スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

1月, 2025の投稿を表示しています

セカンドレイプ、その誤用について

  最近、報道の中心にあるのは、有名男性司会者が出演するテレビ局が関係した女性アナウンサーへの性暴力事件と、その隠蔽が発覚した大スキャンダルだ。広告は軒並み引き揚げられ、CM もまともに流れない。世界中で報道され、収拾がつかない状態のテレビ局に対し、司会者は速やかに引退を表明。被害女性は PTSD を発症し、既に退社している。 この事件に関して、多くの批判が寄せられているが、その中で特に問題なのは、一部のインフルエンサーによる発言だ。彼らは「女性と司会者、テレビ局の問題は別物だ」と主張し、司会者と女性の問題を持ち出す人を「理性的じゃない」「そんな話を持ち出すことはセカンドレイプにあたる」「そんなこともわからないのか」と非難する。 しかし、私は、これらのインフルエンサーの発言が、事件の本質を理解していないどころか、結果的にテレビ局の隠蔽行為に加担していると考える。彼らは「セカンドレイプ」という言葉を用いることで、問題の本質をすり替え、議論を矮小化しようとしている。本来、セカンドレイプとは、性暴力被害者が事件について話したり、助けを求めたりする際に、周囲の人々から二次的な被害を受けることを指す。しかし、インフルエンサーの発言は、被害者の発言を直接的に阻害するものではない。 インフルエンサーたちの発言の真の問題点は、事件の根源である性暴力と、テレビ局による隠蔽行為という二つの重大な問題を、意図的に切り離そうとする点にある。これによって、真相究明が妨げられ、テレビ局の責任が曖昧になり、事件の全容解明が困難になっている。「セカンドレイプ」という言葉を使うことで、まるで批判する側が二次被害を助長しているかのような印象操作を行い、批判を封じ込める意図が見え隠れする。 この事件の根底にあるのは、司会者の性暴力だ。「飲みに来い」といった程度のことで、これほど大きな社会問題にはならない。社会がおかしいと言っているのは、パワハラだけではない。テレビ局は、社員が上司に呼ばれた先で性暴力の可能性を知っていたのか、という点だ。テレビ局、そしてマスコミは、事件の出発点をずらし続け、本質を見失わせようとしている。 この問題は、最初の性暴力抜きには語れない。それは大きな犯罪だ。テレビ局は記者会見で「人権への配慮」を理由に、司会者と女性の問題を扱うことを拒否した。一体誰への配慮なのか?普段人権...

オーディション番組でジェンダーを考えた

 オーディション番組というのが数年前からコンスタントに配信されている。 そのことは知っていたが、あまり見たことはなかった。 ところが先日、ふと見たキャッチコピーに 釣られてしっかりと見ることになったものがあった。 No No Girls という女性グループのオーディション番組である。 「身長、体重、年齢はいりません。ただあなたの声と人生を見せてください」という応募要件ということにすごく興味を抱いたのがきっかけである。今までNOと言われてきた女性たちに焦点を当てたオーディションという観点にすごく惹かれたのだ。すごく魅力的なコンセプトに思えた。 彼女たちが合宿やさまざまな審査をくり返しながら、時に励まし合い、でも成長していく物語にすごく引き込まれた。彼女たちの抱える悔しさやコンプレックスは、もしかしたら多くの女性たちに共感を呼び、その苦しみに相対する高い実力を見れば見るほどこの世の不条理を感じながら一緒にその人生を体験している気がするほどだった。そういった意味で非常に意味深く感慨深いドラマを見た気がしていた。 さて、その後わたしはオーディション番組というのに興味を抱いて、その前に開催されていた、同じ事務所が開催した、男性グループのオーディション THE FIRST というのを見た。ちなみにわたしは先に選抜された彼らがデビューしてからの活動というのをほとんど知らなかったので、同じく新鮮な気持ちで見たのだった。 そこで気づいたことというと、男子ってなんでこんなに泣くの?ということだった。言っておくがそうは言っても、わたしももれなく彼らの実力に圧倒され、成長物語に感動したのは紛れもない事実なのだ。 しかしオーディションというのはそう大きな差があるものではなく、女性の場合と同じく、合宿などをしながら勝ち抜いていくスタイルであることには大きな差はなかった。 しかし、しかしだ。女性たちは、決して冷たいわけではない。それぞれを尊重しながら、確かに時にはもらい泣きもしながら成長していくが、誰かが敗退したからといって過剰にそれを残念がることをあまりしない。それはきっと本人が一番悔しいことを誰よりわかるからこそ、安易に同情することをしないのだと思った。 一方男性たちは、一人ひとりが脱落していくたびにほとんど全員が、ものすごく残念がる。号泣し、体の一部がなくなるかの如く嘆き悲しむ。...

ヴィーガンに貧乏人はいない

  環境問題について、昔からずっと思っていることがある。 その理論の基本はわたしたちが住む地球のすぐ先のこれからについてのものであるから、あくまでも全人類が自覚的にしかも早急に取り組むべきなのだという、重大な問題であるという。 しかし、ここ日本だけでなく、どんなに自然災害を体験しても、目撃してもそれが普遍化することがなかなか起こらない。懲りたと言う人たちでこの世の中は溢れていくのに、なぜそういった感覚にならないのか。そういった運動につながらないのか。 特に日本において、自分の身に起こる不幸は、自分や身の回りの誰かのせい、と言う程度の認識に収める人がほとんどである。そのうちの特に多数の人たちは、たとえ自然災害ですら自分のせいのように考えてしまう。被害の跡をなんとかできない自分たちの資本力のなさのせいだと考えたり、時には先祖への弔いをきちんとももっとすべきだったなどと考える。場合によっては、自らがいかに悲惨な状況下にあっても、遠方の家族に世話になることを申し訳なく思って拒否する例もあるだろう。 そういった社会において、環境問題を普遍化することは、非常に困難である。 一つは今述べたような、さまざまな問題に出会った時に、それが環境に起因する問題であるという認識を一人ひとりが持つように社会的にできていない。これは構造的な問題だけでなく、文化的な背景も大きいとわたしは考えている。 ことに日本において、環境問題の被害者になることは、ただの運に過ぎないことの方が多い。 そしてその被害者は悉く社会的に貧困層として存在する。 たとえばドイツの財政難は、環境保護対策に様々な形で影響を与えている。 以下、簡単にその考察を述べる。  ドイツの財政難は、環境保護対策に深刻な影響を与えつつある。  再生可能エネルギーへの投資減少、原子力発電再稼働議論、環境規制緩和圧力など、様々な課題が浮き彫りになっている。  これらの課題に対処するためには、持続可能な経済モデルへの転換、国民への丁寧な説明と合意形成、国際協調の強化などが不可欠です。  短期的な経済的利益と長期的な環境保全のバランスをどのように取るかが、今後のドイツの環境政策の成否を左右する重要なポイントとなる。 もうこのように、環境問題というのは厳しすぎる現実にぶち当たっている。 現実といえば、貧困層の人は...