」ベストの対応主張 9/22(日) 17:35 配信 2009 コメント2009件  斎藤元彦兵庫県知事  パワハラ疑惑による県政の停滞を招いたとして、議会から不信任案が可決した斎藤元彦兵庫県知事が20日、NHK「かんさい熱視線」に出演。キャスターや県政担当記者からの質疑が終始、かみ合わなかった。 【写真】目を真っ赤にして涙ぐみながら答える斎藤兵庫県知事 https://news.yahoo.co.jp/articles/979fb7110840521a205a7b7f0bcadb9cc55527ef 今日も兵庫県知事の問題である。この間とにかくわたしはずっとあまりにも興味深すぎて毎日ニュースに釘付けだった。 県職員に対するハラスメント、それを隠蔽しようとした事実、そして不信任案可決… まるでドラマのような展開だった。でもよくこれはわたしたちが生きている社会そのものの縮図なのかもしれない。だからこそわたしは毎日その問題から目が離せなかったのかもしれない。 あの知事は、自分の非を認めようとしない頑固さで、もはや新手のヒールとしてエンターテイメント性まであった。毎日増えていく、これだけで十分映画化できそうな程のエピソードの多さにも驚いた。 でも、彼の行動は、単に「面白い」だけじゃ済まされない。 彼の言動は、権力者の傲慢さ、そしてそれを取り巻く人間関係の歪みを露呈した。 議会側の対応も、正直、モヤモヤが残る。 確かに知事の行動は問題だけど、あの「集団による排除」のような様相は、見ていて気持ちのいいものではなかった。 まるで、学校で「変わり者」を仲間はずれにするような、どこか残酷な感じが漂っていた。 民主主義社会において、議論を尽くすことは重要だ。 でも、あの知事の場合、どんなに丁寧に説明しても理解できないんじゃないかと、正直思ってしまう。 彼は、自分の行動がなぜ問題なのか、理解できていないし、今後も理解する可能性はないのかもしれない。 でも、だからと言って、議会側が一方的に議論を放棄していいのだろうか? あの知事の「鋼のメンタル」は、ある意味、彼の「頑固さ」の裏返しなのかもしれない。 彼は、自分の考えを変えることを拒否し、周囲の意見を聞き入れようとしなかっ...

日々の考察vol.26 奇しくも詐欺師を働かせた話

  玄関のチャイムが鳴った。 犬が吠えてそれを制しながら扉を開けたら、 「こんにちは。今、無料でいらない家電を集めさせてもらっていますが何かありますか」 割と体格のいい若い男の子が言った。 なんとも言えない奇妙な感じが少ししたけれど、ちょうど該当するものがあって、それを無料で持っていってくれるならと考え合わせたところ、わたしの心の中は固まった。 「じゃ、ちょっと待ってくれます?うち、動物がいて玄関から出てしまうから一旦締めますね」 そう言って大きいものを二つ、玄関に運んだ。わたしの体力ではそれが限界で、一旦その若い男性に上がってもらって運んでもらおうかなと思ったが、なぜかそんな気になれなかった。 「はい、持ってきたわよ」と玄関の扉を再び開けて呼んだ。 「え?」 「集めてるって言いましたよね?いいんですよね?これで」 「あ、はい」 「悪いんだけど、動物が外に出たがるから急いでいただける?」と言って早く持って出てもらうべく急かした。そして改めて「無料だよね?」と何度も確認して「そうです」というので「じゃよろしく」とお願いした。 「あの、ボク、呼びかけて回ってるんで数時間後取りに来ますんで、ちょっと玄関の前に置いておいていいですか」というので「構わないですが、後で近所に怒られたら困るから必ず取りにきてね、悪いんだけど」と強調した。 そして実際に忘れた頃にまた玄関のチャイムが鳴った。 その時は異様に犬が鳴いて、 「なんでそんなに吠えるのよ」と言いながらまた玄関を開けたら 「すいません。さっきのを取りにきました」 と青年が言った。 「あら、あなた別の人?それだからよろしくね。申し訳ないんだけど、ペットが玄関から出たがるから閉めるね、よろしく」 と言って終わった。 ラッキー、なんか知らんけどラッキーと思っていた。 それが詐欺師だったと昨日知った。 知らんかった。 だからあんなに変な表情をしていたのか。 驚いたけど、やっぱり助かった。 よくわからないが詐欺師の人たち、うちに関してはお疲れさまでした。 奇妙なエピソードだった。

日々の考察vol.25 ハラスメントとストレス、ストレス、ストレス?

最近、誰も彼も何かといえば   声高に自らのストレスを主張するようになった。 きっとよく知らないで言って いたりするんだろうなと思える場面も多い。つまり、だからなんやねんみたいな件でも主張すれば通るからだ。 そもそも、ストレスというのは誰にでも何にでもあるものなのだ。嫌だとかしんどいとかの合言葉ではない。物事や現象とのいい面でも悪い面でも起こる摩擦のようなものなのだ。 例えば旅行に行くと決めることで起こる期待と不安があるとしたら、その「どちらも」が心理的要因となるということだ。 だからそんなことがどうなのかともう一つ踏み込んだ上で起こる、心理的、身体的、そして行動面でも起こる反応が病的で ある場合改めて旅行自体をどうするか、といった考察になる。その経緯があって初めてこの旅行がストレス要因なので旅行は取りやめたいなどとと主張するものではないか。そういった考察を経ないで、旅行が面倒だからとか違う次元のことを主張する際の表現として「ストレス」と言っているかのような誤用があまりに多い。言葉としては正確なのかもしれないけれど、他者に対応を求めて主張するようなほどのことではない。それはただの個人的感想にすぎないからである。つまり、そのことによって起こる問題はきちんと自分で対処することなのである 他者に対応を求めなきゃならないようなストレスというのは、一般的な暮らしや業務上起こりうる範囲ではないものを指す、ということくらいは知っていてほしいし、それを主張する際には然るべき客観的な診断というものが当然必要になる。 と、こんなことを言っている自分にすでに嫌気がしているのは、こうまで言わなきゃならなくなった背景と、もっともっと理解がなかった時代の苦難をわたしは体験的に知っているからである。 本当に辛い最中にいるものにとってストレスとは、気づけば重すぎるものとしてそこにあるものであり、なかなか簡単に武器と変えられるものではない。そういった気づきに自らが至るまでに、中には命を落としてしまう人も出るほどの重荷なのである。体験的に知らない人は、このことを無理やり矮小化せずそのまま心に入れてほしい。こういうことがあるのかと。無理やりわかったふりはしなくていいからそういうことそのものをインストールしてほしいのだ。 生きていく上で、自分の思うように行かないことの全てを目の前から排除していく考...