まず私はおっさんによく嫌われます。あらゆるところでおっさんに嫌われるんです。実はおっさんはあらゆるところにいるんです。 例えば私は嫌なことは嫌だと言います。 生活保護の窓口で、こう言うことを言われたことがありました。 「自己責任で全てやってください」 わたしはこう言いました 「生活保護というのは政策として重要な公助の部分をになっています。それをやっているあなたが自己責任で全てやれというのはあなたの業務そのものを冒涜していることになりますけどいいのですか」 意外と私、そういうことも言いますのよ。そんなアホみたいな話があるかと思ったんでムカついて言ったんです。黙ってられるかいな。アホくさい。 そうすると生活保護の上の方のおっさんに嫌われるのです。 こういうふうに言い返す生活保護受給者はいないと彼は思っているんです。なめたらあきません。そういう偏見のある職員のことをおっさんと私は呼ぶのです。いるでしょ?そういうおっさん、あちこちに。 もちろんその上の方のおっさんであるからと言って空気は読まないです。彼は私の上司ではありませんし。 私はいつも意味のないおっさんの意見に振り回されず、その説明もしっかりとしますし求めます。この時のように。 おっさんは私を馬鹿にしたいみたいですけど、私はおっさんを嫌いなだけで馬鹿にはしていません。アホみたいなことを言うなあと思っているだけです(笑) 私は障害者で生活保護を受けて生きていますが、結構そういう生活を工夫して楽しんでいます。お金がないなあということが多いのは事実です。だから野菜を育て始めました。そしたら面白くてハマっています。 こうやって面白そうに暮らしているのがおっさんには嫌みたいで嫌われやすいです。実際に近所の何かしら不自由が生まれてきたようなおっさん、例えば近所に住む、定年になってやることがなく怒ってばかりのおっさんにも嫌われましたし、支援を受けることなく糖尿で透析に通っているおっさんにも嫌われました。どっちもD Vっぽいおっさんでしたわ。 私はおっさんが何かを我慢しているから私にも同じく我慢して苦しめと言っているように思います。 でも私はそうしません。やることもいっぱいあるし、考えたいこともあるし、支援も受けています。そうやって楽しく暮らせるようにしているのです。全く我慢がないとは言わないけれどそれを少なくする努力をしているとい...
日本のメディアは、ジェンダー問題を歪曲し、隠蔽する役割を果たしている。 長年、男性中心の社会構造が根付いた結果、メディアもその構造を反映し、女性や、マイノリティの視点、そして、被害者の声を無視する報道が繰り返されている。 これは、単なる報道姿勢の問題ではなく、社会構造そのものの問題である。 特に、性犯罪や、セクハラといったジェンダー問題において、メディアの偏向報道は顕著である。 被害者の証言は軽視され、加害者の言い分が強調される。 被害者のプライバシーは、まるで公開処刑のように晒される一方、加害者のプライバシーは、徹底的に守られる。 この不均衡は、メディアが、男性中心的な価値観に染まっていることを示している。 例えば、中居 フジテレビ事件を報道したケースを考えてみよう。 報道は、加害者の地位や、権力に焦点が当てられ、被害者の苦痛や、損失は、ほとんど「人権への配慮」という言葉によって無視された。 加害者側の釈明は、詳細に報道された一方、被害者の証言は、断片的にしか伝えられなかった。 この報道は、視聴者の共感を、加害者へと誘導する効果があった。 結果として、被害者は、二次被害に苦しむことになった。この場合の二次被害ということについては前項を参照してほしい。 これは、単なるミスや、不注意ではない。 メディアは、意図的に、ジェンダー問題を歪曲し、隠蔽している。 視聴率を上げるため、あるいは、スポンサーの意向に沿うために、事実を操作したり、都合の悪い情報を隠蔽したりする。 女性や、マイノリティの視点、そして、被害者の声は、都合が悪いから、無視される。 この男性中心的な報道姿勢は、社会全体に悪影響を与えている。 女性や、マイノリティは、声を上げにくくなり、ジェンダー不平等は、ますます深刻化する。 メディアは、社会の鏡であるべきだが、日本のメディアは、その鏡を歪ませ、社会の病理を隠蔽する役割を果たしている。この場合のメディアというのはテレビや新聞のみならずネットメディアというものですらそうなのだ。 メディアの改革は、この社会全体の改革に不可欠である。 ジェンダー平等を実現するためには、メディアも、その責任を自覚し、女性や、マイノリティの視点を取り入れた、公平で、正確な報道を行う必要がある。 そして、私たち市民も、メディアの報道内容を批判的に吟味し、ジェンダー平等に対す...